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第66話「東京最後の出勤日」
三月最後の金曜日。
午前八時四十分。
営業企画部。
森野はいつもより早く出社した。
まだ誰もいない。
見慣れた机。
椅子。
コピー機。
会議室。
何度も相沢と話した給湯室。
今日で最後だった。
来週から。
大阪支社。
森野は自分の机に座った。
引き出し。
開ける。
ほとんど片付いている。
残っているのは。
ボールペン。
付箋。
小さなクリップ。
そして。
いつ買ったのか分からない飴。
「こんなのあったんですね」
「食べる?」
後ろ。
相沢。
「びっくりした」
「おはよう」
「おはようございます」
相沢も。
今日は早い。
「最後だから?」
「まあね」
二人。
少しだけ。
オフィスを見る。
相沢。
「いろいろあったな」
「ありましたね」
「森野さんと付き合うとは思わなかった」
「私もです」
「即答」
「最初はただの同僚でしたから」
「普通の人?」
森野。
社内報の話を思い出す。
「普通の人です」
「今は?」
森野。
少し考える。
「普通より」
「うん」
「少し大事な人です」
「少し?」
「かなり」
「かなり?」
森野。
「朝から面倒ですね」
午前九時。
田中。
出社。
「おはようございま――」
二人を見る。
「あ」
「何です?」
「もういる」
「最後なので」
田中。
自分の席。
鞄。
置く。
「寂しくなりますね」
森野。
「まだ一日あります」
「でも月曜からいない」
「はい」
田中。
珍しく。
少し。
静か。
森野。
「田中さん」
「はい」
「泣かないでください」
「泣いてません」
「目が」
「花粉です」
相沢。
「三月だからね」
田中。
「そうです」
午前十時。
最後の引き継ぎ。
森野。
藤堂へ。
「この取引先は返事が遅いので、三日前には確認してください」
「分かりました」
「こちらは逆に返事が早いです」
「はい」
「夜にメールしても朝には来ます」
「はい」
「それから」
藤堂。
「森野さん」
「何です?」
「大丈夫です」
「何が?」
「引き継ぎ資料、六十ページあります」
森野。
「足りません?」
「十分です」
相沢。
隣。
「俺の十五ページ」
藤堂。
「相沢さんのほうが助かります」
森野。
「何ですか、その意味」
昼。
社員食堂。
四人。
森野。
相沢。
田中。
藤堂。
いつもの席。
田中。
「最後の昼ですね」
森野。
「だから、いちいち最後って言わないでください」
「最後のカレー」
「私は魚です」
「最後の魚」
「何でも最後にしないでください」
相沢。
「最後の唐揚げ」
森野。
「それ一個ください」
「最後なのに?」
「最後だからください」
相沢。
唐揚げ。
一個。
森野の皿。
置く。
田中。
「最後までそれやるんですね」
森野。
「何が?」
「食べ物交換」
「これは」
森野。
少し考える。
「大阪でもやります」
田中。
笑う。
「そうしてください」
午後三時。
部長。
全員。
集める。
「ちょっといいか」
営業企画部。
静かになる。
「今日で」
森野。
「部長まで最後って言わないでください」
「まだ何も言ってない」
「言おうとしました」
部長。
「じゃあ言わない」
少し。
笑い。
部長。
相沢と森野。
見る。
「二人とも」
「はい」
「大阪でも頑張れ」
「はい」
「ありがとうございます」
「相沢」
「はい」
「森野に頼りすぎるな」
「気をつけます」
「森野」
「はい」
「相沢の面倒見すぎるな」
「見てません」
相沢。
「見てもらってるけど」
森野。
「余計なこと言わないでください」
部長。
笑う。
「まあ」
「お前らなら大丈夫だ」
そして。
小さな紙袋。
二人へ。
「部署から」
森野。
「ありがとうございます」
中。
見る。
二つのマグカップ。
田中。
「大阪支社で使ってください」
森野。
「同じデザイン?」
「色違いです」
相沢。
「ペア?」
田中。
「偶然です」
森野。
「絶対嘘」
午後五時半。
終業。
一人。
また一人。
森野のところへ。
「大阪でも頑張ってください」
「ありがとうございます」
「遊びに行ったら案内してください」
「私もまだ大阪分かりません」
「相沢さんと仲良く」
「仕事の話してください」
名刺。
お菓子。
手紙。
いろいろ。
増える。
午後六時。
送別会。
近くの居酒屋。
営業企画部。
十人。
部長。
乾杯。
「二人の大阪での活躍を祈って」
グラス。
合わせる。
田中。
「大阪でも同じ部署なんですよね?」
森野。
「はい」
「席も隣?」
「知りません」
「家も一緒」
「はい」
「通勤も一緒」
「たぶん」
「昼も一緒」
「それは分かりません」
相沢。
「夜は?」
森野。
「一緒に住んでるんだから一緒でしょう!」
全員。
笑う。
森野。
「あ」
田中。
「自分から言った」
「もういいです」
午後八時半。
送別会。
終了。
駅。
みんな。
別れる。
田中。
森野へ。
「森野さん」
「はい」
「ありがとうございました」
森野。
「こちらこそ」
田中。
「最初」
「はい」
「ちょっと怖かったです」
「そうですか?」
「すごく仕事できるし」
「何考えてるか分からないし」
「褒めてませんね」
「でも」
田中。
笑う。
「今は」
「すごく分かりやすいです」
森野。
「それは嫌です」
「特に相沢さんのことになると」
「最後までそれですか」
田中。
少し。
目。
潤む。
森野。
「花粉?」
「花粉です」
森野。
「そういうことにしておきます」
田中。
「大阪行っても」
「はい」
「連絡してください」
「もちろんです」
二人。
抱き合う。
短く。
森野。
「ありがとうございました」
「はい」
相沢。
少し離れて。
待つ。
田中。
相沢へ。
「相沢さん」
「はい」
「森野さん」
「うん」
「泣かせないでくださいね」
相沢。
「努力します」
森野。
「そこは約束してください」
全員。
笑う。
夜。
十時。
自宅。
段ボール。
山。
東京の家。
明後日。
引っ越し。
相沢。
床。
座る。
「疲れた」
森野。
隣。
座る。
「私もです」
部屋。
ほとんど。
空。
最初。
相沢が。
ここへ来たころ。
もっと。
物があった。
二人で。
生活して。
少しずつ。
二人の物が増えた。
そして今。
全部。
箱。
森野。
「この部屋」
「うん」
「好きでした」
「俺も」
「最初は」
森野。
「相沢さんが毎日いるの」
「変な感じでした」
「俺も」
「でも」
「今は?」
森野。
相沢の肩。
少し。
寄る。
「いないほうが」
「変です」
相沢。
笑う。
「大阪でも一緒」
「はい」
少し。
沈黙。
森野。
「相沢さん」
「何?」
「前に」
「うん」
「大阪へ行ったら話したいことがあるって」
相沢。
「覚えてる?」
「当然です」
「まだ大阪じゃない」
「分かっています」
森野。
「だから聞きません」
「偉い」
「でも」
「うん」
「ヒントください」
相沢。
「ヒント?」
「はい」
「家のことって言いました」
「うん」
「もっと先の話とも」
「言った」
森野。
「それ以上」
相沢。
考える。
「じゃあ」
「はい」
「大阪で探す家」
「はい」
「賃貸じゃなくてもいいかもしれない」
森野。
止まる。
「……」
相沢。
「ヒント」
森野。
「それ」
「はい」
「かなり答えに近くありません?」
「そう?」
森野。
黙る。
十秒。
「相沢さん」
「何?」
「私」
「はい」
「明日大阪行きたいです」
「引っ越し明後日」
「分かってます」
「待てない?」
「待てません」
相沢。
笑う。
「あと二日」
「長いです」
翌日。
東京。
最後の日。
二人。
近所。
歩く。
いつものスーパー。
いつもの道。
いつもの公園。
特別なことは。
しなかった。
夕方。
森野。
「これでいいんです」
相沢。
「何が?」
「最後の日」
「うん」
「観光とか」
「特別な食事とか」
「しなくて」
相沢。
「普通で?」
「はい」
森野。
「普通の日が」
「一番好きです」
翌朝。
午前七時。
引っ越し業者。
来る。
段ボール。
次々。
運び出す。
最後。
何もなくなった。
部屋。
森野。
玄関。
立つ。
相沢。
鍵。
持つ。
「行こうか」
「はい」
森野。
部屋。
一度。
振り返る。
「ありがとうございました」
相沢。
「部屋に?」
「はい」
「律儀」
「大切だったので」
ドア。
閉まる。
東京駅。
新幹線。
二人。
並んで。
座る。
発車。
東京。
離れる。
森野。
窓。
見る。
「相沢さん」
「何?」
「大阪でも」
「うん」
「会社ではちゃんと仕事してください」
「もちろん」
「家では」
「うん」
森野。
少し。
笑う。
「ちゃんと恋人してください」
相沢。
「了解」
新幹線。
西へ。
走る。
二人が。
初めて出張で。
並んで乗った。
同じ路線。
あの日は。
仕事が終われば。
別々のホテルの部屋へ戻った。
でも今日は。
違う。
二人が向かうのは。
同じ場所。
新しい。
二人の家。
そして。
その家で。
相沢は。
ずっと考えていた言葉を。
森野へ。
伝えるつもりだった。
コメント
1件
うわあ、もう東京編が終わっちゃうんですね…。「最後の〜」って田中さんが言うたびに、一瞬胸がぎゅっとなりました。でもあの「ペアのマグカップ」から「一緒に住んでるんだから一緒でしょう!」の流れ、最高でした。森野さんが自分から言っちゃうとこ、本当に好きです。そして相沢さんの「賃貸じゃなくてもいいかも」ってヒント…えっ、家を買う話?二人の未来が楽しみすぎます。最後の新幹線、あの日とは違う二人の距離感にじんわりしました。続き、めちゃくちゃ気になります!