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Side康二
海の底には、音のない静寂が広がっている。
けれど俺の心は、いつもざわめいていた。
高い天井のように覆いかぶさる海面の、そのもっとずっと上──
光が差し込む、空と陸の世界を思うたびに。
俺は、この海の王国に生まれた末の王子。
けど、兄たちのように泳ぎや武術が得意なわけやない。
歌はちょっとだけ、うまいって言われる。
でもそれ以上に、俺は──夢を見てばっかりいた。
泡のようにふわふわと浮かぶ夢。
夜になると、岩の陰から海上の灯りを眺めて、
誰かが奏でる音や、聞こえるはずのない笑い声を、想像だけで補った。
「人間の世界は危ない」
そう教えられて育った。
俺たち人魚にとって、陸は禁忌。
行けば帰れなくなることもあるし、何より、人間に見つかったら終わり。
──でも、やっぱり見たくなる。
風を感じるって、どんな気持ちなんやろ。
歩くって、どういうことなんやろ。
言葉を交わすのに、歌じゃない手段もあるって、ほんまなんやろか。
兄たちが立派な後継ぎとして王宮で役目を果たしていく中、
俺だけが、何も持たずに時間だけを溶かしていった。
心はずっと、波のように揺れていた。
きっとこれは、知ってしもたからや。
世界は、自分の住んでる場所だけやないってことを。
そして──
その先には、誰かが“生きている”ということを。
誰かって誰?って?
そんなもん、自分でもわかってへん。
でも、胸の奥で──波が呼んでる。まだ知らん誰かの存在を。
「……康二」
柔らかな潮の流れに髪が揺れる。
低く響く声に振り返ると、そこには長兄の照兄がいた。
鍛え上げられた肩、尾ひれにかかる黄金の鱗。
陽の光を浴びたように輝くその姿は、まるで神話の像みたいやった。
「また浮上したろ。海面近くは危ないって、何度言えば分かるんだ」
睨むでもなく、怒鳴るでもなく、けれど言葉の芯には冷たい深海の圧のような静かな圧力がある。
それでも、兄のまなざしの奥には、いつも心配が滲んでいた。
「……ごめん。でも、何か見えそうな気がしてん」
俺のその呟きに、隣からふっと笑い声がした。
「また“見えそう”って。康二のその妄想癖、誰に似たんだか…」
そう言って尾びれでくすぐるように水を揺らしたのは、次兄のふっかさん。
薄紫の髪が、水中の光をまとってゆらゆらと踊る。
冗談めかした声の裏に、あたたかさがあった。
ふっかさんは、口ではそう言いながらも──俺が一人で泡に紛れてる時には、そっと傍に寄ってきてくれる。
目で、心で、問いかけてくれる。
「大丈夫、か?」
そのひとことだけで、少し胸が楽になるから、不思議やった。
「なあ康二」
再び、照兄が俺の肩に手を置いた。指先はしっかりしていて、だけど、海藻みたいに優しかった。
「地上には──絶対に行ってはいけない」
「……うん。わかってる」
わかってる、はずやのに。
その瞬間だけ、俺の胸の中でなにかが沈んだ。
重たく、深く、底知れぬ場所へ。
それでも口元は笑って、何も知らんふりをする。
いつものことや。
王族として育てられた人魚たちは、誰もが美しい。
月光をまとったように透きとおる肌。
絹よりも細く柔らかい髪。
しなやかに、舞うように泳ぐ姿は、まるで音楽みたいやった。
でも、その美しさは檻やった。
誰かが決めた枠の中で、俺たちは“正しく”生きることを求められる。
笑って、泳いで、誰にも心を波立たせず──
ただ、美しいだけの存在として、静かに流されていく。
「なあ、照兄。ふっかさん」
俺はふたりの姿を見ながら、問いかけた。
「……地上に行ったら、あかん理由って……ほんまに、怖いからなん?」
答えは、返ってこなかった。
ふたりとも、目を伏せて、ただ海の底に咲いた光を眺めていた。
静寂は、何よりも雄弁や。
俺はそれを、ちゃんと聞いてしまった気がした。
泡のように──俺の中の「ルール」が、ゆっくりと、音もなく崩れていった。
―――――――――――
ある日──
海がやけに穏やかで、空の色が透けて見えるような、そんな朝やった。
「ちょっとだけ、ちょっとだけ……」
俺は誰にも見つからんように、ひとりでそっと岩場の影から浮上した。
まだ陽の光が強くなる前の、薄い水色の世界。
海と空の境目が溶けて、どっちがどっちかわからんくなる。
そんな場所に身体を預けるのが、たまらん好きやった。
水面に顔を出せば、空気の匂いがした。
塩と太陽と、どこか焦げたような──でも、生命のにおい。
胸いっぱい吸い込んで、ふうっと吐く。
「ここやったら……地上ちゃうし、ええやんな?」
誰にともなく言い訳しながら、俺は尾ひれをゆらして、低く歌い始めた。
それは言葉じゃない。
けど、心そのものやった。
嬉しかったこと、悲しかったこと。
どうしようもなくこぼれた想いを、水に溶かすように、俺は歌にのせた。
──海が揺れる。
──空が寄り添う。
俺の声が、波になって跳ね返ってくるたび、気分がどんどん晴れていく。
まるで空に近づいたような錯覚さえした。
胸の奥で泡だった何かが、少しずつ軽くなる。
「うわーっ、気持ちええ!」
水面をばしゃばしゃと叩きながら、思わず笑ってしもた。
深海の底では絶対に味わえん、光のぬくもり。
ただ風に撫でられるだけで、心がほどけていく。
──ほんまは、これだけでよかったんや。
誰かに会いたいとか、特別になりたいとか、そんなんやのうて。
ただ、ここにおれることが嬉しかった。
この場所に、俺の歌を残せることが。
……せやけど、その声を──
誰かが、ちゃんと聴いてくれてたとしたら。
そのときは、もう少しだけ。
夢を見てもええ気がしたんや。
――――――――――
Side目黒
潮風が、髪を撫でて通り過ぎていく。
昼と夜の境目がぼやけはじめた頃、世界が一度、静かに呼吸を止めたような感覚があった。
船の甲板で、俺はただ海を眺めていた。
任務を終えた帰り道。
やっと地上へ戻れるというのに、胸の奥にはどこか澱のようなものが残っていて、心が落ち着かなかった。
そんなときだった。
風向きが、ふと変わった。
その瞬間、どこからともなく歌声が聴こえた。
……いや、正確には“声”というよりも、“祈り”に近かった。
言葉ではない旋律。
でも、そのひとつひとつが、感情となってまっすぐに胸へ届いてきた。
遠く、波の向こう。
誰かが確かにそこにいて、何かを伝えようとしているような。
切なくて、あたたかくて、どこか懐かしい響きだった。
思わず、甲板の縁まで歩み寄る。
海の上には何も見えない。
ただ、夕日に染まる水面が静かに揺れているだけだった。
「……誰の、声なんだろう」
自分の口から出た言葉に驚いた。
それでも目を離せなかった。耳を澄ませてしまった。
きっとそれほどまでに、その声が、心に触れたのだと思う。
誰にも届かない場所で、誰かが歌っている。
そして、俺にだけ、その声が届いたような気がした。
歌が止んだあと、海は再び静けさを取り戻した。
けれど、俺の胸の奥では、その余韻がしばらく消えなかった。
潮風が吹く。
まるで、今の出来事は夢だったと告げるかのように、静かに。
それでも俺は──確かに聴いた。。
胸に残るその余韻を消しきれず、俺は振り返り、控えていた付き人に声をかけた。
「今……誰かの歌声が、聞こえなかったか?」
問いかける俺の声は、無意識のうちに強くなっていた。
付き人はわずかに驚いた表情を浮かべてから、首を横に振る。
「……いえ、何も。風の音では?」
「いや、違う。確かに……歌だったんだ」
自分でも、その確信がどこから来ているのか分からなかった。
ただ胸の奥が、誰かに触れられたように温かくて、痛くて、震えていた。
そのときだった。
「……っ!」
鋭く甲板に鳴り響く警告音。
同時に、船体が不自然なほど大きく揺れた。
海が突然、猛るように唸り声をあげ、鋭い風が甲板を吹き抜けていく。
「皇子、危険です!中へ──!」
叫ぶ声がした直後、再び船が大きく傾いだ。
重力が斜めに働く。掴むものを探す間もなく、足元が浮いた。
次の瞬間、視界がひっくり返る。
「──皇子!!」
「皇子ーっ!!!!!」
甲板の端から、体ごと宙に放られる。
風の音が、耳を裂いた。
手を伸ばす声が、どこまでも遠くなる。
視界が、音が、世界が──水の中へ沈んでいく。
重たい静寂に引き込まれながら、俺は最後にもう一度、あの声を思い出していた。
あたたかくて、悲しくて、誰よりも優しかった、あの──
「……歌……」
目を閉じた。
深く、深く、暗く、静かな海の底へと、俺は落ちていった。
――――――――――
Side康二
どこか遠くで、甲高い音が鳴った。
それは、風や波とは違う、人工的な――警告の音だった。
「……え?」
浮かんでいた水面の向こう、海の端を見やると、大きな船が不自然に揺れていた。
帆が風をはらみ、甲板を走る人影。
次の瞬間、俺の目は確かにそれを捉えた。
誰かが、海へ落ちた。
ばしゃん――という音は聞こえなかった。
でも、あの落ち方は尋常じゃなかった。自ら飛び込んだんやない。
足元をさらわれるように、無防備に、抗う間もなく、空から落ちた。
心が一気に跳ね上がる。
考えるよりも先に、俺の身体は動いていた。
「……!」
尾ひれをしならせ、水を蹴る。
強く、速く、まっすぐに、あの人影が落ちた場所へ。
泡を巻き上げながら、音もなく深く潜る。
海の中は、静かだった。
たった今、人が落ちたとは思えんほど、どこまでも澄んでいて冷たかった。
……でも、いた。
水の中で、ふわりと浮かんでいた。
ゆっくりと沈んでいくその人影に、俺は手を伸ばした。
「……!」
触れた瞬間、体温が伝わってきた。
冷たいのに、確かに“生きている”温度だった。
腕をまわす。
胸に抱くようにして、その身体を引き寄せる。
細い息の音。
閉じられた瞼。
濡れた黒髪が、水の中で花のように揺れていた。
(大丈夫や……もう、怖ない)
自分に言い聞かせるように、俺はその人を強く抱えたまま、沖へ向かって泳ぎ出した。
船から離れ、人間たちの視界からも外れる場所へ。
静かで、誰にも邪魔されない場所へ。
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
理由はわからない。
ただ、助けたいと思った。
この人を、守りたかった。
──それだけだった。
―――――波打ち際は、優しく光っていた。
夜明け前の淡い空が、海と空の境界をぼかしている。
その薄明の中、俺は彼をそっと砂の上に横たえた。
さっきまで腕の中にいた体温が、急に遠くなる気がして――指先に力が入る。
けれど、もうここから先は、俺が踏み込んではあかん場所や。
この場所は“地上”。
俺の居場所とは違う世界。
でも。
「……」
彼は、眠るように静かに目を閉じていた。
濡れた黒髪が頬に張りつき、長い睫毛が影を落とす。
凛とした鼻筋に、薄く開いた唇。
呼吸は浅く、それでも確かに“生きている”と告げていた。
俺は、思わずその顔に見とれた。
「……なんて、美しい人……」
海の底では見たことのない輪郭。
触れたら壊れてしまいそうな繊細さと、どこか揺るがぬ強さ。
水の中ではわからなかった、その肌の色と、まばゆいほどの存在感。
こんな人が、ほんまに生きてるんやって。
こんな人に……俺の歌が、届いたんやって。
信じられへんようで、でも、嬉しかった。
唇が、何かを言いたそうに動く。でもだめ。
伝えたい想いが胸に溢れた。
届かなくてもいい。
この瞬間だけ、君の隣にいられたことが、なによりの奇跡だったから。
波がひとつ、足元を洗う。
潮が引き、俺を海へと呼び戻していた。
あと少しだけ――もう少しだけ、この奇跡に浸らせて。
願うように、彼の隣にひざをついた。
その頬に触れそうになって、でもやっぱり触れられなかった。
海の者と、人の者。
交わってはいけない境界線が、そこにはあった。
―――――――――
Side目黒
──波の音が、遠くで鳴っている。
けれど、それは耳ではなく、頭の奥で反響していた。
身体が重い。呼吸が浅い。目も思うように開かない。
……それでも、確かに感じていた。
すぐ近くに、誰かがいる。
ぬるい潮の香りとは違う、淡い温度。
指先にふれてきた、やさしい気配。
誰かが、俺をここまで運んできてくれた。
まぶたの隙間から、ぼんやりとした光が射し込んでいた。
その輪郭の先に、誰かが立っていた。
風の中に溶けそうなほど、儚くて、柔らかい影。
「……だれ……」
声に出したつもりだった。
けれど喉が焼けるように痛くて、空気がうまく通らない。
息だけが空しく震え、声にならなかった。
(行かないで……)
どれだけ叫んでも、届かない。
喉の奥に何かがつかえていて、言葉が流れてくれない。
指先ひとつ、伸ばすこともできなかった。
──けれど、確かに思った。
(どうか……行かないで)
ほんの少しでいい。
その人の顔が見たい。
この胸の奥をあたためたのが、誰なのかを知りたい。
この、名前も知らない気配に、触れたい。
……けれど。
影は、ふっと立ち上がる。
光の中に紛れ、音もなく離れていく。
(いやだ……)
(行かないで……)
喉の奥で言葉が崩れていく。
まぶたの裏に、淡い光が残る。
風が、潮が、静かに、静かにすべてをさらっていった。
──そこで、意識がぷつりと途切れた。
世界は再び、暗闇へと沈んでいった。
―――――――――――
まぶたの奥に、やわらかな光が差し込んできた。
微かに焦点の合わない視界の中、天蓋のゆれるレースが揺れている。
鼻先をくすぐるのは、潮の香りではなく、花の香油の匂い。
(……ここは……)
うっすらと目を開けると、そこは見慣れた天井だった。
宮の自室――皇子のために整えられた部屋。
シーツは乾いていて、着替えも済まされていた。身体も拭かれている。
まるで、最初から何もなかったかのように整っていた。
「目を覚まされましたか、皇子!」
顔をのぞきこんできたのは、いつも仕えてくれている付き人だった。
少しだけ瞳が潤んでいて、その中に心底安堵した色が浮かんでいる。
「……お前が、見つけてくれたのか?」
「はい。岸辺に打ち上げられておられました。倒れておられたのを村人が発見し、すぐこちらへお運びしました。危うく……」
付き人の声が、やけに遠く感じた。
説明の言葉が続いていたが、その内容はあまり耳に入ってこない。
──なぜなら。
頭の奥に、まだあの歌声が響いていたから。
まるで夢みたいだった。
優しく、儚く、どこか切なくて。
耳元にだけ残ったその旋律が、現実なのか幻なのかすらわからなかった。
「……歌声……」
思わず漏れた言葉に、付き人がぴたりと会話を止める。
「ん? どうされましたか、皇子?」
その問いに、目黒は数秒だけ考えて、そして小さくかぶりを振った。
「……いや。何でもない」
何と答えればよかったのか、自分でも分からなかった。
“誰か”が助けてくれた。
“誰か”が、そばにいてくれた。
けれど顔も名前も分からない。ただ、ひとつだけ確かだった。
──歌声。
あの声だけが、胸の奥に焼きついていた。
「君は……一体、誰だったんだろう」
その呟きは、風のように部屋の中へ溶けていった。
けれど、それは確かに。
俺の世界に、最初に“海”が入り込んだ音だった。
――――――――――
Side康二
あの日から、海の色が変わって見えるようになった。
泡のきらめきも、珊瑚の揺らぎも、美しいはずのすべてが、どこかぼんやりと霞んで見える。
胸の奥に空いたぽっかりとした穴。
そこに流れ込む潮の音だけが、やけに鮮明だった。
──あの人を、忘れられへん。
名前も、声も、何一つ知らない。
ただ、あの肌のぬくもりと、眠るように穏やかな顔。
波間に浮かぶその姿を抱き上げた瞬間の、胸を締めつける感覚。
あれから何度も、照兄たちには黙って、こっそり海の境まで泳いで行った。
王族として禁じられている浅瀬へ。
地上がすぐそこに見える、境界線まで。
(この辺りやったよな……)
泡の中をゆっくり進みながら、目を凝らす。
陸の影がゆれる場所。
人の気配が届きそうで、届かない距離。
何度も何度も、そこへ行った。
彼と出会った、あの朝の光の中の場所へ。
だけど──
「……今日も、いない」
静かに吐いた言葉は、泡となって水に溶けた。
誰にも届かない。あの人にも、もちろん。
本当は、一度きりの約束だったはずや。
助けて、届けて、それで終わり。
けれど俺の心は、あのとき海に落ちた彼と一緒に、なにかを失ってしまった気がした。
ぽろりと落とした、何か大事なものを探すみたいに、俺は海の中をさまよい続けていた。
(もう一度……会いたい)
それだけを願いながら、誰にも気づかれないように、静かに水を蹴る。
今日も、空は遠い。
名前を、聞けたら。
そんな小さな願いだけを胸に、俺は波間を漂い続けていた。
それは、ほんの偶然だった。
その日もまた、何度目かの“探しに行く日”だった。
浅瀬の岩陰に身を隠しながら、水面の向こうをぼんやりと見つめていた。
もう会えないかもしれない。そう思いながらも、何度も来てしまう自分を止められずにいた。
ふと、波が引いたその向こうに――人影が見えた。
(……)
息が、止まった。
それは、夢に何度も見た姿だった。
波間に浮かんでいたときと同じ、けれど今は自らの足で立ち、歩く姿。
風に髪をなびかせ、時折立ち止まりながら、海を眺めるその人。
(……君や)
確信は、身体の奥から湧き上がっていた。
遠くから見ても、はっきりと分かった。
助けたあの人、美しいままの――生きて、そこにいる彼だった。
胸が、ぎゅうっと音を立てて縮まる。
嬉しいはずなのに、苦しかった。
会えたはずなのに、言葉が出せない。
名前も、何も、伝えられない。
だから、俺はそっと岩陰に身を潜めた。
水面のゆらぎの中から、ただ黙って彼を見守った。
彼は海辺に立ち、時折、波に手を伸ばしていた。
何かを探しているようにも、思い出しているようにも見えた。
(……俺のこと、覚えてるんかな)
問いかけたところで、答えはない。
けれど、どうしてもここを離れたくなかった。
それから、俺は何度も彼の姿を目で追うようになった。
潮の満ち引きを覚え、彼が現れる時間帯をそっと見計らう。
近くに行きたい。でも行けない。
だからせめて、水の中から――名前のないまま、君を見つめさせて。
そうして俺は、岩陰の小さな影となって、
陸の世界にいる“君”を、静かに追い続けるようになった。
――――――――――
その日も、俺はいつものように、浅瀬の岩陰に身を潜めていた。
彼は今日も現れるだろうか。そう思って、胸の奥にほんの少しの期待を抱えていた。
波のリズムに身をまかせながら、水面の向こうを見上げた――その瞬間だった。
視界の先に現れた彼の姿。
間違いない、君だ。
けれど、その隣には見知らぬ人影があった。
風になびく淡い髪。
柔らかな笑みを浮かべて、彼に微笑みかける女の人。
彼もまた、穏やかな表情で隣を歩いていた。
──笑っていた。
同じように、海を眺めていた。
けれどそこに、俺の居場所はなかった。
「……あっ……」
声にならない声が、喉の奥で凍りついた。
胸の奥が、締めつけられる。
それは、悲しみなんて生易しいものじゃなかった。
冷たいものが、心臓に流れ込んでくる。
気づかないふりをしようとした。でも、無理だった。
彼の横にいるのは、俺じゃない。
彼が笑いかけるのは、あの人。
たったそれだけの事実が、こんなにも、こんなにも苦しいなんて。
視界がにじむ。
水のせいじゃない。
それは、初めて知った痛みだった。
尾ひれをひと蹴り。
感情の波を振り払うように、俺は海へと潜った。
深く、もっと深く。
どこまでも冷たい静寂の底へと、自分を沈めていく。
水圧が身体を押しつぶす。
でも、それ以上に苦しかったのは――この気持ちだった。
「辛い……」
ぽろりと漏れた言葉が、泡になって消えていく。
「……辛い……っ」
止まらない。涙の代わりに、身体が震えていた。
「この気持ちは……何なん……?」
胸に絡みついて離れない痛み。
どうしてこんなに、彼の隣に“自分じゃない誰か”がいるだけで、心が裂けそうになるんやろう。
名前も知らない君に、俺は――
それでも、知ってしまった。
この気持ちが何なのか。
苦しくて、重くて、痛くて。
それでも、逃げられへん。
──これが“恋”なんやと、ようやく気づいた。
でも、気づくのが遅すぎたのかもしれへん。
―――――――――
Side目黒
波の音が、今日も同じように響いていた。
あの日――
自分が海に落ち、意識を手放したあの瞬間のことを、俺は未だに思い出すことができずにいる。
気づけば岸に打ち上げられていた身体。
誰に助けられたのか、どうやって生き延びたのか。
誰も知らず、誰も見ていなかった。
けれど俺の中には、確かに“何か”が残っていた。
歌声。
言葉では言い表せない、美しくて、切ない旋律。
夢の中で何度も聴いた。
そして、目が覚めても、胸の奥でずっと響いている。
誰かが、そこにいた。
自分を抱き上げて、温もりを与えてくれた。
風のように優しく、けれどどこまでも遠い、誰かの存在。
──あれは幻だったのか?
そう思おうとした日もある。
けれど諦めきれなくて、気づけば俺は毎日のように、あの浜辺へ足を運ぶようになっていた。
何も起こらないとわかっていても、
何も見つからないと知っていても。
それでも、ただ、
あの歌がもう一度聴ける気がして、
あの“誰か”に会える気がして、
海を眺め続けていた。
そんなある日――
俺の静かな日々を打ち壊すように、付き人が控えめな声で口を開いた。
「……陛下より、正式なご命令がございます」
「……命令?」
「はい。外交の一環として、隣国の王女との縁談をご検討いただきたいとのことです。
先方も、貴国との友好関係を強く望んでおられます。もし皇子が政略結婚を受け入れれば、長年の緊張状態も大きく緩和される可能性が高いかと……」
乾いた潮風が頬をかすめる。
心が少しずつ冷えていくのを感じた。
現実が、容赦なく目の前に差し出された。
「……政略結婚、か」
「皇子、これは決して強制では――」
「いや、分かってる。……分かってるけど……」
うなずくふりをして、言葉の続きを飲み込んだ。
遠くで波が崩れる音がした。
その音に、あの歌声がかき消されていくような気がした。
どうしてだろう。
胸の奥が、言葉にならないほど痛んだ。
名前も顔も分からない“誰か”に、
なぜこんなにも囚われているのか。
──でも、どうしても、忘れられなかった。
それだけは、確かだった。
――――――午後の日差しが和らぐ頃、顔合わせの儀は静かに幕を下ろした。
彼女は隣国の王女──
気品に満ちたその姿は、立ち振る舞いのひとつひとつが完璧で、
まるで宮廷の舞のように美しかった。
俺は、儀礼に従い丁寧に応対し、必要な言葉を重ねた。
国の未来が懸かっていることも分かっていた。
感情を交えず、役目を全うする。それが正しい在り方だと、頭では理解していた。
けれど、儀が終わったあと、彼女がふいに言った。
「皇子さま。もしお時間が許すなら……少しだけ、お話しませんか?」
その声に、頷くしかなかった。
そして、俺たちは宮を抜けて、海岸へと向かった。
風がやや強くなっていた。
空は高く、遠く、静かだった。
彼女は白い裾を手で押さえながら、砂浜を歩いていた。
俺もその隣を歩く。少しだけ距離を空けて。
しばらく沈黙が続いたあと、王女が言った。
「皇子さまは……この海をよくご覧になるのですね?」
「……ええ。よく来ています。特に、最近は……」
自然と足が止まる。
寄せては返す波の音に、あの日の記憶がよみがえった。
王女は立ち止まった俺をそっと見つめていた。
拒まれるのを恐れているようにも見えたその瞳に、俺はなぜか心を開いてしまった。
「……少し、奇妙な話かもしれませんが」
彼女は静かに頷いた。
その仕草に勇気をもらうように、俺は口を開いた。
「数ヶ月前、この海で……船から落ちたことがあるんです。突然船が大きく揺れて。死んだと思った。気を失って、何もわからなくて。でも目が覚めたら、岸に横たわっていた。……助けられていたんです」
「……どなたかが?」
「ええ。でも……その人が誰だったのか、まったく分からない。声も、顔も、なにも思い出せない。ただ――」
言葉を区切った。
耳の奥に、あの旋律がふっと甦る。
「ただ……あのとき、歌が聴こえたんです。とても美しい、悲しくて、あたたかい歌。
それだけが、はっきり残ってる」
王女は驚いたように目を見開いたあと、そっと微笑んだ。
その微笑みは、同情でも好奇心でもなく、ただ「聴いています」という意思だった。
「……それ以来、ずっとこの場所に通ってるんです。また、あの声が聴こえる気がして。
……あの人に、もう一度会える気がして」
言い終えたあと、心の中が少しだけ軽くなっているのを感じた。
王女は小さく頷いた。
その瞳に、どこか決意のような光が宿っているのを、俺は見逃さなかった。
次の瞬間、彼女はほんの少しだけ口元を引き結び、静かにこう言った。
「……実は、あの日。私が、皇子さまをお助けしたのです」
風の音が止んだ気がした。
時間が、一瞬だけ凍ったように感じた。
「……あなたが?」
「はい。偶然、使節団の船で近海を通っていたのです。お見合いの話が進み始めていた時期で、非公式ながら海沿いの巡察を命じられていて。そのとき、海に人影が落ちるのを見ました。……それが、あなたでした」
言葉は整っていた。
語調も落ち着いていた。
嘘をついているようには、思えなかった。
けれど――
なぜか、胸の奥で何かが違和感を訴えていた。
俺が覚えている“あの声”は、女性のものではなかった。
もっと柔らかくて、少し低くて、胸の奥に深く届くような――
あれは確かに、男の声だった。けれど、それも夢の中の話だ。
現実を受け入れるべきなのは、こちらのはずだ。
目の前には王女がいる。
この平和のために、国のために、差し出された縁。
俺は一度だけ、視線を落とした。
そして、再び海へ目を向けた。
「……そうだったんですね。助けていただいたんですね、あのときは」
ゆっくりと、そう言葉を返した。
王女は微笑んだ。
その笑みには、わずかに安堵の色がにじんでいた。
波が打ち寄せ、砂をさらっていく。
その音の中で――ふと、どこか遠くで水が跳ねたような気がした。
ほんの一瞬。
自分でも聞き間違いかと思うほどの、小さな音。
けれどなぜか、胸がきゅうっと締めつけられた。
「……ありがとう」と言いながらも、
俺の心は、まだ“誰か”の声を探していた。
その声は、ここにはなかった気がしていた。
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