みんな、帰ってしまった……
「もう少し頑張ろう。明日も忙しくなりそうだからな」
私は、明日の資料作りで少しだけ残ることにした。
なるべく事務的な仕事も進んでやるように心がけている。人手が足りないということもあるけれど、正直、今は何かに専念していたかった。
「恭香、いつまでやってる? 早く行くぞ」
「えっ!」
帰ったと思っていた本宮さんが戻ってきた。
「さあ、急いで」
「えっ、あ、あの、行くってどこに?」
「約束しただろ、晩御飯連れてくって。もう忘れたのか?」
忘れたのかって……
もちろん忘れてなんていない。
ただ、私はあなたに、からかわれているのかも知れない……と、思っていたから。
「や、約束って言うか、一方的に……」
「つべこべ言わずに行くぞ」
威圧的な態度で、また私の手を引っ張ろうとする。
「あっ、ちょっ、ちょっと待ってください。まだ仕事が終わってないんです。明日の資料の準備をしておかないと……」
「……そうか、だったら手伝う。早く終わらせるぞ」
ため息をつきながら、本宮さんは資料を手に取った。
「あの、本宮さん、資料整理は苦手なんじゃないんですか?」
「仕方ないだろ。恭香と晩御飯に行くためだ」
真面目に言ってはいるけれど、こんなに美しい顔の人が私を誘うなんて、やっぱりからかわれているのかも知れない。
「あの、私なんかと晩御飯に行っても何も面白くないですよ。はっきり言って、私はつまらない女ですから」
「……」
本宮さんは何も言わず、資料を見ている。
無視するつもりなのだろうか?
本当に何を考えているのかわからない人だ。
クールとかミステリアスとか……
そういうたぐいの人は、正直、苦手だ。
私は、一弥先輩みたいに明るくて優しい人が……
ダメだ、また先輩のことを考えている。
気を抜くとすぐにこうなる。
私は完全にフラレたのだから、いいかげん理解しなければいけないのに。
「恭香、大丈夫か? 何を考えてる?」
その言葉で、頭の中から一瞬にして一弥先輩が消えた。
「べ、別に何も。何も考えていません。あ、あの、本宮さん」
「え?」
「その資料は違いますよ。これはこっちです。それから、この資料はあっちです。間違うとややこしいことになるので、気をつけてくださいね」
「……何度言わせればわかるんだ。だから、朋也だって」
「えっ」
「恭香はすぐに忘れるんだな。2人の時は朋也って呼んでくれって言ったよな」
言い方が怖く感じる。
もう少し優しく話してほしい。
「で、でも、やっぱり本宮さんは先輩だし、社長の息子さんを呼び捨てとか……」
「またそれ? 同じことを何回言わせるつもりだ? それは関係ないって言っただろ。俺はただ、恭香に、朋也って呼んでほしいんだ」
「……」
どうしてそこまで呼び捨てにこだわるのかはわからない。
でも、これ以上否定しても仕方がないと思った。
「……そんなに嫌か?」
「あっ、いえ。嫌……っていうか、恥ずかしい……というか。今日初めて会った男性を呼び捨てにするなんて、やっぱり……」
「恥ずかしがる必要はない。ただの名前だ。さあ、言って」
この強引さにはなかなか慣れない。
でも、そろそろ覚悟を決めないと……本宮さんに怒られたくはない。
「……は、はい。あ……と、と、朋也……さん」
この感覚は何なのか?
顔から火が出るくらい恥ずかしい――とはこのことか。
「……さんは要らない。朋也でいい」
「そんなっ」
「恭香は、俺のこと、朋也って言えないの?」
ドキッとした。
今度は急に優しく、甘えたような声で言った。
何だかキュンとして……
さっきまでとのギャップに戸惑う。
本宮さんの顔がゆっくりと近づいてきて、私は自然に後ずさりした。
「恭香、逃げないで」
この距離、あまりに近過ぎる。
「ご、ごめんなさい。私、男性を名前で呼ぶとか、ましてや呼び捨てなんて無理です。それに、こんな風にされてちょっと怖いし、からかってるなら止めてほしいです」
勇気を出して気持ちを言った瞬間、今度はあきらかに怖い顔になった。
「俺、お前のこと、からかってるように見える?」
少しの沈黙。
「……わ、わかりません」
そう答えるしかなくて下を向いていると、本宮さんがサッと離れた。
「そんな風に思ってるなら心外だな。俺は、お前を怖がらせるつもりはないし、からかってるわけでもない」
「……えっ、あ……はい。……すみません」
「……謝らなくていい。とにかくこれ、早く済ませよう」
「……はい」
気まずい空気の中、再び手を動かし、資料を整える。
本当にもう、よくわからない状況だ。
それから1時間くらいはかかっただろうか、何とか必要な資料を全て揃え、私達はようやく会社を出た。