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青龍の小さな手が
そっとアリアの指を引いた。
その掌には
年若き姿に宿るはずのない確固たる威厳と
ひとを護るためにだけ存在する
温もりがあった。
「アリア様、湯が整っております。
お身体を清め、ゆっくり労わるべきかと」
アリアは無言のまま頷き
青龍の導きに従って歩を進める。
泥と血に塗れた白衣が
廊下を歩くたびに重たく貼り付いていた。
破れた裾から覗く脚には
まだ乾ききらぬ血がこびりつき
髪もまた、鉄錆の匂いを含んで
艶を失っている。
浴室の扉を開けると、柔らかな湯気とともに
ほのかに花の香が舞い込んだ。
そこに時也がいた。
襷で袖を纏め、神事のように静かな所作で
彼女を迎える。
「アリアさん⋯⋯失礼しますね」
その目は、どこまでも真摯だった。
言葉にするよりも先に
時也は膝を折り
彼女の汚れた衣を解いてゆく。
白衣は滑るように床に落ち
赤と黒に染まった肌が露わになる。
肌にこびりついた泥と血の跡を
時也は手桶の湯で丁寧に洗い流しはじめた。
指先に一切の戸惑いはない。
ただ、敬虔な祈りを込めるように
静かに、優しく。
脚、腕、背、首筋。
幾度となく
傷を負ってきたその肌を撫でるたび
時也の瞳には苦しげな色が宿る。
けれど、決して口に出すことはなかった。
「⋯⋯お湯、参りますね」
時也はアリアの腰を支え
ゆっくりと浴槽へと導いた。
静かに身体を湯に沈めると
花々の香が立ち昇る。
浮かんでいたのは、色鮮やかな花弁。
それぞれが柔らかに水面に漂い
湯気に香を添えていた。
「⋯⋯温かい」
アリアがぽつりと呟く。
その言葉に、時也はほんの僅か微笑んだ。
だが、次の瞬間──
アリアの指が、ある一点で止まった。
彼女は湯に手を差し入れ
花を掬い上げるように掌に乗せた。
そこにあったのは、深く、漆黒の薔薇。
その色は夜の闇のようであり
まるで血に染まった呪詛そのものだった。
アリアの視線が、それに釘付けになる。
湯気に濡れた唇から、静かに言葉が漏れた。
「⋯⋯呪い⋯⋯憎しみ⋯⋯か⋯⋯」
その声音に、時也の心臓が
一瞬止まるような錯覚を覚えた。
視線が彼女の泡立つ髪から
掬い上げられた掌の黒薔薇へと走る。
「ち、違います、アリアさん⋯⋯っ!」
焦るように声を上げた。
自身の手から生まれたはずの花の意図を
否定するかのように。
「今日の湯に⋯⋯
それを入れた心算はなかったのですが⋯⋯
僕がアリアさんに
そのような言葉を伝えることは
決してありませんから⋯⋯っ!」
震えるような語気に
アリアはわずかに湯の中で首を巡らせた。
その深紅の瞳が、静かに彼を見据える。
「⋯⋯なら、お前は⋯⋯
何を想って、この花を生み出した?」
時也は返せなかった。
否定するには
あまりに心当たりがありすぎた。
口を閉ざしたまま、俯いたその瞬間──
アリアは、ふと黒薔薇を湯に戻し
再び視線を彼に据えた。
「⋯⋯あなたは、あくまで⋯⋯私のもの⋯⋯
黒薔薇の、花言葉の一つ⋯⋯です」
その言葉に、時也の喉が音もなく震えた。
「⋯⋯ならば、間違ってはいない。
私は⋯⋯お前のものなのだから」
まっすぐに差し出されたその言葉。
あまりにも真っ直ぐで、純粋で
だからこそ、時也の胸を締め付けた。
次の瞬間だった。
アリアの手が時也の腕を掴んだ。
え⋯⋯と声にならぬ声を漏らす間もなく
その腕に力が籠り──
次の瞬間には
彼の首に両腕が絡まれていた。
「アリアさ──」
その続きを言う暇すら与えず
彼女は体重を預けて浴槽に引き込んだ。
水飛沫が勢いよく跳ね上がり
静かな浴室に水音が満ちる。
時也の身体が湯に沈み
彼の着物が水中で揺らめいた。
だが、アリアは離さなかった。
その首に絡めた腕は、まるで絞めるように
けれど愛おしげに彼を抱きしめ続けていた。
その胸に顔を埋め
濡れた睫毛を震わせながら
彼女は、確かに言った。
「そして⋯⋯お前も、私のものだ」
湯の中で、静かに沈む花々が
香りを強めるように揺れていた。
その中心に、黒薔薇はひとつ──
凛として、咲いていた。
「はい⋯⋯!
僕は、貴女のものです⋯⋯永遠に」
その言葉は、水に溶ける祈りのように
穏やかに、確かに空間へと沁み渡った。
浴槽に揺れる水面。
その静寂を破ったのは、アリアの指だった。
濡れた着物の襟に手をかけ
ゆっくりと時也の身体を引き寄せる。
彼女の動きは迷いなく
意志に満ちていた。
その深紅の瞳は一切の揺らぎを見せず
まるで〝それが当然である〟かのように
まっすぐに彼を見つめていた。
時也は応えるように、湯の中で腕を動かし
アリアの肩をそっと抱き寄せる。
掌が、彼女の濡れた背を伝い
沈まぬように支える。
そして──瞳を閉じた。
静かに、唇が重なる。
最初はただ、確かめるような
触れるだけの接吻。
けれど、それはやがて熱を帯び
押し付け合うように
分け合うように深まっていく。
水音が小さく跳ねた。
唇が離れ、また重なり
吐息が混じり、肌が近付く。
その瞬間だった。
時也の〝想い〟が、空間を変えた。
植物操作の力に反応し
バスルームの空気が微かに震えた。
そして、湯面が揺れた。
ひとひら、またひとひら──
黒い薔薇の花弁が、空間に舞い落ちてきた。
ひとつ、ふたつ──
無数の花弁が、天から降るように舞い
湯面を、そして床を黒く染めていく。
闇に似た深い色合いのそれは
不吉ではなく
ただひたすらに艶やかで
荘厳ですらあった。
湯の中で、互いの呼吸が深くなり
身体が引き寄せられる。
指が肌を辿り
鼓動を確かめるように重なっていく。
──だが。
「時也さん、ティアナが目覚めたから
青龍の代わりに連れて来──⋯」
不意に開いた扉の向こうから
レイチェルの明るい声が響いた。
だが、数歩踏み出したその場で
彼女の動きが固まる。
そして──
目が合った。
レイチェルの瞳と
時也の瞳がぴたりと交差する。
浴槽の中、アリアを抱いたまま
時也は動けなかった。
表情も、言葉も、思考すらも
刹那止まった。
ただ、見開かれた瞳が
状況を必死に受け止めようとするばかり。
沈黙の中、唯一動いたのは──
レイチェルの腕に抱かれたままの
血塗れの白猫。
ティアナの尾が、ぴんと持ち上がり
ゆらりと揺れた。
「お、おと、お取り込み中
ごめんなさーーーい!!
ティアナ置いてくねーーーっっっ!!」
叫ぶようなレイチェルの声が浴室に跳ね返り
空気が一気に崩れた。
そのまま彼女は足音を響かせて
廊下の奥へと姿を消していった。
バタン、という扉の閉じる音。
そして、再び──静寂。
黒薔薇が舞う浴槽の中
アリアはまったく動じていなかった。
その腕はなおも時也の首を離さず
視線すら逸らさぬまま
再び彼の額に顔を寄せた。
変わらぬ無表情。
けれどその瞳だけが、どこまでも穏やかに
柔らかに、時也を見つめていた。
「⋯⋯アリアさん⋯⋯」
呟いた時也の声は
どこか脱力した安堵を含んでいた。
濡れた前髪をかき上げると
小さく笑い、肩を震わせる。
「ふふ。
これは後で、お詫びの特製スイーツを
用意しなくてはなりませんね⋯⋯」
アリアはその言葉にも
変わらず無言だった。
けれど、それが〝赦し〟であることは
時也にはわかっていた。
彼は再び顔を傾け
アリアの唇に、そっと口づける。
熱と水音と、香りに包まれた空間。
──そして。
「⋯⋯にゃっ⋯⋯」
浴室内に置いていかれ
そっぽを向くようにティアナが背を向けた。
その尾が、まるで
「見てられない」と言いたげに
ゆっくりと床を一度叩いた。
静かな吐息と
湯に揺れる黒薔薇の音だけが
再び満ちる夜のバスルームに
優しく響いていた。