テラーノベル
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そのアトリエには、いつも油絵具の鋭い匂いと、格式高い「家」の重圧が満ちていた。 都内の一等地にある広大な洋館。歴史ある名家の令嬢である一ノ瀬 麗華(いちのせ れいか)は、幼い頃から定められた「完璧なお嬢様」としての人生を歩んでいた。お茶、お花、ピアノ、そして淑女としての美しい立ち振る舞い。 けれど、20歳になった彼女の胸の奥には、誰にも言えない熱い炎が燃えていた。「私は、イタリアへ行きたい。フィレンツェで、本物の絵画修復の技術を学びたいの」 それが麗華の本当の夢だった。しかし、厳格な父親が示した留学の条件は、あまりにも理不尽なものだった。「我が家にふさわしい婚約者候補を一人選び、その男を納得させられたら、2年間だけ留学を許す」というのだ。 父親が勝手にセレクトした見合い写真の束。その中に、一枚だけ明らかに異質な若者が混ざっていた。 格式高いスーツを着崩し、どこか退屈そうにカメラを睨みつける鋭い瞳の青年。 彼の名は、周防 蓮(すおう れん)。新進気鋭の若手建築家であり、同時に、麗華の父親が支援する大企業の若き御曹司でもあった。「君が、一ノ瀬家の人形(おじょうさま)か」 高級ホテルのラウンジで初めて対面した時、蓮は挨拶もそこそこに、冷ややかな笑みを浮かべた。「親父に言われて会いに来ただけだ。君みたいな、籠の中で守られて育ったお嬢様に、俺の時間を割くつもりはないよ」 その傲慢な態度に、麗華のプライドが弾けた。彼女はいつも通りの完璧な淑女の笑みを浮かべながら、しかしその瞳に強い光を宿して言い放った。「それは好都合です、周防様。私も、あなたと結婚するつもりは毛頭ございません。私には、イタリアへ留学するという絶対に譲れない夢があります。あなたには、そのための『踏み台』になっていただきたいのです」 蓮は驚いたように目を見開いた。人形だと思っていた令嬢の口から出た、あまりにも直球な「踏み台」という言葉。彼は数秒間呆然とした後、低く、愉しそうに笑声を漏らした。「面白い。籠の鳥が、必死に羽ばたこうとしてるわけだ。……いいだろう。その留学、俺が認めれば父親は文句を言わないんだな? ならば、条件だ。俺の建築事務所の手伝いを一ヶ月間、完璧にこなしてみせろ。お嬢様の『本気』、見せてもらうよ」 * 翌日から、麗華の「二重生活」が始まった。 昼間は大学に通い、夕方からは蓮の建築事務所へと向かう。そこは、麗華が今まで生きてきた美しい世界とは真逆の、混沌とした戦場だった。山積みの図面、鳴り止まない電話、徹夜明けのスタッフたちの怒号。「一ノ瀬、この建材のサンプルを現場に届けてくれ。あ、汚れるからその高い服は着替えた方がいい」 蓮は容赦なく麗華に仕事を振った。 お嬢様育ちの麗華にとって、すべてが初めての経験だった。重い資料を運び、靴を泥だらけにして現場を走り回る。指先にはマメができ、夜にはベッドに倒れ込むような毎日。 けれど、麗華は一度も弱音を吐かなかった。ここで諦めたら、イタリアの空を見ることはできない。 そんな麗華の姿を、蓮は静かに見つめていた。 ただの世間知らずだと思っていた彼女が、泥にまみれても、髪が乱れても、その瞳の輝きを失わない。それどころか、イタリアの芸術について語る時の彼女は、どんな高級な宝石よりも眩しく、情熱的(アパッシート)だった。「一ノ瀬、これを見てくれ」 ある夜、事務所で二人きりになった時、蓮が大きな図面を広げた。それは彼がコンペに出品するという、新しい美術館の設計図だった。「ここに、古いフレスコ画を移設するスペースを作りたいんだ。光の差し込み方や、湿度の管理……君が前に言っていた、イタリアの教会の構造を参考にした」「……素晴らしいわ、蓮さん」 麗華は感嘆の声を上げた。蓮の描く線には、彼女の知識を具現化したような、完璧な美しさと機能性が宿っていた。「あなたの建築には、命が通っているのね。私、あなたの建てる美術館で、いつか修復した絵画を飾りたいわ」 麗華の真っ直ぐな言葉に、蓮は一瞬、言葉を失った。それから、照れ隠しのように顔を背け、「口だけは達者だな」と呟いた。 けれど、二人の距離が、その夜を境に急速に縮まったのは間違いなかった。 * 一ヶ月の期限が切れる、最後の日。 蓮のコンペは見事に最優秀賞を獲得した。事務所がお祝いの歓声に包まれる中、蓮は麗華を連れて、洋館の近くにある小さな公園へと向かった。 夜風が、麗華の長い髪を優しく揺らす。「約束だ。君の父親には、俺から『一ノ瀬麗華は、我が妻として申し分ない情熱を持った女性だ。だからこそ、2年間イタリアで磨きをかけてきてもらいたい』と伝えておく」「……ありがとう、蓮さん。あなたのおかげで、私は夢を叶えられる」 麗華は満面の笑みを浮かべた。しかし、その胸の奥には、なぜかチクリとした痛みが走っていた。 夢が叶うのに、どうしてこんなに寂しいのだろう。この一ヶ月、蓮の隣で、彼の情熱的な建築の世界に触れている時間が、いつの間にか彼女にとって「もう一つの大切な場所」になっていたのだ。「……一ノ瀬」 蓮が、一歩近づいた。いつもは不遜な彼の瞳が、今はひどく真剣に、揺れている。「俺は、君を『踏み台』にするつもりで始めた。でも、間違っていた。……君が泥まみれになりながら俺の背中を押してくれたから、あの設計図が完成したんだ。君のいない事務所は、きっとひどく退屈で、寒いままだ」 蓮は麗華の手をそっと握った。その手は、出会った頃の滑らかなお嬢様の手ではなく、少しだけ逞しく、夢を掴むための熱を持っていた。「2年だ。2年経ったら、必ず俺の元に戻ってこい。俺が建てるあの美術館で、君の修復した最高の一枚を飾る。……それまで、他の男にその情熱を奪われるなよ」 それは、傲慢で、不器用で、だけど世界で一番真っ直ぐな、彼なりの告白だった。 麗華の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。彼女は握られた蓮の手を、自身の意思できゅっと握り返した。「ええ、約束するわ、蓮さん。私はフィレンツェで、あなたにふさわしい、最高の芸術家になってみせる。だから……あなたも、私を驚かせるような美しい建物を建てて待っていて」 イタリアの空へ飛び立つ鳥は、もう籠の鳥ではなかった。 遠く離れる二人の距離は、これから始まる2年間、お互いを高め合うための美しい五線譜となり、未来のキャンバスへ向かって、鮮やかな恋の色を塗り進めていくのだった。
コメント
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うわああああ第7話読み終わったよ…!!!😭💕✨ 「踏み台」発言からの蓮さんの「面白い」の笑い、めっちゃグッと来た…! 最初は冷めてると思ってたのに、麗華の本気の輝きに惹かれてく過程が尊すぎてやばい…。泥まみれになって走り回るお嬢様、すごく眩しかったよ!! 最後の公園のシーン、蓮さんの不器用な告白に涙腺崩壊した…「他の男にその情熱を奪われるなよ」は反則でしょ…🥺💖 2年後が待ち遠しすぎるよ〜!! 続きも全力で楽しみにしてます!!🔥