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使い古された鞣(なめし)のコートは、まるで浮世の垢を一身に引き受けたかのように、元の風合いを損なっている。
ツバの広い中折れ帽は、すっかりと型を無くしていた。
いずれも当人の粗放な性質によく適う品々かと思いきや、その目線は怜悧であり獰猛であり、どこか理知的な獣を思わせる。
長身をゆったりと構え、物憂い足取りで廊下を歩みくる男性。
「虎石さん……」と、俄かに背筋を凍らせた頭目が、譫言(うわごと)のように言った。
「なに? 知り合い?」
葛葉が問うも応答はない。
ただ、不体裁を見咎められた緊迫感か。息の詰まりそうな逼迫(ひっぱく)が、徒党の端々にまで行き渡っているように感じられた。
その模様が癇に障ったか、男性はわざと大きな舌打ちをして、当の一党を睨みつけた。
「お前ら、俺の言ったこと覚えてるよな?」
「それは……」
「なにか? 宗旨変えのつもりかよ、この期(ご)に及んで」
いつの世も横柄な上司はいるが、ハラスメントという粗掴(あらづかみ)な定義が部下の心身を守った時代は、とっくに過ぎ去って久しい。
「……何しやがんだ? てめぇ」
「あ? そりゃこっちのセリフよ」
既(すんで)に投げつけた木履(ぼっくり)が、真っ二つに割れて男性の足元に転がった。
「蹴り噛まそうとしたっしょ? そこの人らに」
「あ?」
「手前(てめえ)のツレに手ぇ上げるとか、ロクなもんじゃないねあんた」
安易な挑発ではあったが、これが思い掛けず功を奏したようだった。
狙い目を絞った男性は、黒ずくめの徒党を押し退けるようにして、葛葉の元へずんずんと歩みを寄せた。
間近で見れば尚更、天井を擦りそうな長身だ。 これは見下されているようで、何とも決まりが悪い。
しかし、こちらとしても名利(みょうり)を損なう訳にはいかず、専心して睨み返すことに注力した。
「なにガン垂れてんだてめぇは」
「あ? そりゃそっちでしょうよ? さては女のあつかい知らんね?」
「あ?」
「付き合った人数言ってみ? ほれ、何なら私が手取り足取り」
「クソ女に興味はねぇや」
「あ? もっぺん言ってみな?」
益体(やくたい)もない言い合いが続いたが、葛葉の脳裏では大凡(おおよそ)の見解が疾うに組み上がりつつあった。
──この男は、恐らく巷(ちまた)で言うところの“御遣(おつかい)”
であれば、先の不思議にも合点(がてん)がゆく。
こちらの投げた履き物が、彼の身柄に触れる寸前で手もなく二つに割れた。刃物(ヤッパ)を使った形跡はない。
いや、モノは刃物で間違いないのだろうが、それを振るう動作が確認できなかった。
俄(にわ)かには信じ難いことだ。
族(うから)の特性か。 これでも物を見抜くことにかけては、それなりに自負がある。 この眼に映らないものは無いはずなのに。
「……ちょっとツラ貸せよ」
「やだよ。 こちとら面食いだけど、あんたみたいなのは勘弁──」
言い終わらぬ内、葛葉の頭上で目の覚めるような銀光が閃いた。
予備動作もなければ、粗布(あらぬの)が擦れる音もない。
「あぶな!?」
しかし、そこは俊敏な彼女のこと。 咄嗟に横っ飛びに逃れ、事なきを得た。
見ればコンパクトな握斧を構えた男性が、こちらを鬼の形相で睨(ね)めつけている。
「なに逃げてやんだてめぇ?」
「逃げるに決まってんでしょ? そんな」
“ワケの分からん得物”と言いかけて、危うく口を噤(つぐ)んだ葛葉は、片方の履き物をポイと脱ぎ置き、頼みの一刀を有構無構(うこうむこう)に据えた。
対する男性は、なかば腰を落とし気味に構えており、右の握斧に全幅の重心を定める心積もりのようだった。
その体(たい)は、何かしらの技芸に則(のっと)ったものではなく。 我流の範疇に収まるようなものでもなく。 まるっきり暴漢のそれに似つかわしい。
「虎石さん!」と、一団の内々から懸命な大音声(だいおんじょう)が飛ぶも、男性は意に介しない。
むしろ、これを都合の良いきっかけとでも解したか、一躍して葛葉の元へ攻め込んだ。
「おりゃあぁぁ!!!」
手にした得物を本来の用途とし、さながら薪(まき)に対するよう拝み打ちを見舞う。
事を見守る面々、それにリースの心中はなかなかにゾッとしないものであるが、当の葛葉にとっては熟(こな)れたものである。
流儀の肝要に組み込まれた目付(めつけ)を揮(ふる)い、間合を切って難なく避ける。
この間隙(かんげき)に斬り込もうかと考えたが、しかしこれが上手く運ばない。
敵の腕前は恐らく中の上。 先の連中、取り分け“A”の熟練には遠く及ばないように見えた。 それはもちろん、心技ともに。
──こんなん、うっかり打ち込んだら血を見ることになりそうな
そういった躊躇(ためら)いが都度ごとに浮かび、剣をとる手が萎えて仕様がない。
その時だった。
眼前、俄(にわ)かにポケットを漁(あさ)る仕草をした男性が、指先ほどの小瓶を立ちどころに投げつけてきた。
「あ……?」
熟慮なくこれを切り払った瞬間、葛葉は不意に足元を損なった。
瓶の中身は、果たして薬液か。
合香(あわせごう)を煎じ詰めた馨り。いや、これはそんな生易しいものではなく、鼻腔から眉間にかけて、痺れを来すような刺激臭だ。
しかも、たちまちの内に五体の稼働に支障が出たところを鑑(み)ると、神仙の薬水(くすりみず)に匹敵する何か
「野郎あぁぁ!!」
「ちょちょ……ッ!」
この機に乗じ、するどく打ち込んでくる握斧に焦った葛葉は、手刀(しゅとう)を用立ててこれに臨(のぞ)んだ。
衝突に伴(ともな)い、肌膚を打つ鈍い音がビタンと鳴った。
「は?」
しかし面妖なことに、当人の脳裏に痛みはなく。 どころか、左の手掌に毀損(きそん)もなければ流血すらない。
不思議に思っていたところ、矢庭に右の前腕が、とんでもない音を立てて鳴った。
「あぐぁ……ッ!?」
ただちに背筋を電流が駆け、全身に鳥肌が浮いた。
──なんだこれ?
思う間(ま)に、躍動した男性が見事なトーキックを振るい、これに伸(の)された葛葉の身は、壁面を破って客室内へ。
種々の物品を巻き添えにする噪音が、ざっくばらんに木霊(こだま)した。