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翌朝、目が覚めたとき。
リゼットは、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
簡素な寝台。
厚いカーテン。
白く曇った朝の光。
王都の自室とは、何もかも違う。
でも不思議と、息はしやすかった。
断罪の夜。
辺境伯。
黒い紋様。
荒い呼吸。
そこまで思い出して、リゼットは身を起こす。
胸の奥の緊張は、まだ消えていない。
けれど今日は、ただ怯えているだけの朝ではなかった。
やるべきことがある。
それが、今の支えだった。
身支度を整えて部屋を出ると、廊下の先でマルタが待っていた。
「おはようございます」
昨夜より少しだけ、声が硬くない。
「おはようございます」
「朝食の前に、作業部屋をご覧になりますか」
リゼットは目を瞬く。
「昨夜お話しした件です。薬の確認や記録に使える部屋を、一つ空けました」
本当に。
その驚きが、素直に胸に浮かぶ。
「ありがとうございます」
「感謝は、役に立ってからで結構です」
厳しい言い方。
でも、拒絶ではない。
案内された部屋は、東向きの小さな一室だった。
窓の外には、雪の残る中庭。
古い作業机。
棚。
水差し。
簡易の炉。
豪華ではない。
でも、手を動かすには十分だった。
机の上には、紙束とインク壺まで置かれている。
リゼットは、そっと机に触れた。
王都では、自分のためだけの机なんてなかった。
本を読む場所も。
薬草を広げる場所も。
いつだって“借り物”だった。
でも、ここは違う。
まだ仮の滞在で。
契約花嫁という名目で。
完全に受け入れられたわけでもない。
それでも今、
自分の手で使える場所がある。
その事実だけで、胸の奥が少し熱くなった。
「必要なものがあれば、申してください」
マルタが言う。
「ただし、すぐに全部そろうとは限りません」
「十分です。いえ、十分すぎます」
マルタはわずかに目を細めた。
「……朝食後、昨夜の薬箱もこちらへ運ばせます」
「お願いします」
マルタが去ったあと、リゼットは窓辺に立った。
外では、使用人たちが雪を払っている。
兵が見回りをしている。
王都のような華やかさはない。
でも、確かに人の暮らしがある。
そのとき。
廊下の向こうから、小さな泣き声が聞こえた。
振り向くと、若い下働きの少女が、片手を押さえて立っている。
足元には倒れたバケツ。
床には水。
「ご、ごめんなさい……」
近くにいた年上の使用人が眉をひそめる。
「何をしているの。早く片づけなさい」
少女は慌ててしゃがもうとして、顔をしかめた。
その仕草で分かる。
手首だ。
「少し、見せて」
リゼットが近づくと、少女は驚いて顔を上げた。
「え……」
「無理に動かさないほうがいいです。ひねっています」
年上の使用人が半信半疑で言う。
「そんな、大げさな」
リゼットは少女の手首にそっと触れた。
熱はない。
腫れも強くない。
でも、動かし方が悪い。
「骨ではありません。でも、このまま使うと悪化します」
少女は困ったように目を伏せる。
「でも、仕事が……」
「一刻ほど冷やして、そのあと布で固定しましょう。マルタさんにも伝えます」
「勝手なことを――」
年上の使用人が言いかけた、そのとき。
「何がありました」
ちょうど戻ってきたマルタが、足を止めた。
リゼットは手短に説明する。
マルタは少女の手首を見て、それからリゼットを見る。
「診られますか」
「簡単な処置なら」
「ではお願いします」
若い使用人が目を丸くする。
リゼット自身も、少しだけ驚いた。
昨日の今日で、ここまで任せるとは思わなかったからだ。
でも迷う暇はない。
布を持ってきてもらい、冷やし、負担の少ない位置で軽く固定する。
「あ……さっきより痛くないです」
少女が目を見開く。
「本当に?」
年上の使用人まで、思わずのぞき込んでくる。
「今日は重いものを持たないでください」
リゼットは少女へ言う。
「明日も腫れが強ければ、もう一度見せてください」
「ありがとうございます……!」
少女は何度も頭を下げた。
まっすぐな感謝だった。
誰かに感謝されること自体は、初めてではない。
でも、それを誰かに奪われず、
自分のまま受け取れたことが、リゼットには新しかった。
朝食の席に着くころには、屋敷の空気がほんの少し変わっていた。
視線はまだある。
よそ者を見る目も消えてはいない。
でも、昨夜のような剥き出しの警戒ばかりではなかった。
アルヴェインはすでに席についていた。
顔色は完全ではない。
でも昨夜ほど悪くはない。
首元は高い襟に隠され、表情もいつもどおり淡々としている。
まるで昨夜の苦悶など、最初から存在しなかったみたいに。
「お加減はいかがですか」
リゼットが訊くと、アルヴェインはパンに手を伸ばしたまま答えた。
「死んではいない」
「そういう意味では聞いていません」
アルヴェインがちらりとこちらを見る。
「少し楽だ」
短い答え。
でも、それだけで十分だった。
マルタが横から口を挟む。
「朝の見回りの前に、発作の記録を確認していただけますか」
「好きにしろ」
それも、拒絶ではない。
リゼットは朝食のあと、作業部屋へ戻った。
マルタが古い記録帳を何冊も運んでくる。
「発作の時刻と症状を、過去の医師や調合師が記したものです」
革表紙の帳面は、思った以上に分厚い。
「全部ですか……」
「簡単なものですが」
簡単どころではない。
十分すぎる記録だ。
リゼットは机に向かい、一冊ずつ頁をめくる。
日付。
時刻。
症状。
投与した薬。
回復までの時間。
最初の数冊では、まだ見えない。
でも三冊目に入ったころ、違和感が輪郭を持ち始めた。
近い。
あまりにも、時刻が近い。
完全に同じではない。
でも、ばらつきが不自然に小さい。
月が満ちる前後。
夜半の少し前。
ほとんど毎回、そのあたりに集中している。
自然発生の発作なら、もっと揺れるはずだ。
気候。
体調。
食事。
睡眠。
そういうものに引っ張られて、もっと散る。
なのに、これは整いすぎている。
リゼットは紙に線を引いていく。
満月前三日。
満月当日。
満月後二日。
その五日間に集中。
しかも時間帯は、二刻ほどの幅に収まっている。
「……やっぱり」
思わず声が漏れる。
「何か分かりましたか」
マルタがすぐに反応する。
「“起きやすい”ではありません」
リゼットは顔を上げる。
「“起こされている”に近いです」
マルタの顔が固まった。
「そんなことが……」
「まだ仮説です。でも、偶然で片づけられる揺れ方ではありません」
そのとき、扉が軽く叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのは兵士だった。
「門前の農家の子どもが高熱で、町医者が来るまで見てほしいと」
マルタが眉を寄せる。
「本来なら医務係に回す案件ですが……」
兵士は少し言いにくそうに続けた。
「医務係は南の見張りへ出ており、戻りが夕方になるそうです」
マルタは迷うようにリゼットを見る。
昨日までなら、即座に断ったかもしれない。
でも今は違う。
「行けますか」
「もちろんです」
返事は、自分でも驚くほど早かった。
屋敷を出ると、空気は刺すように冷たかった。
でも歩いているうちに、それも気にならなくなる。
案内された農家では、小さな男の子が毛布にくるまっていた。
頬が赤い。
喉が熱を持っている。
母親は、不安で目を潤ませていた。
「すみません、突然……」
「大丈夫です。診ます」
呼吸音。
喉。
発汗。
腹の張り。
重い病ではない。
冷えと疲れからくる熱だ。
リゼットは水の飲ませ方、身体の冷やし方を伝え、屋敷から持ってきた乾燥薬草で簡単な煎じ方を教えた。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」
帰り道。
兵士がぽつりと言う。
「奥様は……いや、その」
リゼットは足を止める。
兵士は耳を赤くして言い直した。
「リゼット様は、薬のことがお詳しいんですね」
奥様。
その呼び方に、まだ慣れない。
契約だ。
形式だ。
そう分かっているのに、胸の奥が少しだけくすぐったい。
「詳しいというより」
リゼットは小さく笑う。
「ずっとそれしかしてこなかったんです」
兵士は真っ直ぐ言った。
「それができるのは、すごいことです」
何気ない一言だった。
でも、王都では誰もそんなふうに言わなかった。
屋敷へ戻ると、中庭の兵たちが会釈をしていく。
使用人たちの視線にも、朝とは違う柔らかさが混じっていた。
少しずつ。
本当に少しずつだけれど、
ここに自分の輪郭ができ始めている。
夕方、作業部屋へ戻ると、机の上に小さな籠が置かれていた。
中には乾燥薬草と、まだ若い林檎が二つ。
誰が置いたのかは分からない。
でも、善意だけは伝わる。
リゼットは指先で籠の縁をなぞった。
王都では、役に立てば利用され。
結果を出せば、誰かの手柄にされた。
でもここでは、
少なくとも今のところ、
自分のしたことが自分に返ってくる。
それがどれほど救いになるかを、初めて知った。
その夜。
リゼットは再び記録帳を開いた。
二十三時前後。
二十二時半。
二十三時十分。
二十二時四十分。
やはり揺れ幅が狭すぎる。
しかも、発作の強い日ほど、王都から届いた新しい薬や香油を使った直後の記録が多い。
背筋に、静かな寒気が走る。
やはり外から触れられている。
月だけではない。
時刻だけでもない。
“何かをきっかけに動くように”作られている。
「……見つける」
小さく呟く。
自分の無実も。
アルヴェインの苦しみの正体も。
全部。
そのために必要なのは、派手な力じゃない。
見逃さない目。
積み上げる手。
それなら、自分にもできる。
そう思ったとき。
扉の向こうで足音が止まった。
控えめに、二度。
扉が叩かれる。
「どうぞ」
入ってきたのは、アルヴェインだった。
昼の軍装のまま。
相変わらず無駄のない姿。
でもその目が、机の上の記録の山を見て、わずかに細くなる。
「まだ見ていたのか」
「はい」
「倒れるぞ」
それは気遣いなのか、ただの事実確認なのか分からない言い方だった。
「辺境伯ほどではありません」
「言うようになったな」
ほんの少しだけ、彼の口元が緩んだように見えた。
気のせいかもしれない。
でも、そう思いたい程度には、その空気はやわらかかった。
リゼットは帳面を一枚、彼の前へ向ける。
「見てください。発作の時刻です」
アルヴェインは机に近づき、紙に目を落とした。
「規則があります。月齢だけじゃありません。投薬のあとに強く出る日が多いんです」
「……つまり」
「誰かが、あなたの発作を誘発しやすい状態を保っている可能性があります」
部屋がしんとする。
アルヴェインの横顔が硬くなる。
怒りなのか。
警戒なのか。
それとも、長く言葉にされなかったものに初めて形が与えられた痛みなのか。
やがて彼は低く言った。
「続けろ」
短い一言。
でも、その中には昨夜よりはっきりした信頼があった。
調べろ。
明らかにしろ。
お前なら辿れるかもしれない。
そう任されている気がした。
リゼットは静かに頷く。
もう、自分はただ守られるだけの存在じゃない。
ここでできることがある。
ここでしかできないことがある。
それが何より、心を強くした。