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#ワンナイトラブ
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「なんで依愛がいけって言うの」
口元だけ笑みを乗せた彼を見れば、簡単に胸は軋んだ音を鳴らす。
それはそうだ。私の心臓は、常葉くん次第で違ったメロディを聞かせるのだから、今更そんな事に驚く必要は無い。そんなの、分かりきっていた事。
零れそうな涙を瞬きで押し込めて、口を開く。
「私は、何時でも会えるから」
「だから何?それが、俺が女と二人で酒飲んでいい理由になる?」
「……そ、れは……」
単純に、行かないって言ってくれれば
分かった、言うね。それで終わりだと思った。
だけどそれは独り善がりな考えで、もし逆の立場で、常葉くんから他の男の人と会えと言われたらどう思うだろう。
…………なんて、浅はかな考えだったのだろう。
は、と、短く息を吐いて肩で息を整えていると、常葉くんは踵を返した。
「常葉くん、」
「行けばいいんでしょ」
「っ、じゃあ……あの、連絡」
「知ってるから。穂波さんが聞かなくても、直接聞きます」
「と、きわくん、待って」
私の声が急に別の国の言葉になったのか。常葉くんは呼び掛けに答えることなく、無言でその部屋を出て行った。……常葉くん、呆れてたな。
そりゃそうだ。こんな年になっても人の気持ちひとつ考える事すら出来ない。
自分の気持ちだけが私の味方なのに、嫌われるのが怖くて、それを隠して良い人ぶって。
……常葉くんの事、蔑ろにして。
「穂波さぁん、どうでした!?」
「逃げました?」
オフィスに戻れば、私に気付いた声が子犬の鳴き声みたいに耳を通り抜けた。
「…………あの」
群がる声の隙間を縫って言葉を零すと一粒が同時にこぼれ落ちた。
「嫌い、なんですよね」
嫌いだ、私は私が嫌い。
自己犠牲に酔って、みんな人のせいにする自分が嫌い。
昔から、両親に口答え出来なかったのも単に勇気が無いだけなのに。
常葉くんだったら、と、勝手に決めつけていた自分が嫌い。
「蜘蛛、嫌いなんです」
なんて失態なのだろう。あれだけ無表情を貫いていたのにこれっぽっちで崩れ去って、こんな年になって人前で泣いて、結局蜘蛛のせいにして。
通らない鼻を啜りながら、構わず続ける。
「スプレー箱買いするのでこれからは課長が処理してください、私は無理です」
「そ……そうか、悪かったな」
「御手洗、失礼します」
……やっぱり、行かないで。
家に帰ってきて、隣にいて、ずっと。
叱って欲しい、何してんのって、馬鹿にして欲しい。
だけど、常葉くんの名前を押すことは出来ないのは年上だからっていう私のちっぽけなプライド。
甘えることの出来ない、情けないプライド。
常葉くんからは、19時を少し回った頃に『家のエントランスに着いたら連絡して』とだけメッセージが届いた。
私が残業をするって、お見通しなのだろう。
20時から、そう言っていたから、2人で店に向かう頃に私に連絡をくれたのだろうか。
……眞鍋さん、可愛いからな。
移り気されちゃうかな。でも仕方ないかもしれない。
1人でいれば直ぐに嫌なことで頭が占領されそうなので、部長に内緒で集めるだけ仕事をかき集めて、情けなく残業にしがみつく。
22時を見越して始めたのに、結局いつも通り21時を前にすると全て片付いてしまった。
私、少しは仕事が早くなったかもしれない。これは仕事に生きろと神様のお告げなのかな。
デスクの上に散らかる書類を片してゼリー飲料のゴミを捨て、帰り支度を済ませた。
エアコンの効いた会社から一歩外に出ると、夏の夜の湿気が私を出迎える。
……今頃、何してるのかな。二人でオシャレなバーでカクテルなんか飲んでるのかな。
いや、あの二人ならホテルのラウンジで夜景を見ながら飲んでるだろう。……絵になるなぁ。
再び視界は簡単に滲みそうになるから瞬きを増やして天を仰いだ。
星の明かりは雲が覆い隠してちっとも見えやしなくて、私を慰めてもくれなかった。
瞳がそのマンションが捉えると、無意識のうちに部屋を探した。
空から消えた灯りの代わりに斑に点る光。だけど、お目当ての場所から明かりは漏れていなかった。
……まだ、帰ってないんだ。
肩を落としてエントランスを潜ると、あのメッセージを思い返した。
……そうだ、連絡。
エレベーターへ向かおうとした足を強引に止めて、バッグから相棒を取り出してメッセージを送ると、しばらくしてそれが震えた。
少しの気まずさを閉じ込めて、それを耳に当てる。
「……もしもし、常葉くん?」
『コンビニ側の奥に、黒いドアがあるから』
「……え?」
『行って』
素直に従うと、確かに”プライベート”、と、立ち入りを禁じる英字プレートの飾られた、真っ黒なドアがあった。
「来たよ」とだけ言うと、何故かドアからはロックが解錠された音がした。
……入れって、事?
恐る恐るドアを開けると、ライトを滑らかに照り返す壁が眩しくて目が眩んだ。一歩足を踏み入れると、絶妙なクッションの床絨毯に驚く。
『エレベーター、3つあるでしょ』
言われて見渡すと、確かにブラウンのそれを見付けた。
『真ん中に乗って』
「……分かった」
じゃあ、短い別れの挨拶を聞かせると電話は途切れた。
そのエレベーターには階数が表示されていなかったので首を傾げるけれど、素直に一つだけあるボタンを押した。
いつもよりも長い時間箱に閉じ込められると、やがてゆっくりと扉が開く。目の前にはたった一つだけのドアが私を出迎えた。