どのくらいの集客が見込めるかが分からないと、平日に開催されることになったミニコンサート。『歌とピアノのお姉さんがやってくる』と大きく書かれたボードの前に設置されたステージ。そこまで広くはないスペースだからか、睦美の為に用意されたのは電子ピアノで、控室も無いから四階のバックヤードの隅っこでの打ち合わせだった。
「自社社員とはいえ、扱い悪っ!」
「むっちゃん、さっきまで売り場が忙しかったんでしょう? 平気?」
「まあ、何とか。朝一で大量ラッピングが来たけど、鞄の笠井さんにヘルプに入ってもらえたから……」
「大量って何? ハンカチ?」
「そう、全部柄は別で三十枚。退職する会社の人達に配るんだって。一枚用のギフトケース、地味に包みにくいんだよねぇ」
「あ、私、それ結構得意だよ」
「本当ー? 次、大量に来た時は頼みに行っていい?」
そんな取り留めの無い会話をしながらも、緊張で冷たくなりかけている指先を擦り続ける。スタッフオンリーと書かれた観音扉の向こうの様子は裏からは全く分からない。開店前に一度やったリハーサルは早番のスタッフ達からの視線を遠巻きに感じたくらいだったけれど。
イベントの開催を知らせる店内放送がバックヤードにいても聞こえてくる。
「じゃあそろそろ、三好さん――じゃなかった、ピアノのお姉さん、よろしくお願いしまーす」
今回のイベントの責任者でもある子供服売り場のチーフが、照れ笑いしながらイベントの開始を告げてくる。進行役と演者が同僚だと、どうもグダグダになりがちなのはお互い様だ。
香苗より一足先に扉の向こうへと踊り出た睦美は、狭いステージを取り囲む沢山の親子連れの姿が目に飛び込んできて、思わずハッと息を飲んだ。その後、改めて気を引き締め直すように大きく深呼吸する。
大人も子供もごちゃ混ぜの会場で、みんながコンサートが始まるのをワクワクした表情で待っている。中には何度も見かけたことのある親子もあり、二人のトレードマークでもあるツインテールの女児も目立つ。今日のイベント情報を聞きつけて駆け付けてくれたのだと分かった。
観覧席として用意されたパイプ椅子はほぼ満席。ショッピングモールの時ほどでは無かったけれど、その後ろに立って眺めている親子も多い。睦美達の提案で椅子スペースの前にはマットが敷かれていて、靴を脱いだ子供達がお行儀よく座っている。もちろん、そこにはツインテールを揺らした沙耶の姿もあった。
今回のイベントの様子を自社ホームページで紹介する為のカメラもスタンバイしていて、余計な緊張感を煽ってくる。
睦美はふぅっと大きく息を吐いて呼吸を整えてから、ステージ裏を隠すように設置されていたパーテーションから姿を現した。そして、笑顔で子供達へと手を振りながらピアノの元へと近付いていく。椅子に座り、もう一度大きく深呼吸した後、鍵盤に指を置いて子供達の大好きなアニメ主題歌のメロディを奏で始めた。視線が一斉に自分のところへと集まったのをひしひしと感じる。まだフロア内を走り回っている子供達の興味を引くように、長めにアレンジした前奏は、歌のお姉さんがステージに上がりきったのを確認し終えるまで続ける。
「みんなー、こんにちはー」
睦美の弾き出すメロディーに乗せて、マイクを手にした香苗が子供達に向けて手を振り、声を掛けながら登場する。ついさっきまで真っ黒のフォーマルスーツを検品していたとは思えないほど、明るくて華やかなリンリンお姉さんに扮した佳苗。赤とピンクのリボンを結んだツインテールを揺らして、透明感のある耳心地の良い声で堂々と歌い始めた。
最初は大人しくしていた子供達も、マットの上で立ち上がり、歌に合わせて自由に身体を揺らしている。二曲目の行進曲では大きく飛び上がって全身で楽しさを表現する子の姿もあり、香苗もピアノを演奏しながら歌うと、一緒になって歌詞を口ずさんでくれていた。
睦美のところからは沙耶がいつも以上にはしゃいでいるのがよく見えたし、睦美と目が合うと嬉しそうに両手を振って応えてくれていた。
三曲目に用意していた童謡は、いつも通りに香苗が一人で優しく歌い上げる。彼女の歌声に合わせて上半身でゆっくりリズムを取りながら演奏していた睦美は、ふいに観客の方へと視線を送ってみる。
そして、立ち見している客の中に佐山千佳が娘を抱っこしながら、一緒になって身体でリズムを刻んでいるのを見つけた。睦美がその時に見た千佳は、変なマウントを取ろうとする嫌味な先輩なんかじゃなくて、ただの普通の優しいお母さんの顔をしていた。子供が喜ぶからと、大きなお腹を抱えながらイベントに連れてきてあげる、子供思いの母親。反対に、その隣で苦虫を噛み潰したような顔でステージを忌々しそうに見ているのは、その夫だ。妻子が喜んでいるのだから、もう何も言えないとかなり悔しがっているように見え、睦美はくすりと声を出さずに笑った。
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