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七日目の夜が明けたあとも、何かが急に好転することはなかった。
ホグワーツの朝はいつもどおり来たし、食堂のざわめきも、授業の鐘も、廊下を行き交う足音も変わらない。
変わらないからこそ、余計に息苦しかった。
ハリーはその日も、ドラコと目を合わせなかった。
いや、正確には、一度だけ合った。朝の廊下で。ほんの一瞬だけ。だがその一瞬で互いに何か言いかけ、結局どちらも口を閉ざした。
その沈黙のあと、また日常だけが続いた。
昼過ぎ、ドラコのもとへ一羽の梟が来た。
食堂の窓辺に降り立った黒い羽。
マルフォイ家の紋章が押された封蝋。
それを見た瞬間、ドラコの表情がかすかに強張ったのを、ハリーは離れた席から見ていた。
封を切る指先が妙に硬い。目線が紙面を追うにつれ、顔から少しずつ血の気が引いていく。
ドラコは最後まで読みきると、手紙を折りたたんだ。
だがその動作は雑だった。いつもの彼ならあり得ないほど。
食事にはほとんど手をつけないまま、彼は席を立った。
誰にも声をかけず、そのまま食堂を出ていく。
ハリーは思わず立ちかけて、やめた。
追えばいい。
今ならまだ間に合う。
だが、七日間なにもできなかった人間に、その瞬間だけ急に正しい行動が取れるわけではなかった。
ハリーは椅子に座り直した。
その自分を、心の底から軽蔑した。
⸻
ドラコは食堂を出たあと、しばらくどこを歩いているのか自分でも分かっていなかった。
手の中の手紙は丸めてしまいたいほどだった。
だがそんなことをしても、中身は消えない。
監督生にもなれないとは。
期待外れにも程がある。
その程度の評価しか得られないなら、名前だけは立派な愚物だ。
ポッターには勝てず、学校内での立場も半端、いったい何ならできる。
父親らしい文面だった。
怒鳴り声ではなく、紙の上に整然と並んだ冷たい失望。だからこそ余計に効く。
ドラコは昔から、ああいう叱責に弱かった。
あからさまな暴力や激昂よりも、静かに価値を切り捨てられる言葉のほうがずっと深く刺さる。
監督生になれなかったこと自体は、事実としてもう受け止めていたつもりだった。
悔しくないわけではない。だが、悔しさと折り合いをつけるくらいの器用さは身につけたと思っていた。
でも、そこへハリーとのことまで重なっている今は違う。
父親の言葉が、そのまま胸の弱いところへ落ちる。
いったい何ならできる。
その問いに、今の自分は何一つまともに答えられない。
ハリーひとり大事に扱えない。
謝る勇気もない。
怒りを制御することもできない。
結局また、傷つく前にひどいことを言って、自分で自分の足場を壊した。
そんな自分が、父の言葉を否定できるはずもなかった。
気づけば、足は温室へ向かっていた。
ホグワーツの温室は、人の目を避けるにはちょうどいい場所だった。湿った土の匂い、葉の影、曇ったガラス。昼間でも静かで、声を潜めれば誰にも見つからない。
ドラコは一番奥の区画へ入った。
棚の影になった場所にしゃがみ込み、そのまましばらく動けなかった。
最初はただ、呼吸を整えようとしただけだった。
だがうまくいかない。
父の文面が頭から離れない。
ハリーの冷えた目も離れない。
中庭でこちらを見たあの一瞬も、食堂で手紙を読み終えたあとの惨めさも、全部いっぺんに押し寄せてくる。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
声が掠れていた。
泣くつもりなんてなかった。
そんなものはみっともない。
誰に見られるでもないのに、なお自分で自分を許せない。
でも限界は、案外静かに来る。
一度だけまぶたを強く閉じた時、そこから先はもう堰が切れた。
嗚咽になるほどではない。
ただ、どうしても抑えきれない涙が落ちる。歯を食いしばっても止まらない。こめかみの奥が熱く、喉が締まって、息がうまく回らない。
ドラコは片手で口元を押さえた。
誰にも見られたくなかった。
こんなところを見られたら終わりだと思った。
なのに。
「……ドラコ?」
その声がした瞬間、全身の血が止まった。
ハリーだった。
温室の入り口近くに立っている。
手には草花学の本。どうやらハーマイオニーに何かの資料でも頼まれて来たらしい。そんなことはどうでもよかった。
よりによって、なんで今なんだ。
ドラコは顔を上げられなかった。
涙を拭う手が追いつかない。呼吸が乱れているのも自分で分かる。
「見るな」
声はひどく低く、ひどく弱かった。
ハリーはその場で立ち尽くした。
いつもの彼なら、すぐ何か言ったかもしれない。名前を呼ぶとか、近づくとか、あるいは逆に気まずそうに下がるとか。
でも今のハリーは、ただ動けなかった。
見たことのないドラコがそこにいたからだ。
高慢でもない。
怒ってもいない。
皮肉もない。
ただ、ひどく追い詰められて、ひどく傷ついて、誰にも見られたくない顔でしゃがみこんでいる。
ハリーの胸に、ずしりと重いものが落ちた。
「……ごめん」
ようやく絞り出す。
「入るつもりじゃなかった」
ドラコは何も答えない。
肩が小さく震えている。片手に握られた手紙が皺だらけになっていた。
ハリーはそこで初めて気づく。
ただ自分とのことだけではない。何か別の痛みがある。
「ドラコ」
「やめろ」
「何があった」
「聞くな」
即答だった。
だが、その拒絶にはいつもの切れ味がない。むしろ、聞かれたら本当に崩れそうだから必死に押し返している声だった。
ハリーは本を足元へ置いた。
それから、ゆっくり一歩近づく。
「……手紙?」
ドラコの指がぴくりと動く。
もうそれだけで十分だった。
ハリーはそれ以上無理に中身を見ようとはしなかった。
ただ、息を詰めるようにして言う。
「お父さんか」
ドラコは何も言わなかった。
だが、その沈黙が答えだった。
ハリーはそこで、ようやく理解した。
この一週間、ドラコは自分との冷戦だけを抱えていたわけではないのだと。もともと脆いところへ、さらに別の重石が乗っていたのだと。
そんなことにすら気づかず、自分は自分の傷ばかり見ていた。
中庭でわざと見せつけた時のことが、急にひどく恥ずかしくなった。
自分の苛立ちと嫉妬を優先して、ドラコの状態を見ようともしなかった。傷ついたのは本当だ。だが、だからといって傷つけ返していい理由にはならない。
ハリーは一度だけ目を閉じた。
胸が苦しかった。
「……僕、最悪だ」
ぽつりとこぼれたその言葉に、ドラコがわずかに顔を上げる。
目が赤い。
頬には涙の跡が薄く残っている。
その顔を見た瞬間、ハリーは胸の奥が痛くてたまらなくなった。
「君があの日ひどいこと言ったのは、本当に腹が立った」
ハリーは静かに言う。
「でも、だからって僕がやったことがましになるわけじゃなかった」
喉が熱い。
「ジニーのことも、君に見せつけたことも、全部」
そこで言葉が途切れかける。
「ほんとに、ごめん」
ドラコは何も言わない。
ハリーはさらに一歩近づいた。
温室の湿った空気の中で、土の匂いと葉の青さが濃い。ドラコの泣いたあとの呼吸まで、はっきり聞こえる距離になった。
「僕、自分が傷ついたのが怖くて」
ハリーは正直に言った。
「それで、わざと君を傷つけた」
少しだけ口元が歪む。
「最低だよ。ほんとに」
ドラコの唇がわずかに動く。
だが言葉にはならない。
ハリーはそこで止まらなかった。
ここで止まったら、また中途半端になる気がした。
「君に言われたこと、ずっと引っかかってた」
低く続ける。
「どうでもいいんだって言われた気がして、すごく腹が立って、でもそれ以上に、そう思われてるかもしれないのが怖かった」
視線を落とす。
「怖いと、僕も駄目なんだ。まともじゃなくなる」
ドラコの指先が、ぐしゃぐしゃになった手紙をさらに強く握った。
ハリーはそれを見て、そっと言った。
「君だけじゃない」
温室の外で風が鳴る。
曇ったガラスがかすかに震えた。
「君ばっかり面倒くさいわけじゃない」
ハリーは苦く笑う。
「僕も同じくらい、いや、たぶんそれ以上に格好悪い」
一拍置いて、
「君が他の誰かのところへ行くかもしれないって思っただけで、頭の中がぐちゃぐちゃになった」
ドラコの睫毛が揺れる。
「それで、ジニーと……」
「うん」
ハリーは頷いた。
「最低だった」
はっきりと。
「本当に」
今度は、ドラコが目を閉じた。
肩の震えはまだ完全には止まっていない。けれど、さっきより呼吸が少しだけ落ち着いている。
ハリーはしゃがみこんだ。
ドラコと目線の高さを合わせるために。
「……手紙のことは、聞かない」
そう言ってから、少しだけ間を置く。
「でも、君が今しんどいっていうことだけは分かる」
その言葉に、ドラコの喉が上下した。
「分からないだろ」
掠れた声だった。
反発というより、最後の抵抗に近い。
「全部は分からない」
ハリーはすぐ答えた。
「でも、分からないからって放っておくのは、もう嫌なんだ」
その一言に、ドラコは何も返せなかった。
温室は静かだった。
ガラス越しの光は曇っていて、土は湿っていて、葉の影が二人の足元に揺れている。誰にも見られていない。泣いた顔も、謝る顔も、全部ここへ閉じ込められている。
ハリーはそっと手を伸ばした。
今度は、ドラコは避けなかった。
指先が、ぐしゃぐしゃになった手紙ごとドラコの手を包む。
冷たい。驚くほど。
「……ごめんね」
ハリーは小さく言った。
その言葉は、謝罪であり、懺悔でもあった。
一週間、自分の痛みばかり見ていたこと。わざと傷つけたこと。怖かったことを、ちゃんと怖いと言えずに別の形でぶつけたこと。全部まとめて、その一言に押し込めるしかなかった。
ドラコは俯いたままだった。
けれど、その肩から少しだけ力が抜ける。
「……今さらだ」
ようやく出た言葉は、まだ弱々しい皮肉だった。
でも、それで十分だった。
ハリーはほんの少しだけ口元をゆるめる。
涙で濡れた頬も、潰れた手紙も、今はまだ痛々しいままだ。何も解決していない。父親の言葉も消えないし、一週間の冷戦もなかったことにはならない。
でも、ようやく最初の一言だけは届いた。
「うん」
ハリーは静かに言う。
「今さらだよ」
そして、もう一度。
「それでも言いたかった」
ドラコは返事をしなかった。
ただ、握られた手を振り払わなかった。
そのかわり、ほんの少しだけ、指先に力を返した。
それはまだ許しではない。
仲直りでもない。
ただ、完全に閉じていた扉が、わずかに開いたというだけだった。
けれど今は、それで十分だった。