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150
翌朝、目が覚めたとき。
リゼットは、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
簡素な寝台。
厚いカーテン。
白く曇った朝の光。
王都の自室とは、何もかも違う。
でも不思議と、息はしやすかった。
断罪の夜。
辺境伯。
黒い紋様。
荒い呼吸。
そこまで思い出して、リゼットは身を起こす。
胸の奥の緊張は、まだ消えていない。
けれど今日は、ただ怯えているだけの朝ではなかった。
やるべきことがある。
それが、今の支えだった。
身支度を整えて部屋を出ると、廊下の先でマルタが待っていた。
「おはようございます」
昨夜より少しだけ、声が硬くない。
「おはようございます」
「朝食の前に、作業部屋をご覧になりますか」
リゼットは目を瞬く。
「昨夜お話しした件です。薬の確認や記録に使える部屋を、一つ空けました」
本当に。
その驚きが、素直に胸に浮かぶ。
「ありがとうございます」
「感謝は、役に立ってからで結構です」
厳しい言い方。
でも、拒絶ではない。
案内された部屋は、東向きの小さな一室だった。
窓の外には、雪の残る中庭。
古い作業机。
棚。
水差し。
簡易の炉。
豪華ではない。
でも、手を動かすには十分だった。
机の上には、紙束とインク壺まで置かれている。
リゼットは、そっと机に触れた。
王都では、自分のためだけの机なんてなかった。
本を読む場所も。
薬草を広げる場所も。
いつだって“借り物”だった。
でも、ここは違う。
まだ仮の滞在で。
契約花嫁という名目で。
完全に受け入れられたわけでもない。
それでも今、
自分の手で使える場所がある。
その事実だけで、胸の奥が少し熱くなった。
「必要なものがあれば、申してください」
マルタが言う。
「ただし、すぐに全部そろうとは限りません」
「十分です。いえ、十分すぎます」
マルタはわずかに目を細めた。
「……朝食後、昨夜の薬箱もこちらへ運ばせます」
「お願いします」
マルタが去ったあと、リゼットは窓辺に立った。
外では、使用人たちが雪を払っている。
兵が見回りをしている。
王都のような華やかさはない。
でも、確かに人の暮らしがある。
そのとき。
廊下の向こうから、小さな泣き声が聞こえた。
振り向くと、若い下働きの少女が、片手を押さえて立っている。
足元には倒れたバケツ。
床には水。
「ご、ごめんなさい……」
近くにいた年上の使用人が眉をひそめる。
「何をしているの。早く片づけなさい」
少女は慌ててしゃがもうとして、顔をしかめた。
その仕草で分かる。
手首だ。
「少し、見せて」
リゼットが近づくと、少女は驚いて顔を上げた。
「え……」
「無理に動かさないほうがいいです。ひねっています」
年上の使用人が半信半疑で言う。
「そんな、大げさな」
リゼットは少女の手首にそっと触れた。
熱はない。
腫れも強くない。
でも、動かし方が悪い。
「骨ではありません。でも、このまま使うと悪化します」
少女は困ったように目を伏せる。
「でも、仕事が……」
「一刻ほど冷やして、そのあと布で固定しましょう。マルタさんにも伝えます」
「勝手なことを――」
年上の使用人が言いかけた、そのとき。
「何がありました」
ちょうど戻ってきたマルタが、足を止めた。
リゼットは手短に説明する。
マルタは少女の手首を見て、それからリゼットを見る。
「診られますか」
「簡単な処置なら」
「ではお願いします」
若い使用人が目を丸くする。
リゼット自身も、少しだけ驚いた。
昨日の今日で、ここまで任せるとは思わなかったからだ。
でも迷う暇はない。
布を持ってきてもらい、冷やし、負担の少ない位置で軽く固定する。
「あ……さっきより痛くないです」
少女が目を見開く。
「本当に?」
年上の使用人まで、思わずのぞき込んでくる。
「今日は重いものを持たないでください」
リゼットは少女へ言う。
「明日も腫れが強ければ、もう一度見せてください」
「ありがとうございます……!」
少女は何度も頭を下げた。
まっすぐな感謝だった。
誰かに感謝されること自体は、初めてではない。
でも、それを誰かに奪われず、
自分のまま受け取れたことが、リゼットには新しかった。
朝食の席に着くころには、屋敷の空気がほんの少し変わっていた。
視線はまだある。
よそ者を見る目も消えてはいない。
でも、昨夜のような剥き出しの警戒ばかりではなかった。
アルヴェインはすでに席についていた。
顔色は完全ではない。
でも昨夜ほど悪くはない。
首元は高い襟に隠され、表情もいつもどおり淡々としている。
まるで昨夜の苦悶など、最初から存在しなかったみたいに。
「お加減はいかがですか」
リゼットが訊くと、アルヴェインはパンに手を伸ばしたまま答えた。
「死んではいない」
「そういう意味では聞いていません」
アルヴェインがちらりとこちらを見る。
「少し楽だ」
短い答え。
でも、それだけで十分だった。
マルタが横から口を挟む。
「朝の見回りの前に、発作の記録を確認していただけますか」
「好きにしろ」
それも、拒絶ではない。
リゼットは朝食のあと、作業部屋へ戻った。
マルタが古い記録帳を何冊も運んでくる。
「発作の時刻と症状を、過去の医師や調合師が記したものです」
革表紙の帳面は、思った以上に分厚い。
「全部ですか……」
「簡単なものですが」
簡単どころではない。
十分すぎる記録だ。
リゼットは机に向かい、一冊ずつ頁をめくる。
日付。
時刻。
症状。
投与した薬。
回復までの時間。
最初の数冊では、まだ見えない。
でも三冊目に入ったころ、違和感が輪郭を持ち始めた。
近い。
あまりにも、時刻が近い。
完全に同じではない。
でも、ばらつきが不自然に小さい。
月が満ちる前後。
夜半の少し前。
ほとんど毎回、そのあたりに集中している。
自然発生の発作なら、もっと揺れるはずだ。
気候。
体調。
食事。
睡眠。
そういうものに引っ張られて、もっと散る。
なのに、これは整いすぎている。
リゼットは紙に線を引いていく。
満月前三日。
満月当日。
満月後二日。
その五日間に集中。
しかも時間帯は、二刻ほどの幅に収まっている。
「……やっぱり」
思わず声が漏れる。
「何か分かりましたか」
マルタがすぐに反応する。
「“起きやすい”ではありません」
リゼットは顔を上げる。
「“起こされている”に近いです」
マルタの顔が固まった。
「そんなことが……」
「まだ仮説です。でも、偶然で片づけられる揺れ方ではありません」
そのとき、扉が軽く叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのは兵士だった。
「門前の農家の子どもが高熱で、町医者が来るまで見てほしいと」
マルタが眉を寄せる。
「本来なら医務係に回す案件ですが……」
兵士は少し言いにくそうに続けた。
「医務係は南の見張りへ出ており、戻りが夕方になるそうです」
マルタは迷うようにリゼットを見る。
昨日までなら、即座に断ったかもしれない。
でも今は違う。
「行けますか」
「もちろんです」
返事は、自分でも驚くほど早かった。
屋敷を出ると、空気は刺すように冷たかった。
でも歩いているうちに、それも気にならなくなる。
案内された農家では、小さな男の子が毛布にくるまっていた。
頬が赤い。
喉が熱を持っている。
母親は、不安で目を潤ませていた。
「すみません、突然……」
「大丈夫です。診ます」
呼吸音。
喉。
発汗。
腹の張り。
重い病ではない。
冷えと疲れからくる熱だ。
リゼットは水の飲ませ方、身体の冷やし方を伝え、屋敷から持ってきた乾燥薬草で簡単な煎じ方を教えた。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」
帰り道。
兵士がぽつりと言う。
「奥様は……いや、その」
リゼットは足を止める。
兵士は耳を赤くして言い直した。
「リゼット様は、薬のことがお詳しいんですね」
奥様。
その呼び方に、まだ慣れない。
契約だ。
形式だ。
そう分かっているのに、胸の奥が少しだけくすぐったい。
「詳しいというより」
リゼットは小さく笑う。
「ずっとそれしかしてこなかったんです」
兵士は真っ直ぐ言った。
「それができるのは、すごいことです」
何気ない一言だった。
でも、王都では誰もそんなふうに言わなかった。
屋敷へ戻ると、中庭の兵たちが会釈をしていく。
使用人たちの視線にも、朝とは違う柔らかさが混じっていた。
少しずつ。
本当に少しずつだけれど、
ここに自分の輪郭ができ始めている。
夕方、作業部屋へ戻ると、机の上に小さな籠が置かれていた。
中には乾燥薬草と、まだ若い林檎が二つ。
誰が置いたのかは分からない。
でも、善意だけは伝わる。
リゼットは指先で籠の縁をなぞった。
王都では、役に立てば利用され。
結果を出せば、誰かの手柄にされた。
でもここでは、
少なくとも今のところ、
自分のしたことが自分に返ってくる。
それがどれほど救いになるかを、初めて知った。
その夜。
リゼットは再び記録帳を開いた。
二十三時前後。
二十二時半。
二十三時十分。
二十二時四十分。
やはり揺れ幅が狭すぎる。
しかも、発作の強い日ほど、王都から届いた新しい薬や香油を使った直後の記録が多い。
背筋に、静かな寒気が走る。
やはり外から触れられている。
月だけではない。
時刻だけでもない。
“何かをきっかけに動くように”作られている。
「……見つける」
小さく呟く。
自分の無実も。
アルヴェインの苦しみの正体も。
全部。
そのために必要なのは、派手な力じゃない。
見逃さない目。
積み上げる手。
それなら、自分にもできる。
そう思ったとき。
扉の向こうで足音が止まった。
控えめに、二度。
扉が叩かれる。
「どうぞ」
入ってきたのは、アルヴェインだった。
昼の軍装のまま。
相変わらず無駄のない姿。
でもその目が、机の上の記録の山を見て、わずかに細くなる。
「まだ見ていたのか」
「はい」
「倒れるぞ」
それは気遣いなのか、ただの事実確認なのか分からない言い方だった。
「辺境伯ほどではありません」
「言うようになったな」
ほんの少しだけ、彼の口元が緩んだように見えた。
気のせいかもしれない。
でも、そう思いたい程度には、その空気はやわらかかった。
リゼットは帳面を一枚、彼の前へ向ける。
「見てください。発作の時刻です」
アルヴェインは机に近づき、紙に目を落とした。
「規則があります。月齢だけじゃありません。投薬のあとに強く出る日が多いんです」
「……つまり」
「誰かが、あなたの発作を誘発しやすい状態を保っている可能性があります」
部屋がしんとする。
アルヴェインの横顔が硬くなる。
怒りなのか。
警戒なのか。
それとも、長く言葉にされなかったものに初めて形が与えられた痛みなのか。
やがて彼は低く言った。
「続けろ」
短い一言。
でも、その中には昨夜よりはっきりした信頼があった。
調べろ。
明らかにしろ。
お前なら辿れるかもしれない。
そう任されている気がした。
リゼットは静かに頷く。
もう、自分はただ守られるだけの存在じゃない。
ここでできることがある。
ここでしかできないことがある。
それが何より、心を強くした。
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