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夜、唯由は物思いに耽りながら、アパートの窓からレースのカーテン越しに月を見ていた。
そろそろカーテン閉めなくちゃ、と窓辺に寄ると、いいソースの香りがしてきた。
ん? ソース……? とレースのカーテンを開け、下を覗くと蓮太郎がしゃがんでいた。
地面にはたこ焼きらしきものが散らばって落ちていて、猫がソースを舐めている。
猫に驚いて落としたのか、つまずいたりして自ら落としたのか。
なんだかわからないが、いろいろあったようだ……。
蓮太郎がこちらに気づいて立ち上がると、猫は逃げていった。
そのたこ焼きをささっと片付け、ビニール袋に突っ込むと蓮太郎は言った。
「ラーメン食べに行かないか?」
……たこ焼き落としたからですね、と唯由は思っていたが、突っ込まず、
「はい」
と言って頷いた。
「まあ、あのたこ焼き冷え切ってたからな」
駅の近くの屋台の豚骨ラーメンを食べながら、蓮太郎は言う。
「なんで冷え切っ……」
……てたんですか、と訊きそうになり、言葉を呑み込んだ。
迷子になっていたことは明白だったからだ。
「何故、お前はあんなわかりにくい場所に住んでるんだ」
と蓮太郎は文句を言ってくる。
いや、大きな道路から一本入った場所で、しかも、曲がり角にスーパーがある、ものすごくわかりやすい場所なんですが、と思っていたが。
それを言うのも悪いので、
「すみません」
と謝ることにした。
蓮太郎は沈黙している。
あのたこ焼きに心残りがあるのだろうかと思ったが違った。
「お前に言ってはならないことを言いたいんだが、どうしたらいいと思う?」
「……言ってはならないことがなんだかわからないですが。
まあ、大体、なに言われても大丈夫ですよ。
どうぞ」
と言うと、蓮太郎は困ったような顔をする。
「それは実家でひどい目に遭っていたからか」
いや、あなた今、その言ってはならないかもしれないことの内容しゃべっちゃってますが……。
「社食で話してるとき、戻ってきて、コーヒーのミルクを手にこっちを見てる今田さんが見えたんですよね~」
と苦笑いしたあとで、
「まあ、別に隠してるわけじゃないんですよ」
と唯由は言う。
「母が家を出て、父は再婚し。
私は実家に残ってましたが、継母や妹とソリが合わなくて。
いや、私の方が合わないんじゃなくて。
向こうが合わないみたいで」
「義理の妹さんの名前だったんだな、月子」
あのときは妹としか言ってなかったが、と言われる。
「いや、実の妹なんですよ。
半分だけ。
義理の母はうちの母より年上なんですが。
もともと父の恋人だった人で。
母と結婚したあと再会して一夜の過ちというか」
「一夜の過ちでできたとか言われるの、嫌だろうな」
「そうなんですよ。
だから、あんまりその話、妹の前では触れないようにしてるんですけどね」
食べ終わっていた蓮太郎は箸を置いて言った。
「いや、お前が実家でシンデレラらしいと聞いて」
シンデレラ?
いや、私が姉なんだが……。
「お前を慰めたいと思ったが、かと言って、お前に聞かされていない家庭の事情に勝手に触れるのもなと思って、困っていたんだ」
いや、だから、今、現在しゃべっちゃってますけど……と思いながらも笑ってしまった。
そんな唯由の顔を見つめていた蓮太郎が言う。
「食べたか、出よう」
はい、と鞄を手に立ち上がりかけた唯由に蓮太郎がボソリと言う。
「ここは人目があるからな」
……人目があったら、なんなのですか。
なんか急に出たくなくなったんですけどっ、と思いながらも、そのまま居るわけにもいかないので、外に出た。
豚骨のいい香りを服や髪から漂わせながら、二人で夜道を歩く。
「悪かったな」
「え」
「いやなことを思い出させて」
「人がどう思ってるか知りませんが。
私にはそう嫌な話ではないですよ」
そう言うと、蓮太郎は唯由を見て笑う。
「紗江さんが言ってた。
お前がタフなのは目を見たらわかると」
ほんとだな、と言う。
……だから、そんな風に見つめないでくださいよ、と唯由の方が視線をそらしてしまった。
「俺が言いたかったのは、蓮形寺家で辛いことがあったかもしれないが。
今のお前にはもう関係ないと言うことだ」
「え?」
「お前が何者だろうと関係ない。
今のお前は、ただの俺の愛人」
『蓮形寺の娘』じゃない、と蓮太郎は言う。
「お前が捨てたいなら過去も家族も置いてこい。
俺がずっと面倒見てやる。
なりたくもない経営者か、好きなことができる研究者か。
俺の将来を決める、大事な愛人様だからな」
なんだかロクでもないことを言われているような。
すごいことを言われているような……。
だが、ともかく、なんだか身軽になった気がした。
ふっと肩の力が抜けたというか。
アパートに越してきたときよりも、蓮形寺の家から自由になれた気がした。
「あ、ありがとうございますっ」
いや、一生、愛人として雇おうと言っているだけなので、礼を言うべきところかはわからないのだが。
でも、なにかちょっと泣きそうになってしまったので、つい、側にあった蓮太郎の腕をつかんでしまう。
ところが、蓮太郎は後ずさり、逃げかけた。
「みだりに男に触れるのはどうかと思うが……」
いや……私、あなたの愛人ですよね?
っていうか、ちょっと感謝の意を表してみただけなんですけど、と思いながらも、唯由は手を離し、ちょっと笑った。
二人でまた、明るい国道沿いの道を歩き出す。
「そうだ。
努力の甲斐あって、『い』で『唯由』が一番に候補に出るようになったぞ」
と言う蓮太郎のしょうもない話を聞きながら。
「じゃあ、またな」
部屋の前まで唯由を送ってくれた蓮太郎はそう言ったあと、迷うような顔をする。
「どうかしましたか?」
いや……と言う蓮太郎に、あ、もしかして、と思い、唯由は言った。
「送りますよ、駐車場まで」
「いや、駐車場への道がわからなかったんじゃない……」
渋い顔で言う蓮太郎に謝った。
「ああ、すみません。
それはわかるんですね」
「いや、わからないが」
「……送りますよ」
と言う唯由に、待てよ、そうかっ、と蓮太郎が声を上げる。
「お前が俺を駐車場まで送る。
そのお前を俺が此処まで送る。
そしたら、ちょっと長く一緒にいられるな」
いや、なに言ってるんですか、と唯由は赤くなった。
「あ、でも、そういえば、アパートの前とめれますよ、車」
なにっ? と蓮太郎が唯由を見る。
「一部屋に一台分駐車場ついてるので」
と唯由は植え込みの角のスペースを指さした。
「何故、今まで言わなかったんだ……」
いや、何故、いつも予告なしに来るんだ……と私の方が言いたいですが。
「此処に……、誰か他にとめる奴とかいるのか」
「いませんよ。
引っ越してから、まだ誰も……
ああ、引越し業者さんがとめましたね。
まあ、そんなに荷物はなかったんですが」
「そうか。
じゃあ、お前の駐車場とめる権利は俺だけのものな」
なに子どもが陣地を争うみたいに、と唯由は笑ってしまう。
「よし、じゃあ、駐車場まで行こう」
と言いながら、蓮太郎は手を握ろうとする。
唯由は思わず、その手を振り払っていた。
「なにやってんだ、愛人のくせに。
遠慮なくベタベタしろ」
そう言うわりには、蓮太郎は最初の頃より腰が引けているように見えた。
握らないと悪いだろうか、と唯由は思い、その手をそっと握ってみる。
蓮太郎の手はすぐには動かず、少し迷うような間のあと、ぎゅっと強く握ってきた。
こちらを見ずに歩き出す。
「そうだ。
お前、なんでガチャガチャの入れ物持ってたんだ?」
「ああ、従兄弟が買ったときカラを持たされて」
「ふーん。
面倒見がいいんだな」
「……いや、面倒……は見てないかもですが」
「幾つくらいなんだ、その従兄弟?」
と微笑ましげに問われ、幾つだっけな? と唯由は考える。
「……えーと、
七かな? 八かな?」
「七、八歳か」
「二十八ですかね?」
待て、という顔を蓮太郎はした。
「二十八歳なのにガチャガチャ好きなのか」
「見ると買うんですよ~。
ちなみに私も好きです
今、ガチャガチャを製造する過程がガチャガチャになってる奴が欲しいんですけど」
「お前がなにを言ってるか、わからないんだが……」
という異文化交流をしながら、駐車場まで歩く。
コインパーキングには、枠から、はみ出しそうな大きな荷台のついた車がとまっていた。
モスグリーンのピックアップトラックだ。
外国の映画に出てきそうなその車を見て、
「格好いいですね」
と唯由が言うと、蓮太郎は嬉しそうだった。
「これ、荷台、なにを載せるんですか?」
キャンプのテントとか? と思ったのだが、蓮太郎は、しばし考え、
「……なにを載せるんだろうな」
と呟く。
ただ、格好いいから買っただけだったようで、特に載せるものはなかったようだ。
試験管とかビーカーとか大量に載せたら割れそうだしな……。
蓮太郎は特に目的もなく見た目に惹かれて買ったというのが嫌なのか、いろいろ考え、
「なんか大事な物を載せるためだ」
と言い出した。
「なんか大事な物ってなんですか?」
「お前、予想外にツッコミが厳しいな」
このシンデレラ、全然可哀想じゃないぞと言い出す。
「そもそも私、可哀想な感じではないですよ」
と言うと、そうだ、と蓮太郎がこちらを見て言った。
「そうだ。
お前を乗せよう」
「……警察に捕まります」
結局、荷台には乗らずに助手席に乗り、アパートまでの短い道を走った。
いや、この道をどう迷ったんだ。
違う意味で天才だと思いながら、唯由は言った。
「なんか学生時代を思い出しますね。
小学校のときとか、友だちとしゃべり足りなくて、行ったり来たり、お互いを送り合ったりしてたんですよね」
「じゃあ、またパーキングに戻ろうか」
「いや、なんでですか……」
「お前と話し足りないからだ」
……いやいやいや、なにをおっしゃってるんですか、と照れながら唯由は言う。
「明日、遅れますよ」
もうアパートの灯りは見えていた。
蓮太郎が難しい顔で言ってくる。
「ついて欲しくないな」
どきりとしてしまった唯由に蓮太郎は言う。
「愛人との別れ際、キスのひとつもするものなのだろうが。
どうもする気になれなくて」
「……したくないのなら、しなくていいんですよ」
「いや、したい。
だが、昨日も拒絶されたし。
前はなんとも思わなかったのに。
何故か今はお前とキスするどころか、手をつなぐのもなんだか恥ずかしいんだ」
前を見たまま蓮太郎は大真面目に悩みながらそんなことを言ってくる。
そ、そうですか。
もしかして、私、魔法のランプからちょっと人間に近づけたんですかね……?
今まで、物か下僕と思っていたから、特に恥ずかしくもなく、触れてきていたのだろう。
「そうだ。
多数決で決めよう」
「は?」
「今、別れ際にキスするかどうか。
多数決で決めよう」
多数決って、我々、二人しかいませんがっ、と思いながら唯由は言った。
「しっ、しなくていいですっ。
しないに一票っ」
「決断早いな……」
と蓮太郎が呟いている間に、唯由はとまった車から飛び降りるように降りていた。