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しばらくして。
涼ちゃんの肩が、わずかに動いた。
ゆっくりと体を起こし、鍵盤から離れる。
ヘッドフォンを外し、深く息をつく。
「……」
何事もなかったように、
でも何事もなかったわけがない沈黙。
その背後で、元貴と若井は目を合わせた。
小さく、うなずき合う。
二人は音を立てないようにドアへ向かい、
そっとスタジオを出た。
――数秒後。
ドアが、いつもより少し明るい音を立てて開く。
「おはよー!」
元貴の、わざと明るい声。
「おはようございます」
若井も、少しだけ大げさに続く。
涼ちゃんは一瞬、きょとんとした顔で振り返る。
「あ……おはよ」
声は低く、まだ整っていない。
元貴は何も触れない顔で近づく。
「今日早いな。もう来てたんだ」
「うん……ちょっと」
若井は機材の方を見ながら、さりげなく言う。
「音、もう出してた?
外からは全然聞こえなかった」
「ヘッドフォンしてたから」
短いやり取り。
でも、空気は少しだけ柔らいだ。
さっきの出来事は、
なかったことにされた。
それが、
涼ちゃんにはありがたくもあり、
少しだけ苦しくもあった。
元貴はキーボードの横に立ち、軽く笑う。
「じゃ、準備しよっか」
「……うん」
涼ちゃんは椅子に座り直し、
もう一度、鍵盤に手を置く。
さっきほど強くは押さない。
でも、指先はまだ震えていた。
若井は、その小さな変化を見逃さなかった。
(大丈夫なふり、上手くなったな……)
でも、あえて言わない。
今は、
「いつも通り」が一番の逃げ道だから。
スタジオには、
また3人分の音が重なり始める。
ただし――
涼ちゃんの中の闇は、
まだ鍵盤の下に、静かに残ったままだった。