「えっと、それは単純に気にしないでってこと?」
香苗の言葉に、睦美は動揺する。元から気に病まないでいられる性格なら、こんなに怯えてはいない。一人でやって来た期間の長い香苗ほど、自分は強くはいられない。
聞き返した睦美に対して、香苗は少し悪戯っぽい笑顔を見せて言った。
「結構前からね、うちの催事としてやってみないかって話を貰ってたんだよね。でも、その時はこんな知り合いばかりのところでは無理ですって断ってたんだけど――」
「え、催事って五階の⁉︎」
「ううん。催事場じゃなくて、子供向けのイベントとして四階フロアで。たまにやってるでしょう? 絵本の読み聞かせとか、ハイハイレースとか」
五階のレストラン街に隣接した催事場は、主にお中元やお歳暮コーナーや物産展などで使われる。今、香苗が話しているのは四階のキッズフロアの一角、イベントスペースのことだ。小さな子供が遊べるプレイコーナーやベビールームの横にあり、子供向けの催しが定期的に行われている。
「だからね、私としてはコソコソと裏で噂されるくらいだったら、会社公認で堂々とやってやろうかなって思うんだけど――」
どうかな? と首を傾げてみせる香苗に、睦美は思わず噴き出しそうになった。佐山が面白おかしく拡散して回っているのも、それはそれで一種の宣伝になってくる。そう付け加えた香苗の頼もしい表情は、フォーマル売り場の物静かな柿崎さんじゃなくて、今はメイクも衣装も無いのに完全なリンリンお姉さんだった。
「まあ、勤務の一環としてやることになるだろうし、当然ステージに対してのギャラは無いし、イベントに合わせて売り場を抜け出すことになるけどね」
一人で活動していた時に持ち掛けられた話で、当時は速攻で断ったというその提案も睦美と二人ならやれそうな気がすると、香苗も覚悟を決めたらしく、かなり乗り気だ。睦美も、どうせ会社中の人達に吹聴して回られるくらいならと、少し照れ笑いを浮かべながらも頷き返した。
「やろう。やってみよ!」
「了解。私、これからフロアマネージャーに話してくるね。この時間帯なら事務所にいるかなぁ?」
腕時計を確認してから、香苗は手早くお弁当を片付け始める。睦美も残りの海鮮丼を掻き込んで、急いで売り場へと戻ることにした。ずっとピアノのお姉さんをしていることは黙っていたけれど、公認で活動することになるのなら先輩である小春へは前もって打ち明けておくべきだ。きっと彼女なら、あの佐山夫妻への上手な対処法を心得ているはず。
チラシやホームページでの告知の都合もあるからと、イベントが開催されるまでは意外と余裕があった。子供向けという限られた客層を対象にしているから、そこまで派手な宣伝をされるわけではなく、四階フロアのプレイスペースに張り出された月間イベントのポスターの片隅に小さく載せてもらったくらいだろうか。でも、頻繁に店に遊びに来ていた佐山千佳はそれらの存在にはすぐ気付いたみたいで、夫である佐山チーフからも目立って何かを言われるようなことは無くなった。
「えー、職場で演奏とか、余計な緊張しそうだよねー」
休日に姉の里依紗に呼び出されて、睦美は沙耶へとピアノの弾き方を教えていた。淳史を抱っこしてあやしながら、姉はからかうような笑みを浮かべている。
「ねえ、これってさ……」
姪っ子が人差し指で左から順に押していく鍵盤を見下ろしつつ、睦美が姉に問う。この見覚えのある電子ピアノは年式こそ違うけれど、メーカーやサイズ感など睦美が持っているのとほとんど同じだ。
「それねー、結婚した時の引っ越し荷物の中に紛れ込んでたやつ」
「……やっぱり」
「あ、やっぱりお母さんの仕業だよね? 多分そうだろうなとは思ってたんだけど、いちいち確認するのも悔しくてさー」
「もしかして、睦美も?」という姉の問いかけに、睦美は渋い表情を作って黙って頷き返した。家を出ていく娘の荷物へ許可なく電子ピアノを忍ばせる母親。そんな親は世界中どこを探してもいない自信がある。
「でもまあ、物は良さそうだし、売ったりせずに取っておいて良かったわ。さーちゃんが気に入って使ってくれてるし」
淳史が眠り始めたと言って姉が声のトーンを落とすのに合わせて、睦美もピアノのボリュームを調整する。沙耶の隣に座り直して、お手本に簡単な曲を弾いて見せると、キラキラした瞳が睦美の顔を覗いてくる。前から結構懐いてくれているとは思っていたけれど、ピアノのお姉さんとして活動するようになって以降、姪っ子との距離はさらに縮まった気がする。
「むっちゃん、かっこいいねー。さーちゃん、大きくなったら歌のお姉さんじゃなくて、ピアノのお姉さんになることにしたよ!」
来年から通う予定のピアノ教室は、音大を出たばかりの優しそうなお姉さんが先生なのだと、里依紗が安心したように言っていた。
「学生の時からバイトで教えてたらしいんだけど、すごく教えるのが上手なんだって。生徒さん達の親から卒業後も続けて欲しいってお願いされて、四月から自宅で教えることにしたらしいよ」
「へー、すごく良さそうだね」
先生との相性は大事だと、姉妹は納得するように頷き合う。教えてくれるのが母でなかったら、自分達はあんなにピアノを毛嫌いすることは無かったと思わずにはいられない。
「そうだ、さーちゃん、ピアノ作ったんだよ。むっちゃんにもプレゼントしてあげるー」
「ピアノを?」
聞き返した睦美をよそに、沙耶がリビングの隅っこに置いてあった玩具箱に顔を突っ込んで、ゴソゴソと中から何かを取り出してくる。そして、大事そうに両手で包み込んで「はい」と笑顔全開で手渡してくれたのは、折り紙で作られたピアノ。折り紙の色がピンクなのは、沙耶が今一番大好きな色だからだと説明してくれた。
「ありがとう」とお礼を言いながら、睦美は姪の頭を優しく撫でた。沙耶のニコニコ笑顔はいつも睦美に大きな自信を与えてくれる。完全な叔母バカだ。
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