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「大事なことなのに、ごめんね、急で……」
「いえいえ」並んで歩くと、歩幅の違いに驚いた。よく見れば足の始まる位置が全然違う……比較的速足の彼女であるが、広坂もそうであるうえに、足が長いときた。「あのぅ。広坂課長。ご迷惑でなければ、手を、……繋いでもいいですか」
「いいけど。恋人繋ぎとかしてみる?」
「なっ……」ウィンクが似合う美男子ぶりが憎らしい。金魚のように口をぱくぱくさせる彼女に、はははと広坂が白い歯をこぼした。「本当に、夏妃は飽きないねえ。夏妃といると本当楽しい……」
横浜駅からやや離れた場所にある立地。それでもひとが絶えないのはそれ相応の見返りがあるからだ。契約が成立した翌日、二人の足が向かうのは、広坂の両親と兄が経営する、ジュエリーショップである。
結婚を決めると盲点なのが、結婚指輪が出来上がるまでの期間。最短で一ヶ月。指輪につける石を変えたり、オーダーメイドなどにすると半年もかかる場合がある。
『うーん。出来れば、入籍の日には揃えたいよね……まなくてもいんだけど』
ロマンチシズムを求める広坂としては、夜景の見えるレストランで高級ディナーを堪能したのちに、花束を渡し、指輪をはめたい……のだそうだ。そこまでネタバレされるとされることへの怒りなんかも湧かない。
二人の話し合いは長時間に及んだ。ひとつひとつについて、丹念に、納得出来るポイントを探っていった。……例えば、結婚式を挙げるのか。事情が事情ゆえに、どうしたものか悩んだ結果、ふたりで写真を撮り、友人知人、会社の人間向けに会費制のパーティーを行うことでまとまった。開かないというのも、同じ会社の人間同士が結婚するのだから、失礼なような気もするし、また彼女のほうはドレスを着てみたい。かといって、盛大な結婚式を挙げてお金を使うくらいであったら旅行に行きたい……新婚旅行については、どこかのタイミングでパリに行こう、と決めた。広坂は課長職で忙しいが、一週間程度であればなんとかなるとのこと。いや、すると彼は言った。
『――大好きな夏妃のためだもん。なんとかするさ』
そのようにいちいち甘い言葉を吐かれてしまってはこちらが困るのだが。
一人暮らし歴の長い広坂は、生活の勝手を分かっている印象であった。女性が一番苦労するのが、実家暮らしが長く、かつ一人暮らし経験のない男性と結ばれたケースであるが……なにをされても『当たり前』というのが染みついていて、妻にあれこれ要求するパターンが多い……広坂については、その心配はなかった。家事をすべて『見える』化して分担を決めるというやり方もあるのだが、それに関しては彼女が難色を示した。味気ない、と彼女は思ったのである。せっかく縁あって素敵な男の人と結ばれたのだもの……それを、データ化数値化することに、寂しさを感じたのである。結婚は、ビジネスではない。相互努力である。それでも、まったく取り決めをしないというのも、広坂のほうが、『あなたに負荷がかかりすぎるのでは?』と疑問を呈した。よって、
■家事は、甲或いは乙、手の空いたほうが行う。この場合の家事とは、洗濯、掃除、ごみ捨てを指す。
■平日の炊事は基本的に乙が行い、休日は甲乙が協力して行う。
■住宅ローン、水光熱費は甲が負担。食費雑費を乙が負担する。
■就寝時、甲は乙と一緒に眠る。
■2020年7月7日に、乙は甲に契約を延長するのか否かを通達する。決定権は、乙にある。
■契約途中に、乙が解消を望めば、契約の解消は可能である。また、契約破棄も可能である。ただし、甲に契約の解消及び破棄の権利はない。
『……どうして広坂さんに契約を見直す権利がないんですか?』と彼女が問うたところ、『なんとなく』と広坂は言葉を濁した。ともあれ、完全に彼女に決定権を委ねたいというのが、広坂の意志のようだ。彼女はそれを、尊重した。
さて、目的地に到着した。白亜の豪邸というのはこういう建物を指すのであろう。住宅街に突如登場した豪邸。されど周囲の雰囲気を破壊することなく、自らの個性を主張する……そのやり方は、エレガントであった。
店は、ガラス張りで、なかの店員がすぐ広坂に気づいた。「……譲さま。いらっしゃいませ……」
ドアを開けて入れてくれる優待っぷりである。セレブにでもなった気分だ。服装は、持っているもので一番いいものを着た。休日なのに、無難に紺のスーツでまとめた彼女は、会釈する。「……お邪魔します」
足を踏み入れると、おだやかな空気のなかに混ざる気品に酔わされる。ホワイトの壁、低いガラスケース、きらびやかなジュエリーの数々……紺色の服でまとめ、きちんと接客するひとびと、マナーを心得た客の姿……すべてが、美しいものとして、彼女の胸に迫った。見ただけで、広坂の両親は、素晴らしいひとなのだろうということが、理解出来た。
「……譲」
「兄貴。こちらが、細田夏妃さん。ぼくとおんなじ会社に勤める、うぶで可愛い女の子。見ての通り」
弟の冗談に吹き出しつつも、彼は挨拶をした。その豊かな表情を見るうちに彼女は分析する。……へえ、目元なんかそっくり……切れ長で、理知的な印象を与える辺りが。
「親父たちなら、二階にいるからさき、行ってやって」
「ああ……分かった」
店の裏手に回り、勝手口から階段をあがる。とそこに、リビングのように、テレビとソファとテレビが置かれたスペースがあり、また手前にキッチンがあることに彼女は驚いた。……キッチン? 何故。ここはジュエリーショップなのに。確か自宅は別だと聞いている。
「あらぁ、いらっしゃい……」どうやら、広坂の皆は視力が悪いらしい。母親のほうは、縁が紫の眼鏡をかけており、短い髪は総白髪。されど、肌が白くてシミひとつなく、若々しさを放っている。
一方、父親は、茶色い眼鏡をかけており、この季節なのにブレザーを着こなす、小洒落た、還暦を過ぎたと思われる男性。ソファにて母親は文庫本、父親は新聞を読んでいたが、ひとの気配には敏感なのか。彼女たちが到着すると即座に立ち上がる。「ようこそお越しなさって。夏妃さん。うちの愚息が世話になるわね……」
「いえ、こちらのほうこそ、未熟で至らないところもあるかもしれませんが、精いっぱい、譲さんを支えられるように、頑張ります」
「あんまり力を入れすぎないことよ?」広坂の母は彼女の肩に手を伸ばし、「あら……、結構、力入っちゃってるわね? 深呼吸してる? 姿勢がいいわね。女は姿勢が――肝心よ?」
「あの。気になっていたことを伺ってもよろしいですか……?」
入り口からソファに彼女たちを誘導しながらも、母親が、「なぁに?」
「その、……どうしてダイニングテーブルが、と……。どなたか、お料理されるのですか?」一階はきらびやかな宝石を散りばめられたような世界だったがここは違う。あたたかくてまるで、茶の間のようだ。そのコントラストに驚いた彼女が問うてみると、
「あら、わたしがよ?」
「え!? お義母さんが? こんなに大きなテーブルが……お二人で、ですか?」
椅子は八脚もある。無論広坂のマンションにあるものよりも格段に大きい。彼女が素朴な疑問を口にすれば、
「うちはねえ。まかないつきなの。下で働いているみんなのために、わたしが、まかないを、作っているのよ?」
紫の眼鏡の奥の瞳がやわらかく光った。
「ふぅん。そっかぁ……やっぱ彫りたいよなぁそりゃ。だったら、彫る前にいったんお渡しして、そっから、入籍イベントこなしてから、またご来店いただいて、彫るしかないんじゃねえの?」
「それか、……広坂課長、誕生日九月じゃなかったでしたっけ? そしたら、入籍日のほうを、ずらせば……」
「『広坂課長』?」接客をしていた広坂の兄が疑問を口にする。内心で慌てつつも彼女は、「職場が一緒なもので、長年のくせで、つい、課長呼びを、してしまうんです……」
「あー分かるよ。うちなんか会社でも『母さん!』って、呼んじゃいますね」咄嗟の彼女の言い訳に同調する広坂の兄。「それで。夏妃さんのデザインは、どんなものがご希望ですか。なにか気になったものとか、ありますか?」
彼女はある指輪を指差し、「この、『アルビレオ』ですかね……。この、ブルーとダイヤの石がとても、きれいで……」シルバーの指輪の真ん中にふたつの石がついている。青の石でいつも青の眼鏡をかけている広坂を連想した。これを身につけて入ればいつも広坂に守られているような、そんな気分になれる気がしたのだ。
「ああ分かります。お二人を見ているようですものね」にこやかに広坂の兄は同意する。「じゃあ、こちらにしましょうか。えーと。譲おまえ何号だっけ?」
「分かるわけねーだろそんなの」フランクな物言いをする広坂を珍しく見る。その珍しさに目を見張りつつも彼女が見守れば、「だいたい、おれが自分の左薬指のサイズ知ってたら、そっちのほうが不気味だっつの」
「だーからおまえは四十になってもまぁだ独身なんだ。だいたい、あんなことさえなけりゃ……」
はっ、と広坂の兄が口を噤む。不審なものを感じたが、彼女は追及しなかった。
静かに、広坂が答えた。「おれまだ三十九だぜ」
「三十九でも四十でも、似たようなもんじゃねえか。
子どもは、さっさと作るんだぞ。いまから出来たって、子どもが大学卒業する頃には六十二ぃだぞ。金、貯めねえと。……夏妃さん。ほんとにうちの愚図な譲が、ご迷惑をおかけします……」
「いえ」と彼女は頭を下げた。「職場でも本当に譲さん、みんなに慕われていて、でも課長としての役目を果たしていてすごく……素敵なんです。わたし、そんな譲さんと一緒に過ごせてとても……幸せです。
お義兄さん、いろいろとお世話になります」
くぅー、いい子だねぇー、と大げさな仕草をする広坂の兄にくすくす彼女は笑った。
「ごめんね。疲れたでしょ」すっかり陽は落ち、夕焼けに照らされた街並みをふたり並んで歩く。たっぷり長居して、広坂の母の作る美味しすぎるまかないまでご馳走になり、彼の幼少期の話をたくさん、聞かされた。「うちの家族、結構強烈だから……まーでも兄貴夫婦が同居してるから、うちで集まることはあんま……ないんだ。おれひとり呼ばれたとて、あんま面白くないっしょ? ま、子どもが生まれたらどうなるかは、ちょっと、分かんないけど……。
指輪くらい、好きなブランドで、作りたかった?」
「ううん。本当……素敵なデザインで、一目ぼれだったから、本当、よかった……」彼女は会ったばかりの広坂の家族を思い返す。両親は、良識的で、背筋の伸びたひとたちで。お兄さんは、弟をからかいがちであるけれど、愛情の強さがしっかり伝わってくる……そんなひとだった。「素敵な家族に囲まれて過ごしたんだなってことが分かったのが、嬉しかった。
家族っていいですね。やっぱり……」
「ぼくたちも、家族に、なるんだよ」
指を絡ませる広坂のぬくもりが――愛しい。ここが外でなければ、キスをしていたであろう。そのくらい、ふたりの心理的距離は、縮まっている。
「――きみの、声って、すごく、いいよね……」と広坂。「自分の名前に、ぼく実は劣等コンプレックスを抱いていたんだけど……譲って。なにそれ相手に譲れっつー名前かよと。兄貴が守(まもる)でなんか、『重い』なぁと。せめて、羽生結弦の結弦だったら、よかったのにな……。んでも名前負けとか呼ばれんのも疲れるし、だったら結局それでよかったんじゃないか? ……とはいえ、きみになんか『譲さん』連発されると、なんか飼い主になでなでされてるぬこたんみたいな、いい気持ちになれる……」
「わたし、課長の名前、好きですよ。――譲さん。いーい、名前です」
太田胃散のイントネーションで言ってみれば、広坂は吹き出したのちに愛おしげに彼女を見つめ、
「――夏妃。幸せになろう、な……」
契約結婚なのに。どうしてこのひとはこんなにも感情豊かなのだろう。胸を締め付けられるほどの感動を覚えながらも彼女は「はい」と頷いた。繋ぐ手のぬくもりが、感情の正しさを、証明してくれていた。
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