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現実と非現実の狭間で:信頼と回復の物語
入院前:閉ざされた世界
葛葉は、まるで透明な膜に覆われているような感覚の中にいた。人が多い場所では、無数の声が耳鳴りのように響き、視界は歪んだ顔の波で埋め尽くされる。まるで、目の前の人々が、過去の自分を嘲笑う亡霊のように見えた。
「お前なんかいらない」「消えろ」「ぜんぶ、お前のせいだ」
幻聴は容赦なく葛葉を追い詰める。特に、過去のトラウマを責め立てる声が脳内に鮮明に響くと、パニックに陥り、呼吸すら困難になった。人が少ない静かな場所でも、幻聴は止まらなかった。むしろ、静寂が、頭の中で繰り返される罵声や、あの日の悲鳴をより際立たせた。
唯一、その苦痛から逃れられるのは、リストカットの痛みだけだった。手首に走る鋭い痛みが、幻覚や幻聴のボリュームを一時的に下げる。それは、葛葉にとって、生きるための、そして正気を保つための、最後の手段だった。
しかし、その行為は、彼の身体だけでなく、心を深く蝕んでいた。食事は喉を通らず、眠れない夜が続き、体重はみるみるうちに減っていった。ある日、心配して訪ねてきた友人が部屋で倒れている葛葉を発見し、彼は半ば強制的に精神科病院へと運ばれた。
初めての出会い:静かなまなざし
病院の診察室は、葛葉にとって、ひどく圧迫感のある場所だった。白い壁、冷たい机、そして、向かいに座る見知らぬ医師。彼の心は、完全にシャットダウンしていた。頭の中では、幻聴が止まらない。
「葛葉さん、初めまして。今日からあなたの担当医になりました、叶です。」
医師の声は、想像していたよりもずっと穏やかで、心地よい響きがあった。葛葉は顔を上げられずにいたが、ふと、視界の端で、何か温かいものが動くのを感じた。それは、机の上にそっと置かれた、花瓶に生けられた小さな白い花だった。無機質な部屋の中で、その花だけが微かな生命感を放っている。
「無理に話さなくても大丈夫ですよ。今日は、まずあなたのことを少しだけ教えてもらえませんか?」
叶はそう言って、葛葉の手元に無地のノートとペンをそっと置いた。ノートの表紙は温かみのあるクリーム色で、触れるとざらりとした感触がした。
「もし、言葉にするのが難しければ、ここに書いてもらっても構いません。どんなことでも、あなたのペースでいいですから。」
葛葉は、叶が自分を急かさないことに驚いた。これまでの医師は、いつも質問攻めにしてきた。まるで、彼の内側に踏み込もうとするかのように。だが、叶はただ、静かにそこにいる。葛葉は、恐る恐る顔を上げた。叶の目は、まるで深い湖のように穏やかで、葛葉の警戒心を少しずつ溶かしていった。その瞳には、非難の色も、憐憫の色もない。あるのは、ただ純粋な理解と、深い受容だけだった。その瞬間、葛葉の心に、微かな、しかし確かな光が差し込んだ気がした。「この人なら、もしかしたら……」
葛葉は、ゆっくりとペンを手に取った。震える指で、ノートの最初のページに、細く、しかし確かな線で自分の名前を書き記した。「葛葉」。それだけの行為が、ひどく重く感じられた。
叶は、その様子をじっと見守っていた。焦らせることもなく、ただ、葛葉が次の行動を起こすのを待った。その静かな見守りが、葛葉の心の重荷を少しだけ軽くした。彼は、ノートに書き始めた。自分がいつから、どんな幻聴や幻覚に苦しんでいるのか。人が多い場所と少ない場所で症状が悪化すること。そして、リストカットに走ってしまう衝動のこと。言葉にできない感情を、ひたすら文字に変換していく。時折、ペンを握る手が止まり、息を詰める瞬間もあったが、叶は何も言わずに、ただその場で待った。
やがて、葛葉がペンを置いた。ノートの半分ほどが、彼の苦悩で埋め尽くされていた。叶は、そのノートをそっと手に取り、一つ一つの言葉を丁寧に読み込んでいく。読み終えた後、叶は深く息を吐き、静かに葛葉を見つめた。
「辛かったですね。よく、ここまで一人で耐えてきました。」
叶の言葉は、葛葉の凍りついた心を、温かい毛布で包み込むようだった。彼は、長年誰にも理解されなかった苦しみが、今、目の前の医師に確かに伝わっていることを感じた。
「葛葉さん、あなたは、この病院で安全です。ここでゆっくりと休んでください。そして、俺は、あなたの苦しみをあなたと一緒に乗り越えたいと思っています。あなたは一人じゃない。」
叶は、葛葉の手元にあるノートをそっと閉じ、彼に返した。
「今日は、これで終わりにしましょう。疲れたでしょうから、ゆっくり休んでください。何かあったら、すぐにナースコールを押してくださいね。俺は、いつでもここにいますから。」
葛葉は、ただ頷くことしかできなかった。診察室を出ると、外の廊下が、さっきまでよりも少しだけ明るく見えた。ポケットにしまったノートの重みが、葛葉の心に、新しい希望の兆しを灯していた。
入院生活:微かな光
白い壁と消毒液の匂いが鼻につく、個室の病室。葛葉はベッドの上で、膝を抱えていた。窓の外はまだ薄暗く、夜が明けるにはもう少し時間がかかりそうだ。頭の中では、いくつもの声が木霊している。心臓が嫌な音を立てて波打っていた。
その時、コンコン、と控えめなノックの音がした。
「葛葉さん、叶です。入ってもいいですか?」
叶はすぐにドアを開けて入ってくることはせず、ただ静かにその場で待った。しばらくして、再び叶の声が聞こえた。
「葛葉さん、眠れてないでしょう? 少しだけ話しませんか。無理に話さなくても、俺がここにいるだけでも、少しは違うかもしれません。」
葛葉は無言で首を横に振った。指先が、無意識のうちに手首を探す。痛みが欲しかった。この不快な音を、一瞬でもいいから消し去るための痛みが。
叶はそんな葛葉の様子を見逃さなかった。彼の視線は、葛葉の固く握られた拳、そしてその先にある手首へと向けられた。しかし、何も言わない。ただ、じっと葛葉の目を見つめ返した。
「聞こえていますか、葛葉さん?」
叶は静かに尋ねた。葛葉は小さく頷く。
「どんな声ですか? よければ、俺に教えてくれませんか?」
葛葉は迷った。「変だって思われる……」しかし、叶の目は、葛葉の警戒心を少しずつ溶かしていく。
「……うるさい、です。」
葛葉は、絞り出すように呟いた。
「たくさんの声が、『お前のせいだ』って……『消えろ』って……」
言葉にするたびに、幻聴のボリュームが再び上がった。葛葉がそう言いかけたとき、叶の手がそっと彼の震える手の上に重ねられた。ひんやりとした叶の指先が、葛葉の熱を持った肌に触れる。その瞬間、幻聴が、まるで遠くの雷鳴のように、わずかに遠ざかるのを感じた。
「大丈夫ですよ、葛葉さん。俺はここにいます。どんな声が聞こえても、どんなものが見えても、俺はあなたと一緒に、ここにいますから。」
叶の声は、まるで降り注ぐ木漏れ日のように葛葉の心を照らした。彼の言葉は、葛葉が最も恐れていた「一人ぼっち」という現実を、優しく否定してくれた。
幻覚の奥に潜む真実
叶は日々の診察の中で、葛葉が幻覚や幻聴に囚われる具体的な状況を丹念に記録していった。
ある日、病室に飾られた花瓶の音が、葛葉の顔色を一変させた。ガシャン、とガラスが割れる幻聴に、葛葉は両手で耳を塞ぎうずくまってしまった。
「葛葉さん! 大丈夫ですか?」
叶が駆け寄ると、葛葉は震える声で呟いた。
「見えない……見えない……! 来るな、俺に触るな!」
「何が見えますか? どんな音が聞こえますか?」
叶は、葛葉を優しく抱きしめながら、彼の「非現実」に寄り添おうとした。
「あの、あの人が……ナイフ持って……っ! お前なんかいらないって……!」
葛葉の言葉から、叶は葛葉が抱えるトラウマが家庭内の暴力にあると推測した。父親からの暴言と暴力。母親は見て見ぬふりをした。そしてある日、父親がナイフを手に母親を脅し、花瓶を叩き割った。その時の恐怖と絶望が、葛葉の深層心理に刻み込まれ、現在に至る幻覚・幻聴の根源となっていたのだ。
痛みの乗り越え、そして新たな一歩へ
叶は、葛葉が幻覚や幻聴に襲われた際、安易に薬に頼るだけでなく、彼自身の力で乗り越える方法を見つけ出すことに重きを置いた。
「葛葉さん、もし幻聴が聞こえたら、心の中で『これは幻聴だ』と唱えてみてください。幻覚が見えたら、目を閉じて、深呼吸をしてください。俺がそばにいますから。」
最初はうまくいかなかった。幻覚や幻聴は葛葉を追い詰め、そのたびに彼はリストカットに走りそうになった。「やめろ……俺を、一人にするな……!」しかし、叶は決して諦めなかった。葛葉の手首を優しく掴み、その手を別の場所へと誘導した。
「痛みが欲しいなら、ここに力を込めてみませんか?」
そう言って、叶は葛葉に、強く握りしめても安全なストレスボールを渡した。
「このボールの感触に集中してみてください。聞こえる声は、幻です。あなたは、安全な場所にいます。俺が、ここにいますから。」
葛葉は、叶の言葉に、生まれて初めて「自分にもできること」があるのだと知った。叶との信頼関係は、日々の積み重ねの中で、確固たるものになっていった。葛葉は、次第に自分のトラウマについて、叶に話せるようになっていった。「父さんが……いつも怒鳴ってて……母さんは、何もしてくれなくて……」叶は、葛葉の言葉を一言一句聞き漏らさず、その全てを受け止めた。
数ヶ月後、葛葉の症状は著しく改善していた。幻覚や幻聴は完全に消えたわけではなかったが、彼自身の力でコントロールできるまでになっていた。過去の傷跡は残っていたが、新たな傷は一つもなかった。
退院後:開かれた未来と通院
「叶先生、ありがとうございました。」
退院の日、葛葉は、病院のエントランスで叶に深々と頭を下げた。叶はいつもの優しい笑顔で葛葉の肩に手を置いた。
「葛葉さん、あなたは本当に頑張りました。これは、あなたの努力の結晶です。もし、また苦しくなったら、いつでも連絡してください。俺は、いつだってあなたの味方です。」
葛葉は、病院を出て、久しぶりに大阪の街の空気を吸った。以前なら、人が多いこの場所は、葛葉にとって悪夢だっただろう。しかし、今は違う。確かに、ざわめきの中に微かな幻聴が混じることも、視界の端に歪んだ顔がよぎることもあった。だが、彼はもう、それに囚われることはなかった。
(これは、幻聴だ。これは、幻覚だ)
心の中でそう唱え、深呼吸をする。手の中には、叶からもらった小さなストレスボールが握られていた。ひんやりとした感触が、彼を現実に繋ぎとめる。
それから数ヶ月、葛葉は週に一度叶の診察室を訪れる日々が続いた。通院は、葛葉にとって叶に会える安らぎの時間でもあった。
「最近はどうですか? 困っていることはありませんか?」
叶はいつも、穏やかな笑顔で葛葉を迎える。葛葉は、学校での出来事や友人との些細な会話、そして幻聴が聞こえそうになった時の対処法などを、包み隠さず話した。
「この前、満員電車に乗ったら、ちょっとざわついて……でも、先生にもらったボールを握って深呼吸したら、大丈夫でした。前みたいに急にパニックになったりしなくて……」
葛葉がそう言うと、叶は「素晴らしいじゃないですか、葛葉さん。それは葛葉さん自身の力ですよ」と、心から喜んでくれた。その言葉が、葛葉の自信を育んでいく。叶は葛葉の小さな変化も見逃さず、常に肯定的な言葉をかけてくれた。
ある診察の終わりに、葛葉は意を決して、叶に尋ねた。
「先生は……俺のこと、気持ち悪いって思わないんですか? こんな俺でも、生きてていいんですか?」
叶は一瞬目を丸くしたが、すぐに優しく微笑んだ。
「どうしてそう思うんですか? 葛葉さん、あなたは誰にも迷惑なんかかけていません。そして、あなたが苦しんでいる幻覚や幻聴は、あなたが過去に経験した辛いことのサインです。それを乗り越えようと必死に頑張っている証拠なんです。俺は、あなたを『変』だなんて思ったことは一度もありません。ただ、あなたが抱えている痛みを、少しでも和らげてあげたいと、それだけを思っています。生きてていいに決まってるじゃないですか。あなたは、大切な存在です。」
その言葉は、葛葉の心を縛っていた鎖を、完全に解き放った。彼の目から、再び涙が溢れた。今度は、悲しみではなく、温かい安堵の涙だった。
葛葉は、叶からもらった小さなカードを握りしめた。そこには、叶の連絡先と、たった一言のメッセージが書かれていた。
「あなたは一人じゃない。」
葛葉は、その言葉を胸に、新たな一歩を踏み出した。彼の未来は、まだ不確かな部分も多い。しかし、もう、あの日のように、一人で暗闇を彷徨うことはない。彼の隣には、いつでも彼の味方でいてくれる叶先生がいて、そして、彼自身の内なる強さがあるのだから。