スマホのアラーム音が遠くに聞こえている。あぁ、もうそんな時間か。でも昨日の夜遅かったからな。もう少しだけ……。いま、温かなお湯の中に身を沈めているような心地よさに包まれていて、それを手放すのが惜しいのだ。意識が深くに沈んでいく。誰かが俺を呼ぶ声がしたような気がした。
「お、リーチおめでとう」
学食で待ち合わせていた若井がニヤニヤと笑いながら俺を見る。俺はむくれながら「うっせぇ」と吐き捨てた。
「なんで2限に授業入ってんだよ~」
「いや、10時半からなんだから間に合えよ」
「うるせぇよ、てめぇは今日は午後からの人間だろ」
講義には出席点が設定されており、欠席すると2点、遅刻すると1点引かれる。前期を通して15回開催される講義のうち、10点以上引かれたらその時点で出席点が足りず落単である。つまり、欠席は5回まで。しかし俺はこの水曜2限の講義をもうすでに5月に1回、6月は今日で3回と続けて欠席してしまっているのだ。
「地味に大変なんだよなぁ、家から通うの」
俺と若井の最寄駅から大学の最寄までは乗り換えありで40~50分ほど。駅から大学までは近いが、駅から家は歩きで15分ほどかかるので、だいたい1時間かかる。しかし一人暮らしにかかる費用を考えれば、実家を出るという選択肢はまずない。中にはもっと時間をかけて通っている人もいるわけだし。
「どうせ昨日帰ってからも遅くまでやってんだろ」
若井が呆れたようにため息を吐く。
「うん昨日の合わせで二番のAメロの流れで皆でも話したやつあったでしょ。俺のギターパートをアレンジ修正しよかなって。多分これでいい感じ。若井にもちょっと変えてほしくて」
「いいよどんなの」
こんな感じ、といってスマホでつくってきた音源を聴かせる。慣れたもので、若井はおっけーおっけーと言いながら頷く。
「それ後で送っといて」
「はーい」
「本当に楽曲のことになるとそればっかりだよなぁ、元貴は」
しかし、火曜に全員で合わせをするとどうしても気になる部分が出てきたり、創作意欲が刺激されて朝まで曲作りに没頭してしまったりするのだ。こればかりは自分でも止められない。若井にラインで音源データを送ったついでにスマホでスケジュールを確認する。今日は6月11日。学祭ライブが7月12日なので、もうちょうどあと1か月しかないのだ。
「あれ、珍しい。藤澤さんだ」
若井の発言に、その目線の先に慌てて自分も目を遣ると、講義終わりなのか藤澤さんが学食のトレイを持ち、数人の女子と連れ立って歩いている。藤澤さんは節約のためにお弁当を作ってきていると言っていたから、学食で見かけるのは本当に稀だ。
「なんか、違和感ないよな」
若井の言わんとすることが分かり、俺も無言で頷く。いくら教育学部は女子率が高いとはいえ、藤澤さんほど女子グループに馴染んでいる男も珍しいのではないだろうか。藤澤さんがこちらに気づいて、手を振りながら近づいてくる。その左耳に薄紫のピアスが光っているのを見るたび、俺は嬉しいような恥ずかしいような、なんとも言い表しようのない不思議な気持ちになる。
「二人ともお疲れ様ぁ~!大森君、今日は大丈夫だった?」
昨日練習終わりに若井に2限に間に合うよう念を押されていたのを聞いていたのだろう。俺はばつが悪くなって下を向き、いや、その、と言葉を濁す。
「こいつリーチっすよ」
余計なこと言いやがって、若井め。内心舌打ちをする。
「うわぁ~、まじか、大変だ。でも皆で練習した後ってモチベも上がるしいろいろ考えちゃってなかなか寝付けないよねぇ」
僕も今日は寝坊して遅刻しそうだったからお弁当なし、と恥ずかしそうに笑って、定食の載ったトレイを掲げてみせる。ちゃっかりうどんも載っている。本当によく食べる人だ。
「家が遠いのが悪いんですよ」
俺は不貞腐れたように言う。
「練習の時も終電気にしなきゃだしなぁ」
もう少しここを詰めておきたいな、という時も、俺と若井は終電の時間を気にして早めに出なければならない。乗り換え先の電車の終電がそこそこに早いのだ。確かになぁ、と若井が頷く。てめぇは例の女の子んとこ泊めてもらったらいいだろ、と吐き捨てると、まだそういうんじゃないから!と怒られる。例の女の子とは、最近若井がいい感じになっていると彼自身が自慢してきた同学部の同期の子だ。
「なんなら合わせの日は二人ともうち泊まる?狭いし汚いけどそれでもよければ……。特に大森君は次欠席したらもう後がないでしょ」
思ってもいない申し出に俺は目を見開く。願ってもない話だがそんな甘えても良いものだろうか。
「あ、もちろん若井君みたいに当てがあるなら大丈夫だけど」
「ちょっと藤澤さん~だから違うんですってば~」
泣きそうな顔でツッコミを入れる若井。なんだかんだとこの二人も打ち解けてきている。
「練習が延びないなら、俺は別に次の日余裕あるんで大丈夫なんですけど」
「そっか、じゃあいざとなったら、という感じかな」
俺は背に腹は代えられないと覚悟を決め、恐る恐る手を挙げる。
「俺はお願いしたいです……もう後がないので」
ばつが悪そうな俺の表情に、若井と藤澤さんが顔を見合わせて笑った。
コメント
6件
まじ天才だろこれ、ほんとに最高すぎる。3人の会話が日常だなぁ(´∇`)
何気ない描写がすばらしすぎて、なんか本当に3人が大学生としてその場にいるみたい、、このあとも楽しみにしてます!
めっちゃいい展開ですね( ˶>ᴗ<˶) 3人の話が可愛すぎます! これからどうなるのか楽しみです!