代表取締役社長という名の判子を押す係の麗にはもう一つ重要な仕事があった。
取引先への挨拶回りである。
「初めまして、このたび社長に就任いたしました須藤麗です、よろしくお願いいたします」
とだけ言って、後はニコニコしておくのだ。
重要な取引先は明彦が、そのほかはそれぞれ担当の上役がついてきて一緒に挨拶してくれるので、そのあとは仕事の話をし始める彼らを隣で待つ、といった具合である。
取引先も、麗が傀儡でしかないことは端から理解しているため、挨拶だけしたら存在を忘れられてしまうことが多い。
父も同じような働き方をしていたのではないか。それこそ下請け相手にはふんぞり返ってたのでは? と、不安に襲われつつ、麗はただひたすら畏まってニコニコしていた。
だから、取引先の社長が麗とサシで話したいと言い出したと聞き、かなり緊張していた。
着いてきて下で待っている専務から何を提案されても『社に持ち帰ってから検討します』と、伝えるようにと耳にたこができるくらい言われている。
それでも引かなければ『須藤明彦氏に相談してから決めます』と言いなさいと。
いくつかの駅直結の丸山ビルを所有、商業施設として運営している丸山氏にとって須藤ホールディングス傘下の百貨店はライバル関係と言え、余計な情報が関係者に流れるのは嫌がるだろうからと。
まだ見ぬ丸山氏にこれから何を言われるのかわからず胃がキリキリ痛むというのに、秘書に出された茶の茶柱が立っている。
茶柱が立つと幸運だと言うが、逆に今茶柱を立たせたことで運を使い切ったのでは? と、考えていると、丸山氏が入ってきたので、麗は立って頭を下げた。
「いやあ、こちらから呼び出したのに遅れてすまないね」
「いえ、私も今お邪魔させていただいたところです。初めまして、このたび、佐橋児童衣料の代表取締役社長に就任いたしました須藤麗と申します」
たっぷり三十分は待たされたが、デートで遅刻した彼氏への慰めの言葉のような返事をした。
「どうも。丸山ビル社長の丸山です。これはこれは、お祖母さんの麗華さんに似た美人さんだ。目元が特に似てるね」
自分の名刺が下に行くように気をつけ、名刺交換をする。
ソファに座るとさっそく丸山は深く腰掛け、ふんぞり返った。
専務曰く、祖母とは知古だというその人は、未だ衰えをみせないほどのやり手の経営者らしく、完全に舐められているのを感じる。
まあ、舐められて当然であるのだが。
「麗華さんにはね、大変世話になったんだよ。昔、テナントが入らないと周りの反対を押し切って建てたビルがあってね。そこに初めて入居表明をしてくれたのが麗華さんだったんだよ。それをきっかけにたくさんの企業が入居してくれて、そのビルは大成功。あの人には感謝しかないね」
「そうだったんですね」
麗は微笑みつつ頷いた。
「惜しい人を亡くしたねぇ。あの人が生きていたら、おたくの会社も今こんなことにはなってなかったろうに。君もおばあさんが亡くなって寂しいだろう」
じっと丸山が麗の顔をのぞき込んでいる。試されているのかもしれない。嘘は言えなさそうだ。
「私は祖母とは一度も会ったことがございませんので、寂しさ、と聞かれますとどうにも」
あるのは姉に残した遺産を分けてもらったことへの感謝と、せめてもうちょっと父をまともに育ててくれていればという恨みだけだ。
「ああ、そうか。君が佐橋の家に引き取られたのは、麗華さんが亡くなってからだったもんなぁ」
「よくご存じですね」
麗は笑みを崩さなかった。怒らせようとされているのだろうか。
生憎と、麗としては愛人の娘だと当てこすられるのは慣れたもので、ワイドショーにまで取り上げられているのだから今更である。
「てっきり次の社長は麗華さんそっくりの麗音ちゃんだと思っていたからびっくりしてん」
「驚かせてすみません。これが巷でよく聞くサプライズ人事というやつでして」
「君、社長が務まる器か? 前の社長並みに使えへんのちゃうん?」
「実は私も同じ懸念を抱いています。なので、余計なことはせず、会社の舵取りは上役たちに任せることにしています」
「えらいかわいらしいお人形さんやないの」
「可愛いだなんて、ありがとうございます」
これで確信した。丸山は麗を怒らせたいのだ。それで多分判断を鈍らせたい。なにか社に持ち帰らせたくないことがあるのだろう。
すると、ふっと、丸山が座り直し、膝の上に手を乗せた。
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