帰国の予定を1日早めて日本に帰ることを決めた俺は、日曜の朝一番で飛行機に飛び乗った。
本当なら今日は現地の友人のパーティーに顔を出すつもりだった。
決してパーティーが好きなわけではないけれど、そういう場で培うコネクションは自分のビジネスの糧になると最近わかってきた。
だから珍しく行く気になっていたのに。
「ったく、何を考えているんだ」
たった1週間家を開けただけで、芽衣が姿を消してしまった。
その上雄平は、俺に何も言わずに芽衣の辞表を受け取ったらしい。
「帰ったらただじゃおかないからな」
ファーストクラスの席に座り険しい顔でブツブツとつぶやく俺の周りには、誰も近づいてこない。
いつもなら必要以上に声をかけるクルーたちも、今日は遠巻きに見ている。
東京までの7時間がこんなに長く感じた事はなかった。
早く戻りたいと言う焦りが、俺をよけいに苛立たせる。
***
昨日の朝まで、芽衣は電話にも出ていたしメールだって返ってきていた。
それがいきなりの音信不通。何かあったんじゃないかと心配になった俺は何度も何度も電話をかけた。
しかし、何時間たっても芽衣の電話はつながらないまま。
土曜日だから外出でもしたかなと考えてはみたが、病院へ行くと言っていたこともあって不安は増すばかり。
こんな時は雄平に聞くのが一番状況が分かるだろうと電話を入れた。
「はあ?どういうことだよ」
「どういうって、辞めたいって言われて辞表を預かった」
何でもないことのように言われ久しぶりにブチ切れてしまった。
「なんで辞表何か受け取るんだよ」
「お前がちゃんと芽衣を見ていろよ」
冷静になって考えれば八つ当たりでしかない。
それでも俺は持って行き場のない苛立ちを雄平にぶつけるしかなかった。
「そもそも、芽衣が会社を辞めたいって言ってきたときに、なんで俺に言わなかった?俺と芽衣が一緒に暮らしているのをお前は知っていたはずじゃないか」
元カレとのことがあって、雄平が芽衣のことを快く思っていないのは知っている。
俺に言わせれば芽衣だって被害者だが、雄平には芽衣のせいで俺が被害を被ったように見えるらしい。
「奏多には言うなって口止めされたんだ。それに、小倉が自分の意志でお前のもとを離れようとしているのに、止める理由がどこにある?」
当たり前のように言い放つ雄平。
俺は返す言葉を失った。
きっと、俺の周辺には雄平と同じように芽衣のことを見る人間も多いだろう。
芽衣はそれがわかって逃げ出したのかもしれない。
全ては俺の責任ってことか。
***
午後の早い時間に日本に着いてまずは自宅へ戻ってみた。
予想通りというかやはり芽衣はいなかった。
それどころか芽衣の荷物も全てきれいに片付いていて、跡形すらない。
当然芽衣が住んでいたアパートにも行ってみた。
近くに住んでいる大家に確認してみたら3日前に解約して荷物は全て業者が処分したと言われ、計画的な行動だったんだとわかった。
芽衣は初めから俺がシンガポールへ行ったタイミングで姿を消すつもりだったんだ。そう思うと裏切られた気持ちが強く怒りがこみ上げてきた。
その後会社に向かい、雄平を呼び出した。
雄平にしてみればいい迷惑でしかないだろうが、芽衣の失踪に一役買ってしまった責任は雄平にもある。それがわかっているらしく何も言わずに俺の文句を聞いていた。
「で、これからどうするんだ?」
「さぁなあ」
どうするかなあ。
どちらにしても、芽衣が本気で逃げ出したのなら俺には打つ手がない。
***
「小倉がなんでお前に黙っていてくれって言ったか、わかるか?」
俺の怒りが一通り収まった頃を見計らって、雄平が聞いてきた。
「逃げる時間が欲しかったからだろ」
実際芽衣は逃げ出したじゃないか。
「それもある。せっかく決心してもお前の顔を見れば気持ちが揺らぐだろうからな。でも、それ以上にお前の足を引っ張りたくなかったんだよ」
「何だよそれ」
「『今自分がいなくなれば奏多はシンガポールから飛んで帰ってくるだろうから、プロジェクトの契約が無事終わるまでは絶対に言わないでほしい』って言ったんだ」
芽衣の奴、よけいな気を使いやがって。
そんなことされて俺が喜ぶとでも思っているのか。
「小倉は小倉なりにおまえのことを心配して出した答えだと思うぞ」
「そんなこと・・・」
俺は頼んでいない。
俺は芽衣といて幸せだった。
ただ側にいてくれればよかったんだ。
でもきっと、それは芽衣にとっての幸せじゃなかったんだな。
結局は俺の独りよがりだったらしい。
「なあ奏多」
「ん?」
「久しぶりに飲みに出るか?」
「あ、ああ」
俺に断る理由はない。
今はどんなに焦っても芽衣が帰ってくる訳ではないし、強引に探して無理やり連れ帰っても芽衣の心までは取り戻せないと気が付いた。
こんな時はパーッと飲みに出るか。
「奏多の奢りだからな」
「わかってる。その代わり、朝まで付き合えよ」
「ああ」
俺と雄平は飲みに出ることにした。
***
「いらっしゃいませ」
「こんばんわ」
雄平とともにやってきたのは都内のワインバー。
ここに来るのは随分久しぶりだ。
はじめてきたのは大学の卒業後。親父に連れられてきたのが初めてだった。
「お久しぶりですね、奏多さん」
「ええ」
やっぱり憶えられていた。
まあなあ、親父を知る人間が俺を見れば必ず親子だってわかるらしい。
子供の頃から俺は親父にそっくりだったから。
「何かお作りしましょうか?」
「ええ、お任せで何かお願いします」
「かしこまりました」
「相変わらず顔が知れているな」
「うるさい」
俺だって好き好んで親父の子供に生まれたわけじゃない。
金持ちを恨んだことはないが、どこに行っても『平石の坊ちゃん』と呼ばれるのにはうんざりだ。
もう少し静かに穏やかに暮らしたいとどれだけ願ったことか。
「そういえば、遥さんの社長就任も近いらしいな」
「ああ」
準備が進んでいるって聞いた。
七歳年上のできる兄。
今では平石財閥を担う柱となっている。
これだけの結果を残して理想の後継者を地で行く兄さんに、誰も文句を言うことはしない。
ただ、血にこだわる取り締まり役達は俺の存在が気になるらしい。
「さすが血だね、奏多君は父上にそっくりだ」
養子である兄さんの前でも平気で言われるのがすごく嫌だった。
きっと兄さんも傷ついていただろうけれど、いつも平気な顔をして笑っていた。
頭がよくて、優しくて、優秀すぎる自慢の兄さん。その背中を俺はいつも追いかけていた。
***
「見合いはどうするんだ?」
グラスのワインを二杯ほど空けて少し気持ちよくなってきたころ雄平が切り出した。
見合いかあ。
そう言えば来週には父さんとの会食と称した見合いが予定されている。
少し前に芽衣の元カレを殴った騒動があり、それを治める条件に見合いをすると約束した。
見合いをしたからと言ってもすぐに結婚するわけじゃないし、会えば親父の気もおさまるだろうと思っての決断だったが、
「雄平、お前まさか芽衣に見合いの話をしていないよな?」
「したよ」
「はあ?」
ギロリと、俺は雄平を睨みつけた。
ふざけるのもいい加減にしろ。
なんでわざわざ余計なことを言うんだよ。
もしかしたらそのせいで、芽衣は出て行ったのかもしれないじゃないか。
「お前が見合いをするのは事実だろ?」
何が悪いんだって態度の雄平。
「見合いなんて形だけで、初めから結婚する気なんてない。親父の手前見合いを受けただけだ」
「相手は大臣の娘だぞ」
「ああ」
それは数日前に聞いた。
まずいな簡単には断れないなと思った。
けれど俺には芽衣がいるんだ、他の人と結婚するつもりはない。
「小倉のためにも、相手の女性のためにも、この見合いは受けるべきではなかったんだと思うぞ」
「そんなことしたら」
親父が黙っていない。
「いいじゃないか。単身アメリカに飛び出した時みたいに反抗すればよかっただろ」
「それは・・・」
簡単な話ではないんだ。
***
物心ついたころから、兄さんが俺のあこがれだった。
勉強ができて、優しくて、家族みんなが兄さんのことを好きだった。
そんな兄さんが養子だと知ったのは俺が小学校へ上がった頃。
親戚のおばさんたちが話をしているのを偶然聞いてしまった。
「どこの誰ともわからない人の子を跡取りにしなくても、血を分けた子の奏多がいるじゃないの」
「そうよ。遥は体も弱いし、平石を継ぐのは無理だと思うわよ」
親父や母さんがいないところで、コソコソと囁く大人たちが俺は嫌いだった。
もちろん両親も同居していたじいさんたちも家族の誰一人兄さんを邪険にすることはなかったが、一歩外に出れば兄さんに対する風当たりはきつかった。
当時子供だった俺は、自分がいなければ兄さんを悪く言う人もいないんだと思ってしまった。
だから、中学を卒業すると同時に家を出た。
親父も母さんも大反対で相当もめたけれど、どうしてもと言い張った俺に最後には折れてくれた。
「親父さんもおばさんも、お前には弱いんだよ」
ニタニタと笑う悪友は「結局お前は甘ちゃんだ」と言いたいらしい。
「そうでもないと思うがね」
俺だって苦労はしている。
「あの頃からそうだったじゃないか。週末になるとお前のおふくろさんがやってきていて、俺はてっきり近くに住んでいると思っていたんだぞ」
「ああ」
普段贅沢なんてしない母さんが、プライベートジェットを買ってもらい毎週のようにアメリカまで来ていたっけ。
「今回の見合いの件も、あの時のように嫌だと突っぱねればよかったじゃないか」
「それは・・・」
俺だっていつまでも15歳のままじゃない。
***
親父も母さんも理解のある親だと思う。
人の悪口は言わないし、恋愛だって結婚だって本人の意思を尊重してくれる。
実際、兄さんもいとこたちもみな恋愛結婚をしているし、父さん自身も大恋愛の果てに結婚したと聞いた。
どちらかというと、問題は俺の方だ。
「小倉のどこがいいんだよ」
俺の奢りだと思って遠慮なくグラスを空け続ける雄平が酔っ払い気味に聞いてきた。
「さあ、どこだろうな」
そんなことが分かれば恋愛なんて苦労はしない。
「このまま諦めるつもりか?」
「それが芽衣の望みならな」
「きれいごとだな」
やかましい。
これでも必死に耐えているんだ。
「要は、正面から向かって行ってダメだった時に自分が傷つきたくないだけだろ?」
うっ。
本当に嫌な奴。
「お前もプライドが高いからなあ」
「雄平、今日はずいぶん饒舌だな」
一人でペラペラと俺の性格分析を始めた友人を睨みつけた。
雄平の言ったことは間違いではない。
それは俺にもわかっている。
でもなあ・・・
「まあ、一度きりの人生だから後悔しないことだな」
「わかっている」
グイッ、グイッ。
グラスに残ったワインを一気に流し込んだ。
まずいな、昨日からあまり寝てないせいかアルコールがよく回る。
それでも、今日みたいな日には飲まないとやっていられない。
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