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静寂に包まれた病室に、微かな電子音が響いている。
ベッドの脇にある心電図モニターが、規則正しい波形を描いていた。
その波形は、拓実の心臓の鼓動と同じだった。
事故から一カ月。
拓実は、ただひたすらに祈り続けた。
蓮の意識が戻ることだけを願って、毎日この場所に通っていた。
蓮の手を握り、時には眠る彼の髪を優しく撫で、時にはただ静かに隣に座っていた。
その日も、拓実はいつものように蓮のベッドに寄り添っていた。
外は夜の闇に包まれ、窓ガラスには拓実の疲れた顔が映っている。
蓮の白い頬にそっと触れたその時、拓実の指先に、かすかな動きを感じた。
「蓮くん…?」
拓実が驚いて顔を上げると、蓮の瞼がゆっくりと震え始める。
そして、琥珀色の瞳が静かに、そしてゆっくりと開かれた。
「蓮くん!よかった…!」
拓実の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
ずっと張り詰めていた心の糸が、ようやく緩んだ瞬間だった。
蓮の意識が戻った。
その事実だけで、拓実はこの上ない幸せを感じていた。
拓実は、溢れる涙を拭うことも忘れ、蓮の顔をまじまじと見つめる。
蓮は、ぼんやりと天井を見つめていたが、やがて視線を拓実に向けた。
そして、その瞳に微かな戸惑いの色が宿った。
「…どちら様ですか?」
その言葉は、拓実の喜びを打ち砕くには十分すぎるほど、冷たい響きを持っていた。
拓実の涙は、ぴたりと止まった。
「え…?」
拓実は、声にならない声で蓮を呼んだ。
信じられない、という表情を隠せない。
蓮の瞳は、まるで初めて会った人間を見るかのように、まっすぐ拓実を捉えている。
「えっと、その、どちら様ですか?」
蓮が、もう一度問いかけた。
拓実の頭の中は真っ白になった。
蓮の笑顔も、声も、温もりも、すべてが拓実の心を占めているのに、蓮の心の中には、拓実という存在がどこにもない。
「あの…、俺、川西拓実…だよ?」
拓実は、震える声で自分の名前を告げた。
しかし、蓮の表情は変わらない。
「かわにし…たくみ…。すみません、存じ上げないです」
蓮の言葉が、拓実の心臓をナイフのように切り裂いた。
全身から力が抜け、その場にへたり込んでしまう。
「…うそ…だろ…」
拓実は、ただ呆然と呟くことしかできなかった。
その日の夜、拓実は眠れなかった。
蓮の「どちら様ですか?」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
医師からは、「記憶障害」と診断された。
過去の記憶だけがごっそりと抜け落ちてしまったという。
医師は続けた。
「焦らず、ゆっくりと向き合ってあげてください。刺激を与えないように」
拓実は、その言葉を何度も心の中で反芻した。
蓮の隣にいるために、彼は「知らない人」という立場を受け入れるしかなかった。
翌日、拓実は再び病院を訪れた。蓮は、昨夜とは違い、少し穏やかな表情をしていた。
「おはようございます。体調はどうですか?」
拓実は、昨日とは打って変わって、よそよそしい態度で話しかけた。
蓮は不思議そうに拓実を見つめた。
「…あ、はい。おかげさまで。あの、昨日はすみませんでした。動揺していて、失礼な態度をとってしまって」
蓮のその言葉に、拓実は胸が締め付けられる思いがした。
知らない人に対して、丁寧に謝る蓮。
その優しさは、記憶を失っても変わらない。
しかし、その優しさが、拓実をより深く傷つけた。
「いえ、大丈夫です。あの、僕、JO1というアイドルグループのメンバーなんです。蓮くんは、僕たちのパフォーマンスリーダーで…」
拓実は、蓮に過去を説明し始めた。
JO1のこと、二人が共に過ごした日々のこと。
蓮は、拓実の話を静かに聞いていた。
しかし、彼の瞳には、何の感情も宿っていなかった。
「そうなんですね…。すみません。僕には、何も思い出せなくて…」
蓮の言葉に、拓実は「知ってるよ…」と心の中で呟いた。
それでも、拓実は蓮の隣にいることをやめられなかった。
彼が再び自分を思い出すまで、ずっと隣にいると心に決めた。