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都内の片隅、静かな路地を少し入ったところに佇む居酒屋――。
「呑み処・月見坂」は、一見するとどこにでもあるような、
古びたのれんのかかった昭和の香りを残す小さな店だ。
が、そこにある奥の個室だけは少し様相が違っていた。
壁には外部の音を通さないような厚い断熱材。
照明は落ち着いた間接光。
机の上には、吸音効果のある敷布と、古びた灰皿。
それらが、不自然なまでの「秘密を守るための空間」を演出していた。
梓は佐伯と向かい合って座っていた。
グラスに注がれた焼酎が氷の音とともに揺れる。
「で、本題だ。黒い手帳の件、最近おかしな動きが出始めてる」
焼酎をひとくち含んだ佐伯は、声のトーンを落とし、目を細めた。
「夢でマヨイガに入ったって話……その中で“黒いワンピースの女”に出会った
とか、“顔を削がれた女の子”がいたって言ってたな。あれ、全部一致してる」
”マヨイガ“以外の事はまだ話していないのに、何故か見透かされている感覚に陥る。
「一致……?」
「俺のところに先週持ち込まれたネタにな。映像付きだった」
佐伯はカバンから一枚の古びたUSBメモリを取り出した。
手帳の革に似た黒い皮のカバーがついているのが妙に印象的だった。
「これは?」
「見てもらうのが早い。だが、今は再生しない。……内容が、強すぎる」
そう言って、佐伯は煙草に火をつけた。
「なあ、梓。お前は“黒の手帳”ってものが、本当に“書いたら死ぬ”って
思ってるか?」
「……都市伝説でしょ? それを信じるなら
オカルト雑誌なんてやってられないですよ」
「だが、その“死ぬ”ってのが、ただの比喩じゃない可能性がある」
「……どういうことですか」
佐伯は灰を落としながら言った。
「問題はそこじゃない。最近“黒の手帳”についての動画を投稿しようとした
アカウントが、立て続けに――アカウントごと、まるごと消えてる。
な? 意味がわからんだろ?」
梓は眉をひそめる。聞いたことのない話だった。
「しかも削除スピードが異常だ。最速で投稿から数十秒でアカウントが
消去されたケースもある。AIの監視でも、通報でもない。
……もっと“意図的な手”を感じる」
「意図的な?」
「“見せてはいけないもの”が映っていた。あるいは、
“映したことで呪いが伝播する”ような――
そういう危険性を、何者かが理解していて、“削除している”。
物理的じゃない。システム的でもない。……**何か別の理(ことわり)**でだ」
梓は、喉が渇くのを感じて水を飲んだ。
「編集長は……それを見たんですね」
「一度だけな。見るもんじゃない。映像の途中で、
**“画面の中からこっちを見返してくる”**瞬間がある。
それも、ただの視線じゃない……名前を呼ばれたような感覚がした。
俺の“過去”に関わる記憶をまさぐられたような、嫌な感触だった」
梓は、思わず自分の胸を押さえる。
夢の中で、少女に「アズサ」と呼ばれた記憶が蘇る。
「まさか、手帳の中には……本当に人の記憶や
“過去”が封じられてるんじゃないですか?」
佐伯は目を細め、少しうなずいた。
「伝承だと“黒の手帳”は、未練や呪詛、怨念、そして
死者の記憶を記すための“器”だったと言われてる。
“書いたことが現実になる”んじゃなくて、
“書いたことが現実と接触してしまう”って話だ」
「接触……」
「つまり、“書かれたことが向こうの世界に届く”。
そして“向こうの世界の誰か”がそれに応じて“何かを起こす”。
それが“顔を削ぐ女”であり、“黒いワンピース”であり、“マヨイガ”なんだよ」
梓の背筋に冷たいものが走った。
彼女の夢は、もはや夢ではないのかもしれない。
「忠告しとくぞ、梓。……これ以上深入りするな。
黒い手帳の実物には絶対に触れるな。映像にも近づくな。
お前が見た夢は、ただの警告だった可能性がある」
「でも、それじゃ私が……」
「もう“選ばれて”いる可能性がある。あの夢を見た時点でな。
今後何か変化があったら、絶対に一人では動くな」
言い終えた佐伯の表情は、初めて見る“本物の恐怖”を浮かべていた。
しばらくの沈黙。
焼酎の氷が、コトンと音を立てた。
やがて梓は、絞り出すように言葉をこぼした。
「じゃあ……私が見る不可解な夢、一体……何なんでしょう」
佐伯は返さなかった。
目を閉じ、ただ煙草の煙をゆっくり吐き出すだけだった。
その夜、梓は編集部に戻ると、机の引き出しから
自分の取材ノートを取り出した。
中には、かつてどこかで見たような黒い封筒がひとつ、紛れ込んでいた。
差出人の名前はない。
だが、封を開けると、そこにはこう記されていた。
「ようこそ、“記録者(スクライブ)”へ。貴女の役目は、まだ終わっていません」
背後で、何かが小さく揺れた音がした。
気のせいではなかった。空気が変わる。
静かな日常の皮を剥がすように、“あちら側”の気配が、
じわじわと梓の背中に滲みはじめていた。
(→ 次話に続く)