「じゃ、ボクはSchwarzの営業があるし
車で彼女の家まで
ついでに送ってってあげるよ!」
アラインが車のキーを
くるりと指に回しながら
笑いを堪えつつも涼しい顔で言った。
肩には薄くジャケットを羽織り
銀の懐中時計をちらりと確認する仕草すら
まるで芝居のように整っている。
「アライン!初めて優しいって思ったわ!」
レイチェルがぱっと手を合わせて笑う。
「⋯⋯ほんと
キミのボクに対するイメージって何な訳?
あ、でも⋯⋯その鳥を喋らせないでね?
笑って事故るから!」
アラインが苦笑しながら
バンのドアを開ける。
そこへ
引っ越しの主役たちが集まった。
後部座席に乗り込むのは
レイチェルとソーレン。
その横で
アビゲイルが少し緊張した面持ちのまま
肩に式神のオウムを乗せて
助手席へと収まる。
オウムはというと
冠羽をふわりと揺らしながら
誰よりも落ち着いた顔で車内を見回していた
その桃色の羽が夕陽に照らされ
柔らかく金に染まっていく。
「⋯⋯では、行ってまいります」
アビゲイルが時也たちに一礼すると
バンは静かに喫茶桜を後にした。
⸻
夕暮れの道を抜け
街の喧騒から少し離れた高台へ。
アビゲイルの家は
門をくぐった先の石畳の奥に
ひっそりと佇んでいた。
古い洋風の屋敷だった。
二階建て
白い外壁に、深緑の蔦が絡まり
アーチを描いた窓には
色褪せたカーテンが揺れている。
玄関扉は重厚な黒の木製で
真鍮のドアノブが陽に照らされて
鈍く光っていた。
けれど──
その美しさの裏側に
どこか〝静けさ〟があった。
人気がない。
灯りがない。
ただ
過去だけが閉じ込められたような沈黙が
その館には息づいていた。
「⋯⋯確かに、これは一人じゃ広すぎるな」
ソーレンが腕を組んで呟く。
「ねぇ、これ夜に一人だったら泣くよ?
絶対泣く!」
レイチェルは眉を寄せ
ポストに絡まる蔦を指で払いながら言う。
「⋯⋯父と母の声が
今でも、ふと聞こえるような気がして⋯⋯」
アビゲイルが
ゆっくりと玄関の鍵を回しながら言った。
けれど、その横顔に沈んだ影はなかった。
寂しさは確かにある。
けれどそれは、今この瞬間
過去との決別を決意した者の
静かな表情だった。
バンを停めたアラインは
サングラスをかけ直すと
ふっと肩をすくめる。
「じゃ、ボクはここまで。
あとはキミたちで頑張って。
それじゃあね?」
「お気をつけて、アライン様。
⋯⋯Schwarzの繁盛を
お祈りしておりますわ」
アビゲイルが深く頭を下げる。
「はいはい、ありがとね!」
アラインはウィンクひとつ残し
車を返して路地を去っていった。
⸻
玄関を開けると
冷たい空気が迎え入れてくる。
けれど、埃一つないその空間が
アビゲイルの几帳面さを物語っていた。
リビングには重厚なソファと本棚
食器棚には上品なカップが整然と並んでいる
窓際のピアノは、長く弾かれていないらしく
蓋の上にだけ一枚の手紙が置かれていた。
「⋯⋯一人で住んでたなんて、信じらんない
すごく綺麗」
レイチェルが感嘆の声を漏らす。
「家具の数⋯⋯やべぇな。
全部持ってくのか?」
ソーレンがため息を吐きながら
階段下のタンスに目をやった。
「いえ、最低限の荷物だけで構いませんわ
服と、ライエル様の写真と、あと⋯⋯
このティーカップと⋯⋯」
「アビィ、落ち着いて!
ティーカップは後でいいから
まず服をまとめよう!」
レイチェルが笑いながら声を掛け
すぐに二人で部屋の奥へと消えていった。
ソーレンはオウムとともにリビングに残り
黙々と段ボールを組み立てる。
「ふむ⋯⋯穏やかな良い空間ですな」
肩に乗るオウムが、低い声で呟いた。
「声のせいで
全然穏やかに聞こえねぇんだよ⋯⋯
戦場の上官みたいな声しやがって」
ソーレンが思わず頭を抱える。
だが──
その家の中には
確かに新しい風が吹いていた。
温かく、柔らかく
どこかほんのり桃色の風が。
それは
引っ越しという〝終わり〟ではなく
〝始まり〟を告げる風だった。
⸻
「これで、全部か?
⋯⋯もっと運べるっちゃ、運べるぜ?」
ソーレンが片手で段ボールを軽く持ち上げ
感触を確かめながら言う。
彼の足元には
アビゲイルが選んだ数個の荷物が
整然と並んでいた。
衣服や身の回りの品、ティーカップ
そして──
一冊の古びたアルバム。
「いえ、これで充分ですわ。
ありがとうございます」
アビゲイルは
丁寧にお辞儀をしながら微笑む。
「だいぶ
周りも暗くなってきちゃったね?」
レイチェルが窓の外を見てぽつりと呟く。
「その方が、荷物もお前らも浮かせたって
誰にも気付かれねぇから良いだろ」
ソーレンはそう言いながら
重力を指先に宿らせた。
無言のまま
彼の周囲の空気がわずかに振動する。
次の瞬間、荷物が、そして三人の身体が
ふわりと浮かび上がった。
風もないのに、裾がやさしく揺れる。
空気が少しずつ軽くなるような感覚に
アビゲイルが息を呑んだ。
生まれて初めて、空を飛ぶ。
──いや〝運ばれている〟というよりは
まるで〝夜空に抱かれている〟ような。
頭上には星々が滲み始めていた。
まだ完全には夜を迎えきらない空は
群青と薄紫が溶け合うように広がり
街灯のオレンジが足元の街並みに
宝石のような軌跡を描いていた。
浮遊する荷物の間を
桃色の翼が静かに羽ばたく。
オウムが追うように飛びながら
ちらりとアビゲイルを見た。
「すごい⋯⋯夢のようですわ⋯⋯っ」
アビゲイルの黒と深紫の髪が風に舞い
瞳が夜空を映して煌めく。
「ねぇ、アビィ。名前、決めようよ!
オウムくん、じゃ味気ないもん!」
レイチェルが
隣でくるくると宙を旋回しながら笑う。
「えぇ⋯⋯そうですわね⋯⋯
この美しい翼と、賢く、力強い声
わたくしの心を導く〝光〟のような存在⋯⋯」
アビゲイルは胸元を押さえ
そっと目を閉じた。
そして、静かに言葉を紡ぐ。
「⋯⋯ルキウス。
あの神聖騎士団を率いた
『白翼の誓騎士』の名を、あなたに⋯⋯」
「やっぱり漫画から取るのね!」
その名が告げられた瞬間
オウム──否、ルキウスが
空中で一礼するように羽ばたいた。
夜風に舞うその動きすら
まるで舞踏のようだった。
「⋯⋯名を賜り、光栄の極み」
その低く深い声が、夜気に溶ける。
「や、やっぱり
何度聞いてもその声ズルいわ⋯⋯
ふふっ!良かったね、ルキウス!」
レイチェルが頬をほころばせて
そっとアビゲイルの手を取った。
こうして、少女たちは空を渡っていく。
まるで星屑の花道を進むように──
誰にも気づかれることなく
ただ、未来へと運ばれていくように。
彼女たちは静かに夜を翔けた。
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