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第1章 鎖の中の少年
【ぷりっつ視点】
古代遺跡というものは、どうにも好きになれない。
何百年、あるいは何千年ものあいだ人の目から隠されてきた場所には、たいてい碌でもない仕掛けが眠っている。壁に刻まれた古代文字、魔力に反応して開く扉、侵入者を排除するための罠。冒険者として数え切れないほどの依頼をこなしてきた俺にとって、それらは決して珍しいものではなかったが、だからといって慣れたいと思うものでもなかった。
今回の遺跡も、入口からして嫌な雰囲気が漂っていた。
エルディア大陸の北東部、地図にもほとんど記されていない深い森の奥。崩れかけた石造りの門には、現在の魔術体系とは明らかに異なる紋様が刻まれており、その表面を指先でなぞるだけで、皮膚の下を冷たい何かが這い回るような感覚があった。
「ねぇ、これ、本当に入るの?」
背後から聞こえたちぐさの声には、いつもの軽さがわずかに薄れていた。
「ここまで来て帰るんか? ちぐ、お前そういうとこあるよな」
「いや、帰りたいっていうか、普通に嫌な予感がするんだけど。こういう場所って、絶対なんかあるじゃん」
「そりゃ遺跡だからな。なんもなかったら、逆にびっくりするわ」
「そういう意味で言ってないんだけど!」
ちぐさが呆れたように声を上げ、その横であっとが小さく笑った。
「まあ、気持ちはわかるよ。俺も、ここはちょっと気になる。外から感じる魔力が妙に強いんだよね」
「俺も同じこと考えてた。自然に残ってる魔力とは違うんだ。何かを維持するために、今も供給され続けてるように見える」
まぜ太は手元の魔道具を操作しながら、遺跡の入口をじっと観察していた。銀色の髪が木々の間から差し込む光を受けて淡く輝き、魔道具の表面には、周囲の魔力に反応する細かな光が浮かび上がっている。
「維持するため、ねえ……。宝箱でも守ってるんかな」
「そうだといいけど。俺は、もっと別のものを想像してる」
「お前、そういうこと言うとき、だいたい当たるから嫌なんよ」
俺がぼやくと、少し後ろにいたけちゃが困ったように笑った。
「えへへ、みんな、準備はできてる? 怪我をしたらすぐに言ってね。無理をすると、後で治すのが大変だからね」
「けちゃが一番無理しそうやけどな。人のことばっか心配して、自分のこと後回しにするやろ」
「そ、そんなことないよ!たぶん」
「たぶんて」
「もう、ぷりちゃんまで!」
けちゃが頬を膨らませ、ちぐさが隣で笑う。いつも通りのやり取りを交わしながら、俺たちは遺跡の内部へと足を踏み入れた。
けれど、入口を越えた途端、そんな気楽な空気は長く続かなかった。
石壁に沿って進む通路には、長い年月を経ても消えずに残った青白い光が浮かんでいた。松明も魔石灯も必要ないほどの明るさなのに、その光には不思議と温度がなく、照らされた床も壁も、まるで色を失った絵画のように見えた。
歩くたびに靴底が石を叩く音が響き、その反響がいつまでも遠くへ消えていかない。
「……静かすぎん?」
思わず口にすると、先頭を歩いていたあっとが頷いた。
「生き物の気配がないね。これだけ深い森なら、小動物くらいはいてもおかしくないのに」
「魔力の影響で近づけないのかもしれない。床の紋様も、ところどころ反応してる」
まぜ太の声を聞きながら、俺は腰の剣に手を添えた。
ただの調査依頼だったはずだ。
古代遺跡で魔力反応が確認されたため、内部の構造と危険性を調べてほしい。依頼書にはそう書かれていたし、少なくとも人間が住んでいるなんて話は一切なかった。
けれど、通路の奥へ進むにつれて、胸の奥に小さな違和感が積もっていった。
何かがおかしい。
それが何なのか、まだはっきりとはわからない。ただ、遺跡の奥から伝わってくる魔力は、古代の遺物に残された残響というには、あまりにも生々しかった。
まるで、誰かがそこで息を潜めているような。
やがて通路の突き当たりに、大きな扉が現れた。
扉の中央には、円を幾重にも重ねたような紋章が刻まれている。まぜ太が近づいて魔道具をかざした瞬間、その紋章が淡く明滅し、床を伝って青白い光が広がった。
「待って、触らないで」
まぜ太が鋭く言い、俺たちは一斉に足を止めた。
「この扉、封印術式が組み込まれてる。しかも、普通の封印じゃない。何かを閉じ込めるためのものだ」
「……中に何がおるん?」
俺の問いに、まぜ太はすぐには答えなかった。
扉の表面を慎重に観察し、刻まれた文字をひとつずつ読み解こうとしていた。やがて、眉間に深い皺を寄せる。
「読み取れる部分だけでも、かなり古い。『接続』『器』『維持』……それから」
言葉が途切れた。
「……鍵?」
その一言が、妙に耳に残った。
鍵
扉を開けるためのものか。封印を維持するためのものか。それとも、もっと別の何かを指しているのか。
考えを巡らせていると、けちゃが小さく声を上げた。
「ねえ、あそこ……光が漏れてるよ」
扉の端に、細い隙間があった。
封印は完全に閉じているわけじゃないらしい。わずかな隙間から、青白い光が絶え間なく漏れ出している。その光は、まるで誰かの呼吸に合わせるように、ゆっくりと強弱を繰り返していた。
「中に何かいる可能性がある。慎重に開けよう」
あっとが盾を構え、俺は剣を抜いた。ちぐさが左右の通路を確認し、けちゃはいつでも治癒魔法を使えるように杖を握り直す。まぜ太が封印術式の一部を解除すると、重い音を立てて扉が少しずつ開いていった。
その先に広がっていたのは、想像していた宝物庫でも、魔術研究室でもなかった。
広い円形の部屋。
天井には複雑な紋様が描かれ、床には幾重にも重なった魔法陣が広がっている。部屋の中央には黒い金属で作られた柱が立ち、その周囲から伸びた鎖が、ひとつの檻へと繋がっていた。
そして、その檻の中に。
ひとりの青年がいた。
「……人間?」
ちぐさの呟きが、ひどく遠く聞こえた。
青年は檻の隅に身を縮めるようにして座っていた。明るい黄色の髪は長いあいだ手入れをされていなかったのか、ところどころ乱れている。それでも、薄暗い部屋の中でその色だけは不自然なほど鮮やかだった。身体を包んでいる白い衣服には金色の刺繍が施されていたが、布地は擦り切れ、袖口にも裾にも汚れが目立っている。
手首には細い拘束具が嵌められ、そこから伸びた鎖が檻の床に固定されていた。
青年は俺たちの存在に気づくと、勢いよく顔を上げた。
琥珀色の瞳が、こちらを捉える。
その瞬間、俺は足を止めた。
青年の目には、希望よりも先に恐怖があった。
助けを求めているのかどうかさえ、すぐには判断できなかった。俺たちを見つめる瞳は大きく見開かれ、肩は強張り、鎖を握る指先には白くなるほど力がこもっている。逃げようとしても逃げられないことを、何度も思い知らされてきたような姿だった。
「……来ないで」
掠れた声が、部屋の中に落ちた。
青年は檻の奥へ下がろうとしたが、背中が壁にぶつかり、それ以上は動けなかった。逃げ場がないと気づいたのだろう。彼は身体を小さく丸め、俺たちの手元と顔を交互に見ていた。
剣を持つ俺の手に視線が止まったとき、青年の喉がかすかに動いた。
俺はすぐに剣先を床へ向け、仲間たちにも武器を下ろすよう目配せした。
「大丈夫や。俺らは君を傷つけるつもりで来たんやない」
できるだけ声を穏やかにしたつもりやった。
けれど、青年の身体から力が抜けることはなかった。むしろ、俺が一歩近づこうとしただけで、びくりと肩を跳ねさせた。
「……やめて、ください」
丁寧な言葉遣いが、かえって胸に引っかかった。
「近づかないで……。ちゃんとしますから。言うことを聞きますから、だから……」
そこで声が途切れた。
青年は何を言えば許されるのか、必死に探しているようだった。俺たちの顔色を窺い、怒らせない言葉を選び、少しでも危険を遠ざけようとしている。その姿は、目の前の人間が何をするかわからないと怯えている人そのものだった。
「……あっと、周りを見てくれるか」
俺が小さく頼むと、あっとは頷き、檻の外側を慎重に調べ始めた。まぜ太も魔法陣へ視線を落とし、複雑な術式を読み解こうとしている。
俺は青年から一定の距離を保ったまま、膝を軽く曲げて視線の高さを合わせた。
「俺はぷりっつ。こっちは俺の仲間や。君の名前、聞いてもええ?」
青年はすぐには答えなかった。
名前を尋ねられることさえ、何かの試験なのかもしれない。そう考えているのだろうか。彼は俺の顔を見つめ、それから仲間たちへ視線を移し、最後にもう一度、俺の顔へ戻ってきた。
長い沈黙のあと、ようやく小さな声が聞こえた。
「……あっきぃ、です」
「そっか、あっきぃっていうんやな」
名前を繰り返すと、あっきぃはわずかに目を伏せた。
嬉しそうな様子はない。名前を呼ばれたことに安心したわけでもなさそうだった。ただ、尋ねられたことに答えた。それだけで精一杯なのかもしれない。
「なんで、こんなところにおるん?」
俺が尋ねた途端、あっきぃの表情が変わった。
それまで俺たちの顔色を窺っていた瞳が、急に揺らぎ、唇がきゅっと結ばれる。拘束具の嵌められた手首を、もう片方の手で覆い隠すように抱え込んだ。
「……俺は、ここにいないといけないんです」
一瞬、耳を疑った。
声は小さく、ところどころ掠れていたけれど、確かにそう言った。
「ここに?」
「はい」
「誰かに言われたん?」
あっきぃは答えなかった。
代わりに、天井の魔法陣を見上げた。その視線には、俺たちにはわからない何かを恐れる色があった。
「俺がいなくなったら、世界が危なくなるから」
あまりにも静かな声やった。
まるで、毎日繰り返し聞かされてきた言葉を、そのまま口にしただけのように。
「俺は、世界を守るためにいるんです。だから……ここから出ちゃいけないんです」
俺は思わず眉を寄せた。
目の前の青年は、どう見ても戦いに慣れた冒険者には見えない。武器を持っているわけでも、自由に魔法を操っている様子があるわけでもない。手首と足首を拘束され、檻に閉じ込められ、誰かの顔色を窺いながら言葉を選んでいる。
そんな人が、自分ひとりの存在に世界の命運を背負わされている。
それを疑問に思うことすら、許されてこなかったのかもしれない。
「……あっきぃ」
名前を呼ぶと、彼はびくりと反応した。
できるだけ慎重に言葉を選ぶ。
「俺らは、その話をまだ何も知らん。君が何をせなあかんのかも、ここに何が封じられてるのかもな。だから、今すぐ全部説明せえとは言わん」
あっきぃは警戒を解かないまま、じっと俺を見ていた。
「ただ、少なくとも俺には、君がここに閉じ込められてなあかん理由がわからへん。鎖までつけられてる必要があるようには見えんのよ」
「……でも」
「うん」
「俺がいなくなったら、みんなが困ります」
その声には、怯えだけではないものが混じっていた。
自分がどうなるかより、ここからいなくなったあとに何が起きるかを恐れている。知らない世界のことも、外にいる人々のことも、彼はほとんど知らないはずや。それでも、誰かが困ると言われれば、自分が犠牲になることを受け入れようとしてしまう。
俺には、その考えが正しいかどうかを判断する材料がなかった。
だけど
「……ほな、そのことも一緒に調べたらええやん」
あっきぃが、目を見開いた。
「俺らは冒険者や。危ないもんを調べたり、厄介な魔法を解いたりするのが仕事やからな。君がここにおらなあかん理由が本当にあるんやったら、それも確かめる。もし、誰かが君を脅すためにそう言うてるだけなんやったら……そのときは、そのときで考えたらええ」
「……そんなの、できるんですか」
「できるかどうかは、やってみなわからんやろ」
俺は少しだけ笑ってみせた。
「少なくとも、何も知らんまま一生ここにおるよりは、ましやと思わん?」
あっきぃは答えなかった。
それどころか、俺の言葉を信じていいのか判断できずにいるようだった。視線が落ち着かず、俺の表情を確かめるように何度も動く。期待してしまえば、そのぶん裏切られたときに傷つく。そんなことまで、幼い頃から学ばされてきたのかもしれない。
俺はそれ以上、何も言わなかった。
無理に頷かせる必要はない。今この場で俺たちを信じろと言うのも違う気がした。
その間に、まぜ太が魔法陣の解析を終えたらしい。険しい顔でこちらへ戻ってくる。
「ぷり、この拘束具と檻は、ただ閉じ込めるためのものじゃない。あっきぃの魔力を外部へ流す仕組みがある。詳しい用途はまだわからないけど、彼の力を利用してる可能性が高い」
「……つまり、本人の意思とは関係なく使われてるってことか?」
「その可能性がある。少なくとも、普通の保護設備には見えない」
その言葉に、あっきぃが大きく身を縮めた。
俺たちが話している内容を、彼も聞いている。自分の身体について、自分の知らないところで何かが決められていくことに慣れてしまったのか。それとも、今から何をされるのかと怯えているのか。
「待って、ください」
あっきぃの声は、先ほどよりもさらに小さかった。
「俺を……どうするんですか」
誰もすぐには答えられなかった。
俺たちは彼を助けたいと思っている。少なくとも俺は、もうこの青年を見なかったことにして帰るつもりはなかった。
けれど、俺たちがそう決めたからといって、あっきぃがそれを望んでいるとは限らない。
「勝手に連れていったりはせえへんよ」
俺は彼の目を見た。
「まず、この鎖を外したい。けど、触られるのが嫌なら、無理に近づくことはせえへん。どうしたらええか、君にも聞きながら進める」
「……俺に、聞くんですか?」
あっきぃは、まるで意味のわからない言葉を聞いたような顔をした。
「そらそうやろ。君のことなんやから」
自分のことなのだから、自分に聞く。
そんな当たり前のことが、彼にとっては簡単に理解できないものらしかった。
しばらくして、あっきぃは拘束具の嵌められた手首や足首を見下ろした。金属の表面には細かな文字が刻まれており、彼が少し動くたび、鎖が乾いた音を立てる。
「……痛くは、ないです」
ようやく出てきた返事は、俺の質問への答えとは少しずれていた。
「でも、外したら……怒られるかもしれません」
「誰に?」
「……わかりません」
あっきぃは困ったように眉を寄せた。
「でも、決まりだから。俺が勝手なことをしたら、きっと……」
最後まで言い切ることはできなかった。
俺はそれ以上、追及しなかった。
ここで「そんな決まりは間違ってる」と言い切るのは簡単だ。だけど、彼がその言葉を信じられるようになるまでには、きっと時間がかかる。長い間当たり前だと教えられてきたものを、初めて会った人間が否定したところで、すぐに手放せるわけがない。
「わかった。ほな、いきなり外すんじゃなくて、まずは仕組みを調べる。痛みが出たり、変な感じがしたりしたら、すぐに教えてな」
あっきぃは小さく頷いた。
それは信頼の証というより、俺たちの話に従うしかないと思っているようにも見えた。それでも、さっきまでのように「来ないで」と繰り返すことはなかった。
まぜ太が拘束具の魔力を慎重に遮断し、あっとが檻の留め具を確認する。ちぐさは周囲の罠を調べ、けちゃは治癒魔法をすぐに使えるよう準備していた。
俺はあっきぃから目を離さず、彼が少しでも嫌がる素振りを見せたら、すぐに作業を止められるようにしていた。
やがて、拘束具を固定していた術式がひとつずつ消えていく。
最後の鎖が外れた瞬間、金属が床へ落ちる音が、広い部屋に鋭く響いた。
あっきぃは、動かなかった。
自由になった手首と足首を見つめたまま、ただじっと座っている。すぐに立ち上がることも、檻から飛び出すこともなかった。
「……あっきぃ?」
声をかけると、彼はようやく顔を上げた。
「鎖は外れたで。ゆっくりでいいから、立てそうなら立ってみ」
あっきぃは檻の外を見た。
俺たちを見た。
そして、もう一度、自分の手首と足首を見下ろした。
その指先が、わずかに震えていた。
「……本当に、外れてる」
「ああ」
「もう、戻さなくていいんですか」
その言葉に、胸の奥が重くなった。
鎖が外れたことよりも、もう一度つけられる可能性を先に考えている。自由になったことを喜ぶより、許されているのかを確認しなければ動けない。
俺は、できるだけ穏やかな声で答えた。
「戻さなくていいよ。少なくとも、俺らは君をまた檻に入れるつもりはない」
あっきぃは何かを言いかけて、結局、唇を閉じた。
それから、ひどく慎重な動作で立ち上がった。
長い間同じ姿勢でいたせいか、膝がうまく動かないらしい。身体が傾いた瞬間、反射的に手を伸ばした。
けれど、あっきぃはその手を見た途端、びくりと肩を跳ねさせた。
すぐに手を止めた。
「ごめん。支えようとしただけや。触らんほうがええなら、そうする」
あっきぃは困惑したように俺を見つめた。
拒絶したら怒られると思っているのかもしれない。俺の手と顔を交互に見て、何かを決めようとするように眉を寄せる。
やがて、彼はほんの少しだけ、こちらへ手を伸ばした。
俺の手を握ったわけやない。
倒れないように、俺の腕を軽く置くだけだった。
それでも、彼が自分で選んだ動きだった。
「……すみません」
「謝らんでええって。転んだら危ないからな」
腕に軽く置かれたまま、彼の身体が安定するまで動かずにいた。あっきぃは俺の腕を頼りに、どうにか両足で立つことができたけど、すぐに手を離し、また一歩ぶんの距離を取った。
その動きに、俺は何も言わなかった。
今は、それでいい。
ここから先、彼がどこへ行くのか。何を知り、何を選ぶのか。俺たちにどこまで心を開いてくれるのか。
それは、これから決まっていくことだ。
「外へ出る前に、ひとつだけ聞いてもええ?」
俺が尋ねると、あっきぃは身構えながらも頷いた。
「外の空、見たことある?」
その質問に、彼は不思議そうに目を瞬かせた。
「……空?」
「そう。遺跡の外にある空。今は夕方やから、たぶん綺麗だと思う」
あっきぃは、何かを思い出そうとするように視線を上へ向けた。
けれど、しばらくして、ゆっくりと首を横に振った。
「……ちゃんとは、見たことがありません」
その返事を聞いて、俺は一瞬、言葉を失った。
外の空を知らない。
それがどれほどのことなのか、俺には想像することしかできへない。冒険者として旅をしてきた俺にとって、空はいつだってそこにあるもんだった。雨の日には鬱陶しく思うし、晴れの日には気持ちいいと思う。それだけの、当たり前の景色だった。
でも、この青年にとっては、そうじゃないらしい。
「……そっか」
俺は扉のほうへ視線を向けた。
「ほな、見に行こか。外へ出るだけ。嫌になったら、すぐに戻ってもええから」
あっきぃは返事をしなかった。
けれど、今度は「行きたくない」とも言わなかった。
俺たちが先に歩き出すと、彼は少し遅れて、その後ろをついてきた。距離はまだ遠い。俺たちの背中を見ながら、いつでも引き返せるようにしているのかもしれない。
それでも、自分の足で歩いていた。
長い通路を抜け、遺跡の入口へ戻る。
外から差し込む夕陽が、石の床を橙色に染めていた。森の木々の隙間から、赤と金色が混ざり合った空が見える。風が吹くたびに葉が揺れ、鳥の声が遠くから聞こえてきた。
入口の脇へ寄ると、あっきぃは立ち止まった。
その視線が、空へ向かう。
夕焼けの色を映した琥珀色の瞳が、少しずつ大きくなっていった。
けれど、彼は声を上げなかった。
ただ、何かを確かめるように、じっと空を見つめている。風が黄色い髪を揺らし、頬にかかった細い毛束がふわりと動いた。あっきぃはそれにも気づかないほど、目の前の景色に意識を奪われているようだった。
「……これが、空」
やがて、そんな声が聞こえた。
「うん。これが空」
俺が答えると、あっきぃは少しだけこちらを振り返った。
その表情には、まだ怯えが残っていた。俺たちを信用したわけでも、ここから先の人生に希望を持てたわけでもないのだろう。
それでも、彼の瞳には、ほんのわずかな好奇心が浮かんでいた。
「……毎日、色が変わるんですか?」
思いがけない質問だった。
俺は、ほんの少しだけ目を丸くしてから笑った。
「変わるで。朝は朝で綺麗だし、昼は昼で違う。夜になったら星も見える」
「星……」
あっきぃは、その言葉を小さく繰り返した。
「……見てみたいです」
声はまだ頼りなく、俺たちへの警戒も消えていない。それでも、その言葉は誰かに命じられたからではなく、彼自身が初めて口にした望みのように聞こえた。
その願いを大げさに喜ぶことはしなかった。
「ほな、夜になったら見よか。天気がよかったら、いっぱい見えるはずやで」
あっきぃは、すぐには頷かなかった。
本当に見せてもらえるのか、あとになって約束を取り消されるのではないか。そんな不安が、まだ彼の中にあるのだろう。
それでも、彼は夕焼けから目を逸らさなかった。
俺はその横顔を見ながら、ひとつだけ決めていた。
この青年を、ここへ置いて帰ることはできない。
理由はまだ、はっきりとはわからない。世界を救う鍵だからでも、古代魔術の秘密を知っているからでもない。ましてや、今この瞬間に恋愛感情を抱いたわけでもなかった。
ただ、目の前にいる青年が、自分の望みを口にすることさえ怖がっている。そのことを知ってしまった以上、せめて自分が関わっている間くらいは、彼の言葉を勝手に奪いたくなかった。
「……あっきぃ」
名前を呼ぶと、彼は少しだけ肩を揺らし、こちらを向いた。
「これから、俺らと一緒にギルドまで来てもらうことになると思う。知らん場所やし、知らん人間ばっかりやから、不安だろうけど……嫌なことがあったら、ちゃんと言うてな。すぐに全部信じろとは言わんから」
あっきぃは、俺を見つめたまま黙っていた。
やがて、迷いながらも、小さく頷く。
「……はい。わかりました、ぷりっつさん」
初めて名前を呼ばれた。
ただそれだけのことなのに、妙に印象に残った。
彼の声はまだ硬く、俺たちとの間には、簡単には埋まらない距離がある。それでも、これから少しずつ知っていけばいい。焦らず、無理をさせず、彼自身が選べるようになるまで。
夕陽はゆっくりと森の向こうへ沈み始めていた。
あっきぃは、その最後の光を見つめながら、俺たちから少し離れた場所に立っていた。誰かのそばにいることに慣れていないのか、仲間たちが話し始めると、その輪に入ることなく、静かに様子を窺っている。
彼を無理に輪の中へ招き入れなかった。
いつか自分から近づいてきてくれたら、そのときはちゃんと迎えよう。
そう思いながら、仲間たちへ帰路の準備を促した。
このときの俺は、まだ知らなかった。
夕焼けに目を奪われていたあの少年が、やがて見たことのない世界に目を輝かせ、誰よりも無邪気に笑い、傷ついた仲間の心に手を伸ばすようになることを。
そして、そんな彼の笑顔を知るたびに、俺たち5人がそれぞれ違う形で、少しずつ彼を特別に思うようになることを。
この出会いは、まだ始まりにすぎなかった。
とら
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ぷりっつさんの視点で綴られた今回のエピソード、とても丁寧な心理描写が印象的でした。檻の中のあっきぃが「来ないで」「ちゃんとしますから」と怯えながらも従順に振る舞う姿に、胸が締め付けられる思いでした。ぷりっつさんが無理に触れず、彼のペースを尊重しながら「君のことなんやから」と選択を委ねる姿勢が優しくて…。最後に「星、見てみたいです」と小さな望みを口にしたあっきぃの未来が、これからどう変わっていくのか、とても気になります。