夜の帳が降りきり
街の灯も沈黙を纏ったころ──
夜気を裂くように、赤い翼が空を翔けた。
紅蓮の不死鳥
その双翼を静かに広げたアリアが
宵闇の空よりゆっくりと舞い降りてくる。
彼女の腕には時也が抱かれ
時也の腕には小さな青龍。
そして、青龍の腕には
血に濡れた白猫──
ティアナが静かに抱かれていた。
一陣の風が
砂を巻き上げるように喫茶桜の軒先を撫で
羽ばたきの余韻と共に
四つの影が地に降り立つ。
扉の上に吊るされた小さなドアベルが
かすかな音を立てた。
「アリアさん、ありがとうございます。
お疲れではありませんか?
本当ならば
僕が抱いて飛べたら良かったのですが⋯⋯」
柔らかく笑う時也の声に
アリアは無言で首を横に振った。
金の髪には泥と赤黒く血が乾き
頬も汚れてしまっている。
けれど
彼女の表情には痛みも疲労も映らず
ただ静かなまま。
「⋯⋯おかえりなさい、アリアさん」
時也はそっとアリアの手を取る。
温度のないその手を
自らの手で包むように握りしめながら
玄関の扉を開けた。
灯りの漏れるリビングには
既に三人の姿があった。
ソーレンはいつものように無愛想に腕を組み
レイチェルはふわりと微笑みながら
身を乗り出し
アラインはソファに優雅に腰を預け
薄く目を細めていた。
「みんな、おかえりなさい!
無事で良かったわ!」
レイチェルが駆け寄ろうと
足を一歩踏み出した瞬間──
空気が、変わった。
ギチ、と
何かが軋む音がしたような感覚。
それは誰の耳にも届かぬはずの
気配そのものの〝硬化〟
目に見えぬ〝それ〟が
部屋の空間を切り裂いた。
研ぎ澄まされた刃のような気配。
だが、それはあまりにも静かで
澄み切っていた。
「おい⋯⋯てめぇ⋯⋯
なにレイチェルと俺に、殺気向けてんだよ」
ソーレンが声を低く落とすと
レイチェルを背に庇うように一歩前へ出る
その言葉に時也の鳶色の瞳が
ほんの僅かに丸くなった。
「⋯⋯殺気?」
まるで、まったく身に覚えがないような
子どもが問い返すような無垢な声音。
「時也様、アリア様の御入浴の支度を⋯⋯
私は、お茶の用意をいたします」
青龍が静かに割って入ると
時也はまるで思い出したかのように
パチンと手を叩いて鳴らす。
「アリアさんを
泥と血塗れのお姿でお待たせする訳には
いきませんね。
では、支度してきます」
と、
やや小走りにバスルームへと姿を消した。
その場には一瞬
置き去りにされたような静けさが落ちる。
青龍は
丁寧にティアナの身体をタオルで包み
居住スペースに設けられた
彼女専用のケージへと向かう。
ふかふかのクッションにそっと寝かせ
その額を優しく撫でた。
「アリア様が
過去を思い出されるその御心に触れ
時也様はお前達に
無意識に嫉妬されただけだ。
気にするな」
「⋯⋯あ?嫉妬だぁ?」
ソーレンが眉を寄せ
不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「ソーレン
貴様の前世はアリア様を慕っておった。
そして、レイチェル様の前世は
アリア様の伴侶候補であったらしい」
青龍が平坦に事実だけを告げると
隣で足を組んでいたアラインが吹き出した。
「あっはっは!
それを、今世のソーレン達に
無意識に嫉妬したって?
あいかわらず、時也の愛は重すぎるねぇ?」
アラインは肘掛けに顎を乗せながら
うっとりとしたような微笑みを浮かべた。
「⋯⋯あまりにも澄んだ殺気だから
ボク、うっとりしちゃったよ!」
「⋯⋯あれで、うっとりできるのは
アラインぐらいよ。
⋯⋯はぁ、おっかなかった⋯⋯」
レイチェルは肩をすくめながらも
さっそくバスタオルを取りに行くと
一脚の椅子にそれを広げて敷いた。
「アリアさん、こちらどうぞ。
⋯⋯そのまま座ったら
椅子も床もダメになっちゃうから」
彼女の言葉に、アリアは黙って頷くと
泥と血に塗れたまま
そっと椅子に腰を落とす。
衣服は裂け、髪は乾いた血に絡まり
美しかったその姿は
戦場の亡霊のように痛々しい。
だが、誰ひとりとして
目を逸らす者はいなかった。
「でも、ほんと無事で良かったわ!
アリアさん、今
美味しいコーヒー淹れるから待っててね!」
そう言ってレイチェルはくるりと踵を返し
カウンターへと小走りに向かっていった。
彼女の背を、アリアは静かに見送る。
感情を浮かべぬその深紅の瞳に
ほんの僅か、何かが揺れたように見えた。
それが安堵だったのか
懐かしさだったのか──
この場にいた誰にも
分かることはなかった。
⸻
湯気がゆるやかに立ち上り
白い壁を這うように薄く溶けていく。
喫茶桜のバスルーム
その扉の向こうでは
時也が着物の袖を襷で纏め
アリアの入浴の支度を進めていた。
静かな夜の気配が窓の外に滲む。
光は柔らかく
洗い場には温かな照明が優しく落ちていた。
浴槽に張られた湯面は
ほんのりと霞を纏いながら
時也の手により香りを宿していく。
植物操作により右手に浮かべられたのは
その日一日を包む花々の花弁。
小さく白いジャスミンに
深紅の薔薇のひとかけ
そして一輪分だけ砕かれたライラックの薄紅
花言葉は──
「永遠の愛」「愛情」「思い出」
アリアの心に触れた直後の時也の選び方は
いつもほんの少し変わる。
彼女が語らぬ想いを
言葉の代わりに花へ込めるように。
「⋯⋯湯の温度、丁度よし」
湯温計に目をやることもない。
彼の掌に流れる水の感覚と
空気の湿り具合だけで
適温がわかるようになっていた。
髪を清めるためのオイルは
アリアが気に入っていた
白檀と藤の香を調合したもの。
身体を洗う石鹸は
肌に刺激のないミルク由来。
香りは控えめだが、清潔な余韻を残すよう
熱で拡がりすぎぬよう細工が施されている。
椅子は少し低め。
彼女を傷つけないため
手の届く位置で支えられる高さに
調整されていた。
タオルはふかふかの上質な綿。
その全てが、彼の手で整えられている。
誰かに任せることなど、一度もなかった。
アリアを〝洗う〟という行為は
清めであり、崇拝であり、祈りだった。
彼女の体に触れることは
たった一つ許された──
〝奉仕〟であり〝贖罪〟にも似ていた。
彼女が絶望して良かったという気持ちの──
時也の鳶色の瞳が、僅かに翳る。
「⋯⋯問題は、信仰の魔女⋯⋯か」
時也は
湯面に浮かんだ花弁を一枚指先で摘む。
小さなそれを、掌の中央に乗せ
じっと見つめた。
(信仰の魔女⋯⋯
その存在の不在が
不死鳥に魔女狩りを行わせた動機でしたか)
思考の声は
誰にも聞かれぬ静寂の中に沈む。
アリアの沈黙の回想──
読心術が拾った、その深奥の記憶が
時也の中で形を成していた。
(その魔女の転生者が
今世はちゃんと現れているからこその
不死鳥の焦り⋯⋯
ならば、早く見つけて
保護しなければなりませんね)
水面に、わずかに花弁が触れる。
その瞬間、時也の瞳が細められた。
(信仰の魔女が誰であるのか⋯⋯
何処にいるのか
女か、男かもわからない⋯⋯
だが、その存在は必要です)
アリアのために。
この世界の〝彼女〟の苦しみが
終わる未来のために。
時也は静かに立ち上がると
籐の籠から白い薄布を取り出し
浴槽の縁に丁寧に掛ける。
まるで、神聖な器を扱うかのように
ひとつひとつの動作に無駄がなかった。
そして
浴室の準備がすべて整ったことを確かめると
ひとつ深く息を吐き、顔を上げた。
「⋯⋯アリアさん、お待たせいたしました
お湯の準備が整いましたよ!」
その声音には
信仰と、献身と、絶対の覚悟が
静かに宿っていた。
時也の袖から
ひとつの花が湯に落ちた。
黒い薔薇だった──⋯
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