テラーノベル
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鏡を割った夜、奈々は高熱を出した。
朦朧とする意識の中で、夢とも幻ともつかない映像を見た。
そこは5年前の病院の屋上。
風が吹いていて、母がそばにいた。
白衣の看護師たちが遠くに見えたが、彼らの顔は、どれも奈々の母の顔だった。
「奈々……あなたは、覚えていなくても……私には、わかるの。
あなたの声、あなたの匂い、あなたの涙——全部、私の中にあるの」
“母”は奈々にそっと触れた。
その手が、灰のように脆く崩れていく。
「ねえ……私を消すとき、ほんの一瞬だけ、真奈が戻っていたの。
あなたの声が、あまりにも、懐かしかったから」
目が覚めた時、奈々は泣いていた。
その涙が、悲しみだけではなく、“母”との最後のつながりだったことに、気づいていた。
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一方、亮太は自宅の地下室で、母・赤井紗枝の旧い日記を開いていた。
それは10年前から続く観察記録のようなものだった。
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《紗枝の記録:抜粋》
・2013年4月——自分とそっくりな“誰か”が台所に立っていた。
・2015年——鏡の中の自分が、言ってもいない言葉を口にする。
・2018年——息子が、自分を“違う人”と呼ぶ。皮膚の乾燥が激しくなる。
・2020年——皮膚科では診断不能。内側から“誰か”が動こうとしている感覚。
・2023年——鏡に写った“もうひとりの私”が、「あなたは私なの」と言った。
・2024年——“灰”が部屋中に積もり始めた。
・2025年——もう、自分が誰かわからない。
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亮太はページを閉じた。
その時、部屋の空気が一瞬で冷たくなった。
鏡もない、窓もない地下の壁の向こうから、“声”が聞こえた。
「——あなたも、私に気づいたのね?」
その声は、母に似ていた。でも、言葉の重みがまるで違った。
内側から響いてくる。皮膚の中から。
亮太は背中を強く引き裂かれるような感覚を覚えた。
鏡など、もう必要ない。
“灰の女”は、すでに彼の中に入り込んでいたのだ。
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一方、楡野家でも異変が起きていた。
鏡を割った翌朝、祐介が言った。
「真奈が……“いない”」
ベッドに横たわっていたはずの植物状態の真奈の体が、まるで“抜け殻”のようになっていた。
顔には、表情がなかった。
血色も温もりもあるのに——魂だけが、抜けていた。
奈々は、何かが決定的に“戻らない”ことを理解した。
(私は……母を、完全に消してしまったのか?)
そのとき、妹の羽奈がふらりと現れた。
「お姉ちゃん……あの夜、鏡の中で誰かが泣いてたの。
お姉ちゃんの声で、“おかあさん、ごめんね”って……」
奈々は、はっと息を飲んだ。
(私の中にも、“灰の女”はいたのか?)
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学校でも奇病の症状は進行していた。
生徒の数人が、口角の裂傷や無感情化を訴え、保健室は連日満室。
町の病院では、ある種の“皮膚の異常硬化”として対処されていたが——
本質は皮膚ではない、“記憶”の病だった。
「亮太……あんた、大丈夫?」
奈々は放課後、図書室で彼と再会した。
だが、彼の目は赤く充血し、まるで“別の誰か”を見ているようだった。
「奈々……俺、たぶんもう……“入ってる”。
母さんだけじゃない。俺も……中から、侵食されてる」
奈々は彼の手を握った。
「それでも、私がいる。
もしあなたが“誰か”に食べられそうになったら……私が取り戻す。
あの人にしたように——私が、壊してあげる」
亮太は微笑んだ。
「ありがとう。でもそれって、俺との思い出を壊すってことだろ?
……皮肉だな。愛してるほど、記憶が喰われる」
奈々は静かにうなずいた。
「でも、愛してるからこそ……救えるのかもしれない」
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その夜。
奈々の皮膚に、異変が現れた。
まるで“誰か”が、内側から小さな手で触っているかのような、感触。
そして——鏡もない部屋の壁に、“奈々”の顔が浮かんだ。
笑っていた。
ほんの少し、口元が裂けていた。
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