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翌日の夕刻。
夕餉の準備を済ませた凪は、庭にいた。
藍の木綿着物の裾を端折り、たすき掛けをした凪は、小さな竹籠を手に薬草の間を歩く。額には細かな汗が滲み、髪をまとめた白い手拭いが風に揺れた。
ヨモギを収穫しようと鋏を入れる。 ザクッと根元を切ると、ヨモギ特有の香りが鼻腔に届いた。
「生薬って、本当にいい香りね……」
満たされた笑顔を浮かべるが、不意に薫子の匂いを思い出してしまう。
廊下ですれ違ったときの、ほんのりと甘い香り。
(すごく女性らしくて、素敵な香りだったな……)
ヨモギを籠へ入れる手が、ぴたりと止まる。
(薬草の香りで喜ぶ私は……変かな)
はっとして、凪は頭を振った。
「……ううん、比べるものじゃないわ!」
自分に言い聞かせ、ふと視線を上げると、一面に小さな白いカミツレが咲き誇っていた。
「カミツレの花は、綺麗ね……」
呟いてから、凪は再び目の前のヨモギへ優しく手を伸ばす。 順調に育つ薬草を愛おしそうに眺め、流れる汗を腕で拭う。
そして再び、ザクッ、ザクッと鋏を入れる。
そのたびに、香りが立ち上る。
(何も……心配することなんてないのに……)
立ち上がり、風に揺れるカミツレの花を眺めて、凪は努めて明るく笑った。
「ただいま帰った」
仕事を早めに終えて帰宅した将臣は、居間に向かって声をかけた。
けれど、いつもなら「おかえりなさい」と愛らしい微笑みで小走りに迎えてくれる凪の姿がない。
「炊事場か……」
将臣は軍帽も取らずに、凪を探しにいく。炊事場には、湯気が漏れる味噌汁と、甘辛い匂いを漂わせた煮魚が、それぞれ鍋に準備されていた。人の気配はあるのに、凪がいない。それだけで、部屋の温度が一気に下がった気がした。
「……どこだ?」
将臣は居間へと走る。
「凪っ!」
襖を勢いよく開く。
やっぱり、いない。
胸の奥が嫌な音を立てて波打ち始める。その時だった。
「将臣様! おかえりなさいませ」
畑のカミツレの中で、凪がぽつんと立っていた。
前髪を額に貼り付けて、鼻先には土がついている。その愛くるしい姿を目にした瞬間、将臣は心の底からほっと息を吐いた。
「……凪……そこにいたのか」
胸の鼓動を鎮めるように、将臣はここでようやく頭の軍帽を脱いだ。
「薬草の手入れか?」
「はい。みんな元気に育っています。畑を作っていただきありがとうございます」
いつもの凪の笑みだった。
「頑張っているな」
将臣の肩の力が抜ける。
「夕食は私が並べておく。凪は顔を洗ってきなさい」
「よろしいのですか?」
「当たり前だろう」
そう短く言うと、将臣はくるりと背を向けて炊事場へと消えていった。
衣を整えた将臣は炊事場に立った。
将臣は夕餉を並べながら、ふと手を止めた。腰に手を当て、しばらく動かない。だがその横顔は、いつになく柔らかく綻んでいた。
可憐な花畑の中で、顔に土をつけて微笑む愛らしい凪の姿を思い返す。
(まいったな。あの姿……)
その時、足元にぬっと結丸が寄ってきた。
「……お前も見ていたのか?」
「にゃあ」
「……だな。ああいう姿も……うん、可愛いな」
結丸にだけ聞こえるような低い声でぽつりとこぼし、将臣は目尻をくしゃりと下げて笑った。
パシャパシャと水音が響く。
庭先の井戸の前で、凪は水を張った桶で顔を洗っていた。
顔を上げると、桶の水は土で濁っていた。
「汚れていたんだ。だから……」
将臣が「顔を洗ってきなさい」と言った意味に、今さら気づいた。
また、薫子の完璧な姿が脳裏によぎり、つい、桶の淵を強く握ってしまう。
(将臣様……泥まみれの私に、呆れられたかしら)
急に胸が締め付けられた。
「でも……あのお方はお優しいわ。食事の準備までやっていただいているじゃないの」
(ずっと奥座敷で薬を引いてた。おしゃれに縁がないのは仕方がないこと!)
凪は桶の水を勢いよく流した。
「さあ、私も夕餉の準備を手伝わないと」
(将臣様を支えるって決めたのだから)
凪は自分を鼓舞するように、たすきをするりと解いた。
凪が食後の食器を下げていると、将臣が頬の傷を触っていた。
「傷が、痛むのですか?」
「たまにな。古傷の痛みは、ぶり返すんだな」
「空気が乾燥してきたからかもしれませんね。ちょうどヨモギを収穫したんです。炎症を抑える軟膏をお作りしますね」
将臣は優しい笑顔を見せる。
「ああ。助かる」
(ほら、こんなに自然に笑ってくださる。だから、大丈夫!)
皿を炊事場へと運び込み、桶の水につけいく。水面には、自分の顔が映っていた。凪はそれをじっと見つめて動けなくなる。
(大丈夫、よね……?)
胸の奥に生まれた小さな不安は、綺麗には消えてくれなかった。
(将臣様は……本当に、私との結婚を望んでいらっしゃったのかしら……)
秋の風に木々がざわめく。その音に呼応するように、凪の胸の内もざわついていた。