程なく、男性が落ち着きを見せた頃合いに、治療を終えたばかりの部下が一名、声を潜めて訊(き)いた。
「よろしいのですか? 本当に」
「………………」
これに平静を装い応じようとするものの、どうにも舌の根が落ち着かない。
先の醜態を見られた気恥ずかしさと、部下たちに己の心情を押しつけてしまったこと。
いや、部下たちの思いを履行させてやれなかったことが、何より心苦しくある。
「君は──」
ややあって、ようやく考えを取りまとめた男性は、心中を絞り出すように言った。
心の内に熱火(あつび)はあるが、胸はいたく晴れていた。
「君はいま、あの方に弓を引くことができますか?」
視線を追うと、所在なさげに外を眺める葛葉の姿がある。
壊れた窓枠に肘をつけ、山地の夜風をゆったりと満喫しているようだった。
柳の髪がたおやかに風道を読むさまは美しく、まさしく天女の在りかたを臨(のぞ)める一方で、妙な現実感とでも言おうか。
この世のものでないはずの者が醸すリアリティであったり生気の類は、ある種の混沌に通じる艶(なまめ)かしさがあった。
「無理……、なんでしょうか?」
「自分の胸に訊きなさい」
暫時、うつむき勝ちに己の胸中と相談を交わした男性は、やがてしめやかに頭(かぶり)を振って、頭目に賛同の意を示した。
神明の御前(おんまえ)にあっては、己を偽ることなど出来るはずもなく。
まるで赤子のように心奥(しんおう)を曝け出した頭目の気持ちが、今となってはよく分かる。
完敗とは言わない。それこそ、単純な勝ち負けで測っては、切羽つまった我らが心情に、あるいはこの後(のち)の世に、広く申しわけが立たぬような気がしたのだ。
「はい、お茶だよ~……」と、そこに降って湧いた健気な声が、当面の物悲しい思考を頓挫させた。
見ると、銀色のトレーを抱えたブロンド娘が、湯気の立つカップをおっかなびっくり差し出している。
──どういうつもりか。
まず以(もっ)て頭を過(よぎ)る疑念が煩(わずら)わしく、荒事を生業とする己(おの)が信条を露骨に表しているようで、ほとほと参った。
そんな殺伐としたものに嫌気を覚えた男性は、先んじて礼を述べる頭目に倣(なら)い、丁重にカップを受け取った。
「すんごいよ、ここのお茶」と、その模様に相好を崩したのは、当のリースだけではない。
壁にやんわりと背中を預けた葛葉は、それをツルツルと滑らせる仕草をして、やがてペタリと絨毯(じゅうたん)に尻をつけた。
手広い廊下を挟んではいるが、ちょうど頭目らと目線が合う格好だ。
「何たらいう葉っぱ使ってるらしくてさ? そりゃもう、ものっそい希少な」
「はぁ……、左様で」
「では……」
「ちょい待ち!」
「は?」
「毒入ってるかもとか考えんの?」
「は……?」
「いやいや冗談」
悪巧みを成功させた子どものように笑んだ葛葉は、なおも手元のカップを凝視する男性らの元から視線を移し、リースの姿を探した。
早々と快気を得た彼女は、広い廊下をあちこちへ駆け回り、思い思いの場所に居座る徒党に対し、一服を勧めているようだった。
「さっきはゴメンね? あたま、平気?」
「あぁいえ、私は石頭が取り柄(え)で」
斯くのごとく隔(へだ)たりのないやり取りが聞こえ、いまだ熱感を残す葛葉の胸中にも、いよいよ一段落の実感が湧いた。
思えば彼女の存在が、程よくブレーキの役割を果たしてくれたような気がする。
刃の振るい方は一通り学んだものの、最善の引っ込め方は教わらなかった。
ふと思い立ち、勿体ぶらず話を振る。
「かわいいでしょ? あの娘(こ)」
「は? えぇ、まことに」
「アイドルってのかな? そうゆんは大事よね、やっぱ。 こういうご時世だから尚更さ」
「まこと、そのようで」
「歌って踊れてチャカ弾(はじ)けるアイドルみたいな」
「は?」
のろのろと腰を上げ、窓の向こうを見る。
夜間も灯を絶やさぬ遊技場の皓々たる明かりが、どういう訳か一入(ひとしお)の安心感と焦燥をくれた。
焼け落ちる間際の世界にも、人の営みはたしかにあって、息吹がある。
「………………」
その背を打ち眺める男性の目に、彼女の片袖から剥離したものらしい燐光が、音を立てず揺り落ちるのが見えた。
どういう仕掛けかと考える間際、銘々に散じたそれは、折しも吹き込んだ緩やかな風に乗って、夜の静寂(しじま)へと溶けていった。
「どういうヒト? そちらさんは」
瞳を細める頭目に、葛葉は脇道を見ず訊(き)いた。
唐突な問い掛けではあったが、訊かれて困るようなものでも無く。また、誤魔化して応じる謂われもない。
お互いに、今宵の祭りはすでにお開きになったのだと、淡い充足感に加え、うら寂しいものを感じている。
人恋しさではないが、そうした情趣を刺激されては、口が軽くなるのも道理だった。
「我らの身上をお伝えする前に、どうかこれだけは──。 どうか、しかとお含み置き頂きたく 」
居住まいを正した男性は、至極改まった口振りで前置きをくれた。
それはまるで、目先の危殆に瀕する者に対し、要点のみ通じやすくなるよう配慮するかのような。
応じる葛葉も、そういった機微にはよく通じるため、茶目っ気をひかえて真摯にこれに臨んだ。
その矢先のことである。
「なんだこれオイ? なんつうザマだよこりゃ」
廊下の向こうから、ひときわ灰汁(あく)の強い声がした。
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