テラーノベル
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秋は駆け足に過ぎて行き、日毎ひごとに頬当たる風が冷たくなっていく。
工藤はコートの前を掻き合わせながら出先から戻ってきた。ホテルのエントランスが視界に入ったとき、自動ドアの前で足踏みを繰り返している青年の姿が見えた。
「レトロターコイズ?」
覚えたての単語を工藤は呟いてみた。青のような明るい緑のような、その二つを混ぜたような色。それをレトロターコイズというらしい。工藤の娘が最近スマホを買い替えて、新しいカバーに選んだ色がその色だった。
レトロターコイズ色のリックサックを背負いベルトを握り締めて、扉の前に立っている青年の姿に工藤の頬が自然と綻んだ。
「こんにちは、暖人さん」
工藤はそっと近づいて声をかけた。すると暖人は弾かれるように振り返り、何も言わずにしばらく大きな瞳で工藤をじっと見ていた。
まだ覚えてもらえていないのかな。
工藤はちょっとがっかりしてしまった。だが、暖人は顔をあげて、空を仰ぎ見るように視線をあげた。暖人の中で記憶と記憶を繋ごうとする、何かを考え、何かを思い出そうとするときの仕草だということを暖人と数回会ううちに知った工藤は、暖人が何かを言うまで待つことにした。
「こんにちは、工藤さん」
はっきりと大きな声で暖人は言って笑った。思わず工藤の顔にも満面の笑みが広がった。
「今日はお一人ですか?」
工藤が聞いた。周りを見回しても夏夫の姿はどこにもない。
「はい、バスで来ました」
感心した工藤はほおっと声をもらした。
「バスですか。それは大変でしたね」
工藤が言うと、暖人は首を大きく振った。
「バスに乗ったら、座席にきちんと座ります。そうすれば結さんのところまで来られます。結さん、どこにいますか? 会いたいです」
会いたいですー。
その言葉に工藤の心拍数が急にあがった。
暖人の大きくて澄んだ瞳は、暖人の純粋な人柄を表している。そんな暖人の言葉は、ストレートで心から会いたいのだということがよく伝わってくる。伝わり過ぎて工藤でも少し動揺してしまうほどだ。暖人の「会いたい」に結に対して恋愛感情が含まれていたら。工藤の中に一抹の不安が過った。
暖人に偏見も差別もしていないつもりでいた。だが一瞬、「結さんはいない」と嘘をついた方が、結の為ではないかと思ってしまった。けれど。
「代表はオフィスにいますよ」
工藤は正直に伝えた、だが、わかりづらい言い方をしてしまったと思い言い直した。
「中に入りましょう。ここは寒いです」
暖人の歩調に合わせて、自動ドアの中へ並んで入って行った。
扉をノックする音に結は顔を上げた。
「失礼します。代表にお客様がみえています」
オフィスに入って来た工藤は言った。
「お客様?」
今日はそのような予定はなかったはずだ。 突然の訪問者と言われて、結は真っ先に春日凛太郎のことが思い浮かび、そのたびに表情が硬くなる。
「こちらへどうぞ」
手招きをする工藤の表情には、いつものように柔らかい笑みが浮かんでいる。工藤に凛太郎のことは話していないが、工藤が面識のない訪問者をこんな笑みを浮かべて招き入れるとは思えない。工藤の後ろから現れた訪問者に、結も思わず笑顔になった。
「暖人さん」
座っていた椅子から立ちあがり、結は暖人を迎えた。暖人に続いて夏夫も入って来ると思っていたが工藤は扉を閉めた。
「今日はお一人で来られたそうですよ」
工藤が言う。
「バスで来ました」
「バスで? それは遠かったでしょう?」
暖人の家から車でなら十五分ぐらいでホテルまで来られるはずだが、駅から出発する路線バスはいくつかの住宅地を通り、総合運動公園と美術館の前を通り、終点のコヅカグランドホテルまで来る。
「三十五分十二秒かかりました。運賃は五三〇円。車内での両替は極力控えてくださいとのことだったので、今日はぴったり五三〇円持っていきました」
結はくすくすっと笑った。
「前にも乗ったことがあるのですか?」
「はい。受賞式の日に乗りました。僕がバスに乗りたいと言って、お父さんが受賞のお祝いだからと言って、あの日もバスで来ました」
「そうでしたか。さあ座りましょう」
結はソファーを指差したが、暖人は首を振って拒んだ。
「急いでいます」
結は工藤と顔を見合わせた。言われてみれば、いつもはゆったりした口調で話をするのに、今日はなんだか落ち着きなく身体を前後に揺らして目も合わせてくれない。何をこんなにも焦っているのだろうか。
「暖人さん、今日お父さんは?」
結が聞いた。
「お父さんは家にいて寝ています」
「ご病気なの?」
「んんんー? 熱はありません。だから風邪ではありません」
「代表に会いたいと言って、ここまで来てくれたのです」
小声で言う工藤に結は頷く。一度乗っただけで、乗車時間も運賃も覚えてしまうのが暖人だ。一人でバスに乗って来られたことに不思議はないのだが、結は妙な胸騒ぎがした。
結は暖人の正面に立って、真っすぐ暖人を見て聞いた。
「ねえ暖人さん。おうちで何か困ったことかあったの? だからここまで来てくれたの?」
「お父さんは、三日前に腰がううってなって寝ています」
腰がうう?
結と工藤は顔を見合わせた。何か閃いたのか、先に表情を明るくしたのは工藤だった。
「ぎっくり腰ではないでしょうか?」
それなら暖人の説明とも合っている。
「暖人さん。私に会いに来てくれたのは、他にも困ったことがあったからなのね」
「はい、困ったことがあります。翠さんです」
はっきりとした暖人の口調に、結は息を飲んで表情を強張らせた。
「翠さんが泣いています。昨日からずっと泣いています。何かの病気ですか?」
「泣くって…、どうして?」
結は思わず聞き返した。
「結さんに会えば元気になるかなって思って呼びに来ました。次のバスは四分二十七秒後です。急がないと乗り遅れます」
「車を回します。その方が速い」
工藤は言い、オフィスから駆け出して行く。
「私たちも行きましょう」
結は暖人の手を取って歩き出した。
コメント
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ああ、すごく良かった…!暖人が一人でバスに乗って「会いたいです」って、あのストレートな言葉に工藤さんが動揺するところ、胸にきたわ。結さんも思わず笑顔になっちゃうのがわかる。からの「翠さんが泣いています」で一気に空気変わって、次どうなるんだってなる。暖人の純粋さが全部を動かしてる感じ、めちゃくちゃ沁みた🔥