あらゆる存在には役割がある。人や獣、機械、そして神や寄生虫にでさえ。
「……さん。安里光輝さん? 聞こえてます? 採血を再提出して欲しいそうなんですが、今日はいつなら医務室に来れますか?」
「え、またですか? 先日提出したばかりなんですが……」
「そんなの私に言われても困ります。とにかく私は伝えましたから、必ず今日中にお願いしますね? ご家庭が大変だとしても、決まりは決まりですので」
不満げな中年事務員が去ったのを確認すると、特大の溜息をこぼした光輝は、飲む機会を失ったまま冷めてしまった缶コーヒーに口を付けた。
戻ってすぐに上司にその旨を説明すると、上司も上司で露骨に不機嫌な顔を浮かべる。
板挟みの気苦労が顔に出てたのか、医務室に着くなり医師が申し訳なさそうに微笑む。
「そう緊張なさらずに。検査と言っても別に、安里さんが病気という訳ではありませんから」
「はぁ……あの、でしたらどうして俺だけ再提出する羽目に?」
「これも皆さんの健康の為ですよ。安里さんはその……特に御多忙ですから」
光輝が黙って腕を差し出すと、医師は消毒液を塗りながら雑談を続けてきた。
「最近調子はどうですか? 何か悩みでもあればお聞きしますよ?」
「別に今まで通りです。朝から夜まで働いて、寝る為だけに家に帰る。その繰り返しだ」
「トラブルがないならそれが一番です。安里さんは開発部でも有名な優等生だとか」
「面倒事を避けてるだけです。我を通すよりも周囲に気を遣った方がトータルで楽なので」
「お休みの日は何を? カラオケでも行って大声を出すと、ストレス解消に効果的ですよ?」
雑談混じりに医師が「少しチクっとしますよ」と忠告を挟み、光輝の腕に細い針が刺さる。
手慣れているおかげで痛みはまるでなく、透明の採血管に真っ赤な血が満たされていった。
「大声を出すのは苦手です。それに三十過ぎのおっさんじゃ、きっと場違いでしょう」
「気にし過ぎですって。今度是非試してみて下さい……それにしても安里さん、前々から思っていたんですが、貴方の血は随分お綺麗ですね」
「血を褒められるのは初めてですが……それって存外ストレスを抱えてないって事ですか?」
「食生活や睡眠時間にもよりますが、こんなに鮮やかな血は見た事がありませんね。まるで……宝石のように真っ赤で…………鮮やかな…………血………………」
そこまで感服しなくてもと笑いかけたところで、光輝はようやく異常に気が付いた。
医師の喋り方が間延びしているのではない。光輝の意識が世界から遠のいているのだ。
聴覚から始まった異常は視覚も犯していき、愛想笑いを浮かべる医師の顔が徐々にブラックアウトしていくのを認識する頃には、既に身体の感覚は意識から切り離されていた。
「…………赤………………い………血………………………」
「……さん。起……て…………さ……い、聞こえ……すか?」
暗転した意識の外から声が掛けられる。それが女の声だと分かり、ミツキは若干の苛立ちを含みながら、未だグラグラと脳内が揺れている頭を抱え起き上がった。
「起きて、起きて下さい。聞こえていますか? お名前を、伺っても?」
「聞こえてますって。アザトミツキ、開発部所……って、わざわざ医務室まで確認しに――」
驚きの余り言葉を詰まらせるミツキ。そこにいたのは年端も行かない少女だったのだ。
それにしても珍妙な格好だ。洋服と和服を混ぜたような……何かのコスプレだろうか?
しかし、なによりも驚いたのは……、
「花夜……どうして」
「ミツキ様、ですか。素敵なお名前ですね」
薄暗い部屋で佇む少女が、先月行方不明になった娘と全く同じ顔をしていた事だった。
「カヤ、ですか? あの、申し訳ありませんが人違いです。私の名前はラクスと言いますので」
「えっ、でもそんな……いや、そうだよな。そんな筈、ないか……」
ちょっと近くの浜辺で遊んでくる。そう告げた花夜は靴だけ遺し、それきり誰も見ていない。
もう生存は絶望的だろうと、捜索が打ち切られたのがつい昨日の事だった。
「ラク、ス? どうしてここに? 見覚えはないけど、先生か誰かの娘さんかな?」
「あの、恐れながらそれは私の台詞です。ミツキ様はどうやってこちらに?」
「採血に呼ばれて……って君に説明しても分からないか。おじさんはここで働いて、て……」
起き上がろうとしたミツキは、自分の身体がどこかおかしい事に気が付く。
最初は血を抜かれ過ぎて、身体が上手くコントロール出来ないのだと。
だが違う。手足がとても軽い。肩も羽根の様に上がる。まるで十代に戻ったようだ。
「あの……どうかされました? どこかお加減でも悪いのですか?」
「むしろ調子が良すぎて驚いてたんだ。寝ている間に、新商品の栄養剤でも打たれたか――」
くだらない冗談を断ち切ったのは、明らかに演技の類ではない悲鳴だった。
更に獣の鳴き声に、重機が動く様な音、そして……、
「なんだこの音、もしかして……銃声?」
「機神……もう気付かれるなんて」
可憐な少女には似つかわしくない険しい表情、そして聞き慣れない単語が妙に耳につく。
「ミツキ様。突然ですみませんがここは危険です。どうか私と一緒に来て下さい」
白くて小さな手が、有無を言わさずミツキの手を引き部屋を飛び出す。
「ちょっと待ってくれ。どこだここ。医務室じゃない? ……廃墟なのか?」
「早く! 足を止めないで下さい!」
割れた窓、砕けた廊下を駆け抜けていくうちに、ミツキの鼓動が徐々に跳ね上がっていく。
何か異常な状況だ。不安を燃料に胸の動悸が加速度的に高まっていく。
暗い廊下を眩い光が穿つ……出口だ。飛び込むように外に出たミツキは、包み込む光が晴れた途端、感情が爆発したように感じた。
「どこなんだここは……! なんなんだあれは……!!」
廃墟を囲む一面の緑、明らかに日本ではない樹海を見渡しミツキは立ち竦む。
異邦の地に迷い込んでしまったからだけではない。ラクスと同じ様な格好をした人々を襲っていたのが、あろう事か“機械仕掛けの獣”だったからだ。
大きさは戦車並で、外見は狼に似ている。四本足の先には爪があり、牙も剥いている。
しかし、毛皮の代わりに全身を覆う装甲が、血管の代わりに体躯を這うパイプが、眼球の代わりに得物を狙うゴーグル状のカメラアイが、あれが生物ではないと冷たく訴えかけていた。
背中に長距離砲を装備する物、爪や牙が特に鋭利な物とバリエーションも様々だが、中でも一際特異だったのは、全身からウネウネと黒いケーブルが生えた個体だった。
「キシン!? そうか……ハーティスが堕ちたのですね」
「キシン? キシンってなんだ? 他の狼とは違うのか?」
錯乱でもしているのか、獣は出鱈目に四肢や頭部を振り回し、その都度撒き散らされるケーブルが人や地面に触れる度、ジュッと嫌な音を立て触れた箇所をグズグズに溶かす。
遠目でも分かる程高温に煮え滾り、絶え間なく生えては落ち生えては落ちる黒いケーブルは、まるで宿主を食い破った寄生虫の様で見るもおぞましい。
「すみません、今は説明している時間が……」
「おーいラクス! 無事だったか……その少年が、例の?」
ラクスは歩み寄ってきた男からライフルを受け取ると、男の視線に応じ意味深に頷く。
「皆はこの方を連れて中央ドームまで退いて下さい。機神もあそこまでは来ない筈。殿は私が」
「分かった。さぁ、ここは危険です。我々についてきて下さい」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。ラクスを残して行くなんて、俺にはとても……」
「ミツキ様の為なら何でも出来ます、それが私の役割ですから。さ、どうかお早く」
「なんでもって……そんなライフル、あいつらに通用するとは思え――」
「皆逃げろ! ……キシンだぁぁぁぁぁぁあああああ!!」
悲痛な声に弾かれる様に振り返る。周囲からライフルの一斉射が火を噴くも、異形の獣は歯牙にもかけず、黒いコードを撒き散らしながら突っ込んできた。
目の前の濃厚な死の気配に、ミツキは声を上げるどころか息を吐く事さえ出来ない。
このままでは駄目だ……だがミツキに何が出来る?
【カ……ミ……】
「今の声……――」
一瞬聞こえた機械音の様な声が、降り注ぐ大量のケーブルに飲み込まれる。
咄嗟にラクスを突き飛ばしたつもりだが、伸ばした手にも瞬く間にケーブルが絡みつき、あらゆる感覚は黒い激痛に塗り潰され、すぐに何も分からなくなってしまった。
【痛●●●●●●●●熱●●痛熱憎●●●●●●●●熱●●●●●●●●●●●憎熱●●●】
熱い。身体が火の様だ。黒いケーブルが身体に巻き付いているのか、身体に入り込んでいるのか、あるいは身体から生えてきているのか。
互いに溶け合いドロドロになった感覚に、ノイズ混じりのどす黒い憎悪が注ぎ込まれる。
【●●●コー●●●●●レッ●●●●●証●●。デ●●✕●キナ、イ●ス●●●開●●●●】
何かが脳裏をよぎるも分からない。熱い、兎に角熱くて痛い。それ以外は何も分からない。
●シンが憎い、何も出来ない自●も憎い。助けてくれなかった●●●が憎い。
最早何もかもが憎く、世界が黒く染まっていく。
全身を激情が支配するが、それがケーブルから注ぎ込まれたものなのか、うち から燃え上がるものなのかさえ分からない。ただただミツキは全身が熱く、そして全てが憎かった。
この熱さから解放されるなら何だってする。神でも悪魔でもいい、誰か何とかしてくれと強く激しく願ったその瞬間……ケーブルの塊と化した右手が、“何か”を握った。
「う、あ……ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
それは声と呼ぶには余りにも出鱈目な、ただただ激情を吐き出しただけの、獣染みた咆哮。
人は生まれる時に必ず泣き叫ぶ。だからきっとミツキは、今この瞬間世界に再誕した。
気が付くと全身の熱さが嘘の様に引いていた。いや違う、一か所に収束しているのだ。
黒いケーブルに塗れた右腕が、ドクンドクンと力強く、そして禍々しく脈動する。
右手の感覚が酷く曖昧だが、今ならなんでも出来る。そんな万能感を握り締めていた。
「どうしたキシン? 随分弱っているな? 俺にケーブルを奪われたからか?」
【ぎ……ガ………ミ………か…………み】
「俺を神と呼ぶか……あぁそうだ、俺はお前の死神だ」
何の気なしに黒い腕をキシンに突き出した。理由は分からずとも本能がそう命令する。
右腕の温度が上昇していくにつれ、ミツキの怒りのボルテージも過熱していく。
【コ………ル…………………スマ、ナ――】
『モードチェンジ、バーストモード。神の雷、照射準備』
右腕の温度が臨界に達した途端、纏っていたケーブルが泡の様に弾け飛ぶ。
中から現れたのは、禍々しくも神々しい、機械仕掛けの右腕だった。
「消え失せろ! これが神の怒りだ!」
生まれた時からそう備わっていたかの如く、変形した掌底から銃口が飛び出る。
ため込まれた熱が一気に解き放たれ、極限の爽快感と共に灼熱の光線が射出された。
発射の直前ガクンと強い衝撃が肩に響き、音すら置き去りにした極光は、一瞬でキシンの身体の右半分を消し飛ばし、そのまま射線上の一切合切全てを焼き払う。
視界が歪む程の湯気を立てた右腕が、ゆっくりと変形し銃口部を収納した。
「はは、は、は……ざまぁ、み――あれ?」
鋼の塊となった腕が重い。自身の腕の重さに耐え切れず、ミツキはその場に崩れ落ちる。
握っていた万能感と共に、魂まで根こそぎ手放してしまったかの様だ。
乱転する視界が猛烈に吐き気を催し、光線の余熱で焼け焦げた地面の感触が不快だった。
「ラクス……無事、かな。まぁ……もう……なんでも、いい…………か……」
今はそんな事よりも、この重くて熱い右腕を切り落とせたらどんなに楽だろうか。
辛うじてそんな事を考えていると、不意に近くでガシャンと何か重い金属音が響く。
首に力を込めるだけでも億劫だったが、突っ伏していた顔を重たげに持ち上げる。
「なん、だ……キシンの、残骸、か……はは、真っ黒、焦げ……だ……」
どうでもよくなったミツキは、もう楽になっていいだろうと鉛の様に重い瞼を閉じようとした……しかし次の瞬間、
「……綺麗だ」
考えるよりも早く自然と零れた言葉だった。それ程までに美しかったのだ。
恐らくそこは操縦席だったのか、大破したキシンの頭部から崩れ落ちてきたのは、よろめきながらも尚、白狼の様な凛々しさを纏った美しい少女だった。
「ハーティス……やっと神ヲ、見つけたヨ。憎っくキ我らの、赤イ血の神」
「君、は……一体――」
沈んでいく意識が堪えられない。薄れゆく視界の中で、ふらつく少女が眼前に迫る。
「恨みはなイが、神……お前ヲ殺ス。この世界ヲ、守る為ニ」
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