視界の端で空が段々と黒く染まっていくのが見えた。耳に流れ込んでくる隊士たちの声が少なくなっていく様子に「もう夜か」と刀を研ぎながらぼんやりと思う。
『もう少しやったら寝ようかな…』
小さくそう呟きながらまだ少し錆の残っている刃を砥石に軽く押し当て、ゆっくりと前後に動かす。そうするたびに刃と砥石の間から摩擦の澄んだ音が生まれ、鼓膜にゆっくりと染みついていく。そんな馴染みのある、すっきりとした音に自然と口角が上がっていった。
「〇〇少女、そろそろ終わりにしたらどうですか」
不意に、風呂から上がってきたらしい鉄穴森さんの声の声が頭上から聞こえてきた。顔を上げると、いつもつけているひょっとこの面を外した鉄穴森さんが呆れたような笑みで「もうほとんど仕上がりに近いじゃないですか」と私の手元にある刀を指差す。
その言葉に研ぐ腕を止め、刀をくるくると回して見てみる。
確かに、錆や汚れはもう肉眼では確認出来ないほどには落ちている。
刃の輪郭も、研ぎ始めた頃と比べると随分はっきりしてきた。
だけど、まだ終わりじゃない。
あとほんの少しだけ、僅かな仕上げを加えるだけで今よりもずっと強い輝きが生まれそう。そう思うと、やめるのが惜しくなる。
『んー……あともう少しだけしたら終わります。先に寝ててください』
そう言葉を零し、またもや刀を研ぐことだけに没頭する。
そんな私に、鉄穴森さんはやれやれとでも言いたげに両手を腰に当てて軽く頭を振った。
「相変わらず刀のことになると頑固ですね……鋼鐵塚さんですかあなたは」
『三十代後半男性と一緒にしないでくださいよ』
そんな軽口を叩きながらも手を止めない私を一瞥し、鉄穴森さんは「なるべく早く寝てくださいね」とだけ言い残して、部屋を出ていった。
その背を静かに見送り、私は壁中に刀の置かれた小屋を見渡す。
どの刀も、幾度もの激戦をくぐり抜けてきたことを語っている。
血の匂い、肉の細かな破片、戦場の砂塵。それは刀身の部分だけではなく、鞘の部分にも。
それだけ“この刀を使った人”が苦労してきたのだろう。
─…あの日、私の頬に付着した鬼の血を拭ってくれた時透さんの手は、豆だらけだった。
14歳の少年とは思えないほどに傷らだけの手の平。
刀を握るたびに豆が潰れて、血が鞘に付着する。皮膚がめくれて神経が露になった肌では、風すらもが凶器になって自身の体に痛みを植え付けてくる。
それでも刀を握らなければ鬼の頸は切れない。
風が傷に染みても動かなければ何も始まらない。鬼から人の命を守れない。
時透さんは何度その痛みを我慢したのだろう。
そもそも何歳で刀を握ったのだろう。
鬼殺隊入隊理由は?
家族構成は?
好きな食べ物はなに?
そもそもあの人に“好き”っていう概念があるのだろうか。
考えれば考えるほど時透さんへの思いが膨らんでいき、彼の姿が頭から離れなくなる。
そんなことを考える自分に思わずはあ、と短く溜息をついた。
きりもいいし、そろそろ私も風呂に入って寝よう。
そう思い、刀から手を離して入口に目を向けた瞬間。
「あれ、まだ起きてたの?」
ヒュッっと息がとまった。
腰まで伸びた長い黒髪、青色の澄んだ瞳、桜の花びらのように小さく描かれた唇。
それが、まさか、目の前にあるなんて
『とととと時透さん……!??』
時透さんが居る。そう理解した瞬間、吹き飛ばされるように後ずさりし、壁にへばりつく。
『な、なんでここに……?』
思考が完全にフリーズした。心臓の音が急に倍速になって、耳の奥でゴンゴン響いてる。
「柱同士の打ち合い。昼の稽古じゃ満足できないから」
『な、なるほど……』
何とか会話を続けようと綴っ た言葉は、何かの余韻を持ったようにぶるぶると震えていて、恥ずかしくてすぐにでもこの場から逃げ出したくなる。
きっと時透さんの視界に映る私は救いようもないくらい赤くなっているだろう。
そう思った瞬間、途方もない恥ずかしさで足がすくみ、壁に全体重を預けてしまう。
そんな私を不思議そうに見つめていた時透さんが不意に興味ありげに視界を下に移した。
「その刀、ちょっとだけ使ってみてもいい?」
その言葉とともに彼の細い指が、先ほど私が研いでいた刀を差し、ぱちり、と彼の瞳と視線が重なった。深く透き通った青の奥に映った自分の姿に、呼吸が止まりそうになる。
『へ!?あっ、どうぞ……』
反射的に返事を返しながら恐る恐る刀を差しだす。一瞬でも手元が狂えば、彼の手に触れてしまいそう。そんな緊張感と僅かな期待に耐えながら、彼が刀を受け取るのを静かに待つ。
そんな私とは対照的に、時透さんは「ありがとう」とだけ短く告げると、大きな瞳を糸のように細めて受け取った刀をじっと見つめた。何かを探るような目つきに、ゴクリと息を呑む。どこか緊張感の籠った張り詰めた雰囲気に空気が肌を刺すように重くなった。
そんなほんの少しの沈黙の後、時透さんは無言のまま小屋から出て、近くの木へと近づいた。
私たちの何倍もの大きさのある、何十年、いや百年は生きていそうな堂々とした太い木。根は地面を裂くように広がっており、さすが柱の庭の木だなとこっそり思う。
そんな空さえも突き抜けてしまいそうな大きな木に向かって静かに一歩を踏み出していく時透さんの後ろ姿に、何をするのだろう、と首を傾げた。その瞬間。
『…ぇ』
時透さんは素早くその木に向かって駆け出し、勢いよく刀を振るった。
──いや、振るうというよりも、ただ手が勝手に動いただけのように見えた。
それだけ自然で、無駄のない動き。
そんな彼が動かす刃は鋭く空気を押しのけ、何の抵抗もないまま的である木の幹に触れた。
途端、人間の首ほどの太さがある幹に、薄く一筋の線が浮かび上がった。
月明かりに照らされる彼の真剣な表情が私の瞳に焼き付く。
『………かっこいい』
吐息に近い、細い声が自身の喉を通った。驚愕に目が見開いていく感覚すらもが曖昧に感じるほどその光景に見惚れてしまい、言葉が喉の奥で止まった。
そんな私を置いて、木の幹は鈍く重たい音を響かせながら私と時透さんの足元へと崩れ落ちてきた。空気が振動するほどの衝撃を体全体で感じる。そんな衝撃に、地面が一瞬だけ揺れたような気がして、思わず小さな悲鳴が歯の隙間から零れ落ちた。
夢のような一瞬。あまりにも現実味がない出来事だったが、確かに感覚が残っていた。
「……この刀、とっても軽いし切れ味もいい」
まるで囁くように静かな時透さんの声にハッと我に返る。彼は細い指先を刀の刃に滑らせ、まるでその冷たさを確かめるように刀を見つめていた。どこか無邪気さを感じる年相応の表情に、先ほどとは違うときめきを覚える。
「ありがとう、大事に使う」
その言葉とともに時透さんがこちらに視線を寄越し、小さく笑った。
新月に負けないくらい淡く、静かなで綺麗な微笑み。その笑みが自分に向けられたんだと理解した瞬間、心臓が明らかに処理能力を超え、破裂寸前のように暴れ出した。
『……役に立ててよかったです』
胸の奥からひねり出したような掠れた声が、震える唇の端からこぼれ落ちた。
胸の中がドッと熱くなって、呼吸がうまくできなくなって、目が合うたびに世界が止まる。
「じゃあ僕はこれで」
そう言いながら、彼は静かにぺこりと頭を下げた。大げさな仕草は何ひとつない。その何気ない仕草があまりにもかっこよくて、くらりとした。
このまま帰ってほしくない。だけど図々しいと思われたくない。…でも、もっと喋りたい。
『あの!』
そう思った瞬間にはもう、思考よりも先に感情が爆発し、口が開いていた。
『……また、話したいです』
肺に溜まっていた空気をすべて吐き出すようにして私は叫ぶ。
呼び止めてしまった。言葉にするつもりはなかったのに気づけば声が洩れていた。
そんな言い訳を心の中で洩らしながらも、私は半ば投げやりのように言葉を紡いでいく。
『……いいですか?』
自分でも驚くほど小さくて震えた声だった。
彼の視線が一直線に私に縫い付けられ、静寂の中に微かな気配の揺らぎが生まれる。
「……うん」
ほんの一拍の間を置いて、彼はゆっくりと頷いてくれた。
そしてそのまま、刀を小屋の方に戻すと、屋敷の方へと戻っていく。
私はその背中を見つめたまま、しばらくその場を動けなかった。口元はずっとゆるんだままで、無意識に私は自分の頬に軽く触れる。
『……すき』
ぽつりとつぶやいたそんな声は誰にも拾われることなく、風に攫われていった。
斬られた木はきっと隠の方が何とかしてくれます(頑張れ後藤さん)
コメント
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だんだんと夢主ちゃんが恋する乙女みたいになってるのかわいい😻💕 ぶっとい木を後藤さんがひとりで片付けるのか...大変だね😹😹
久しぶりに作品が見れてとても嬉しいです! 次回も楽しみにしてます!