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幅は広く流れは緩やかで水の清らかなロロコ河に沿って、関門の街は横たわっている。波間は語り掛けてくるように冬の太陽に煌めき、岸辺にはロロコを母とする白鳥が優雅に舞うように群れなしている。祭日の楽器隊の如く規律正しく水辺の葦が風にそよぎ、幽寂なる街には神聖さに唾吐く者たちだけが嗅ぐことのできる血の臭いがひそやかに漂っている。まだ寛容ではない信仰が霊峰の麓を支配していた時代、巡礼者の行き交うロロコ河の関所を中心に築かれた古雅な都だ。関所が解かれた今でもなお交易の要衝地としてますます発展している。しかしここのところ街を覆い尽くしているべき賑やかさは鳴りを潜めている。
大陸の東西から流れ流れてやってきた名品珍品が所狭しと押し並ぶ商店街を一人の男、フォーロックが颯爽と行く。最も壮んな年の頃、眉目に優れるも近寄りがたい眼力と風体で、他者の助けを必要としていない風情だ。元は浅葱色だった褪せた外衣によく手入れのされた抜き身の剣を帯びており、裾から垣間見える右腕の半ばから先は武骨な二本指の義手を装着している。
フォーロックは何かを探すように辺りに視線を投げかけながら、迷いないかのように堂々と歩いている。名高い街の昼間の商店街にしては、人通りが少ないことに気づく。店番はしっかりと商品を見張っているし、客がいないわけでもないが、何か悪い噂でもしているかのように警戒感を露わにして声を潜めていた。フォーロックは向かいから歩いてきた男に話しかける。
「すまない。聞きたいことがあるのだが、よろしいか。シャイズという女について噂を聞いてきたんだが何か知らないだろうか?」
男はどうやら昼間から酔っているらしく、熟した林檎のような赤ら顔で安い酒の臭いを振りまいている。
「シャイズだぁ? 噂なら俺も聞いたぜぇ。どんな男も骨抜きにしちまうんだってよお」男はフォーロックの義手を見て噴き出し、無遠慮に掴み上げる。「なんだ。あんたは腕を引っこ抜かれたってわけかい?」
フォーロックは無言で酔っ払いの腕を振りほどき、その簡素な施錠機構のついた指で酔漢の鼻を摘まむ。
「話す気が無いなら失せろ」
男はぎゃっと小さな悲鳴をあげて路地裏に足早に立ち去った。
気を取り直すも気が付くと、通りにいる者たちがあからさまにフォーロックに疑念の視線を向けている。それ以外の者は目をそらし、あるいは建物の奥へ避難している。少し手荒かったか、とフォーロックは反省した。この街に相応しい振舞いというものをまだ分かっていなかった。
「貴方! その右腕はどうしたの!?」
突如甲高い女の声に背後から呼びかけられ、振り返ると緋と黄の派手な頭巾を目深にかぶり、宝物こと見紛う色鮮やかな衣装に身を包んだ女だった。華奢な腕は長い袖と手袋に隠され、足元まで覆う輪郭のすっきりした裾から品の良い長靴の爪先が覗いている。
「随分前に失った腕だが、それがどうかしたのか?」フォーロックは答え、探るように問いかけた。
「シャイズにやられたの?」
フォーロックは驚きのあまり女につかみかかろうとし、寸前で堪える。
「シャイズを知っているのか!? どこにいるのかは分かるか!?」
「待って」
女が気を引かれた背後を振り返ると手に手に槍を握る衛兵らしき者たちがやって来るのが見えた。関所の時代から伝統と熱意を引き継ぐ精鋭たちだ。
「面倒なことになりたくないならついてきて」
女を追って路地裏へと逃げ込む。古い建物と新しい建物が混在し、路地は複雑に曲がりくねっていて、追っ手の視線を容易に遮るだろう。しかし女の方は長靴の中に足甲でも履いているのか、軍隊の行進の如く煩い音を立てていた。衛兵たちを撒くのに苦労したのはこの音のせいだ。
ようやく衛兵たちを振りまいて街はずれまで逃げ、息を整えつつ、しかし歩みを止めずに話す。
「ねえ、貴方、強いんでしょ?」女が馴れ馴れしくフォーロックの左腕に腕を絡めて訊く。「酔っ払いをあしらう姿に惚れちゃった。それに右腕が義手。ミーたちきっと相性ぴったりね」
フォーロックの左腕にまとわりつく女の右腕の感触も鋼のように硬かった。お揃いだとでも言いたいのだろうか。妙な女の調子に呑み込まれる前にフォーロックは話を戻す。
「それよりシャイズについて聞かせてくれ。何を知っている?」
「ミーの前で他の女の話をしないで」
フォーロックは憤りを抑えつつ、苛立ち紛れに女の腕を振りほどく。
「面倒事から助けてくれたのは感謝するがシャイズを知らないなら用はない。他を当たってくれ」
「ミーには用がある」と女は頑なに返す「そのためにシャイズの犠牲者を探してたんだから。そして見つけた。一目惚れってやつね。きっと運命だわ。他にはいない。貴方しかいない」
フォーロックは女の頭巾の陰を睨みつける。仮面でもつけているのか、口元の凹凸すらはっきり見えない。妙な女だが何かを知っているのは確かだ。たとえ詐欺か何かだとしても尻尾もつかまずいきなり切り捨てるわけにはいかない。
フォーロックは女の流儀を見極めるかのように言葉を選ぶ。
「シャイズの犠牲者? 奴はここで何をやっている?」
女の視線を義手に感じる。
「それはシャイズに奪われたんじゃないの?」
「違う。別件だ」
「ふうん。なるほどね」女は話す気になったらしいのでフォーロックは辛抱強く待つ。「神出鬼没の人斬りシャイズ。もう何人もの手練れがやられてる。名高い剣士もいればシャイズの弟子を名乗る者もいた。生き残っている者もいるけれど大概が腕か足を失ってる。それ以外は首か胴。で、だから噂が広まってしまったんだ。とんでもなく強い剣士の悪党がいるってね。それがますます腕自慢を呼び寄せて、犠牲者を積み重ねることになった。この街としては迷惑千万なわけだけど、ミーは利用させてもらってる。ミーにぴったりな、右腕を失った男探しをね」
女の事情は意味不明だがシャイズのことはよく分かった。
フォーロックの師匠斬る者はある日突然姿を消した。理由も何も分からぬまま今日まで探し続けてきたがようやく理解した。極悪人に札である本体を奪われ、その力を人斬りに使われているということだ。
「そうか。ありがとう。助かったよ」
立ち去ろうとするフォーロックを女は引き留める。「待ってよ。教えたら婿になってくれる約束でしょ」
女の冗談とも思えない声色のせいでフォーロックは及び腰で否定する。「そんな約束してないだろ」
「そんなにシャイズって女が良いんだね」
ひらひらと舞い遊ぶ蝶のような話題の転換にフォーロックは苛立ちを隠さないながらも淡々と返す。
「シャイズは私の師匠だ。詳しく話すと長くなるがその力を何者かに利用されている。弟子の私が助けなくてはならない」
「利用されてるって何でわかるのさ。力を貸しているのかもしれないよ。惚れた男にさ。ミーなら貴方に力を貸してあげるけど。そのぼろっちい義手で剣が振れるの?」
「お前みたいな女と一緒にするな。大体どう力を貸すんだ? お前にも剣術の心得があるのか?」
女が呪文を唱え始めると同時にフォーロックは剣を抜き放ち、その舌を切り裂こうと研ぎ澄ました刃を振るう。しかしフォーロックの剣は女の顔に弾かれ、女の魔術は成った。
一瞬の内にフォーロックの一張羅がぴかぴかの鎧に変じていた。
そしてフォーロックの剣が切り裂いた女の頭巾が垂れ下がり、その姿が露わになる。その体は鋼で出来ていた。
フォーロックは絶句し、しかし慌てて口を開く。「お前、札が本体だったりするのか?」
「どうして分かったの? 運命?」と女は鋼の瞳を煌めかせる。「そうだよ。鋼の義手に組み込まれてる」
まさか他にもいるとは思っていなかった。フォーロックどころかシャイズ自身にもその存在の由来が不明だったのだ。
「シャイズも同じなんだ」
女は恐ろしい形相で舌打ちしたかと思うと呪文を唱えた。するとフォーロックの視界が塞がれ、その右腕に激烈な痛みが走り、意識が吹き飛ぶ。
フォーロックが意識を取り戻すと、羽虫の如く耳障りな女の声が耳元で謝罪の言葉を繰り返していた。使われていない倉庫のような薄汚い小部屋だ。僅かな家具に生活感がある。フォーロックは寝台に寝かされていた。
痛みに耐えかね呻きつつ上体を起こす。腕を奪われたこと、気を失ったこと、何より己の未熟さに腹が立つ。あるいは師匠に見切りをつけられたのかもしれない、という心の奥底に封じていた疑念が再び浮上してくる。
「ごめんなさい! 義手が肘から先までとは思わなくて! ミーは肩に取り付ける義手だから」
肘まではあった右腕が肩から先までをも失った。止血されてはいるが医者の技ではない稚拙な応急手当だ。
「そもそもなぜ食い千切った」
「シャイズもミーと同じ義手だって言うから」
「言ってない。シャイズもお前と同じ札を本体とする魔性だと言いたかったんだ」床に折れ曲がった義手が転がっていることに気づく。「だいたい、だからといってなぜ義手を奪おうとした」
「妬ましくて」
フォーロックは凪の水面を思い浮かべ、心の静けさを呼び戻す。己に無関係な話をし、心を波立たせる風を鎮める。
「どうでもいいが、本体は札なんだろう? なぜ札が貼っているだけの義手にこだわる」
「人間だって同じでしょう?」
何かに喩えようとしているらしい。フォーロックは相槌を打つ。
「そうか?」
「魂が変わらないなら肉体を乗り捨てられる?」
フォーロックは少しだけ問いに興味を持ち、考える。せっかく鍛え上げた肉体を捨てるのは惜しいが、欠損のない肉体を得られるならば迷うところだ。また鍛え直すならば若さも重要だ。
「乗り捨てられないこともない。が、誰かの腕の代わりになろうなんて思うことはないな」
「それがシャイズであっても?」
「当たり前だ」フォーロックは痛みを吐き出すように溜息をつく。「お前、名は?」
「着る者。ミーって私は呼んでる」
「そうか。ミーハか。着る者? いったいそんな力でどうやって私の腕を奪ったんだ?」
ミーハが恥ずかしげに視線を逸らす。そのような感情があるとは思わなかった。
「本性というか、本来の姿というか、知ってる? それが、まあ、結構鋭利な牙を持ってる」
「ああ、そういえばシャイズも変身できたな。一本角の無毛の獣になったが、剣を握るのには向かなかった。お前もあんな感じか」
「違うよ!」とミーハは声を荒げるがすぐに小さな声に戻る。「……そんなの知ろうとしなくていいから」
「別に無理に知ろうとは思わないさ。さて……」フォーロックは寝台から降り、存在しない右腕の具合を確かめるように肩を回す。「お前のせいで世話になったが、感謝はしていない。だが恨みもしない。晴らす方法がないからだ。そしてこれ以上世話になるつもりもない。どうしてか分かるか?」
「あの女の所に行くのね?」と呟くミーハは恨みがましく睨めつける。
「妙な言い方をするな。だがそうだ。助けなくちゃならない」
今度は疑わしげな見透かすような眼差しを投げかけられる。
「本当に恋人じゃないの?」
「そうだと言ってるだろう。師匠だ。恩人なんだ」
「じゃあミーのこと紹介できるよね?」
「私の右腕の仇だって言えばいいのか?」
久しぶりに浮かべた笑みは皮肉そのものだ。しかしミーハはまるで何の罪も知らないかのように純然たる疑問の表情を浮かべている。
「どうしてミーのこと袖にするの?」
「どうして分からないのかが知りたいよ。いや、知りたくないな」
フォーロックは別れの挨拶もせず、小部屋の扉を出る。が、ミーハも当たり前のようについてくる。
どこかの共同住宅の一室だったらしい。天井には蜘蛛の巣が張っており、全体的にくすんでいる。底冷えする廊下を通り抜け、月光の差す夜に出る。歪な路地に並ぶ窓、漏れる明かり、少しばかり湿気た空気にはやはり血が混じっている。
シャイズを探すか、あるいは剣を見せびらかして歩けば人斬りの方からやってくるだろうか。
「ねえ、勝てっこないよ。ミーと同じってことはミーがあらゆる服に着替えられるみたいにあらゆる剣を……、こう、なんやかんやするんでしょ? そうして人斬りしてるんでしょ? 片腕でどうするの?」
いつまでついてくるつもりなのか問いたかったが、いつまでついてくるつもりなのか聞きたくなかった。
「元々あんな義手は剣の支えにもならなかったよ。大して変わらん」
「一つ提案があるんだけど」
フォーロックは振り返り、ミーハを一本しかない人差し指で指さす。
「お前が右腕になるってか?」
「どうして分かったの? 運命?」とミーハは鋼の瞳を輝かせる。
「とにかく御免だ。これ以上食い千切られたくないんでな」
「そんなこと――」
ミーハの視線を追う。人影が通りの向こうから月を背後に背負ってやってくる。距離を隔てながらも一分の隙一つもない歩みだ。剣士の理想の歩みを体現している。
「やあ、聞き覚えのある声かと思えばフォーロック君じゃないか。久しいね」
その声は間違いなく、師匠シャイズだった。そしてその体は当時と変わらない。若かりしフォーロックが難しい冒険と試練の果てに手に入れた不死刑囚の体だった。赤金色の蓬髪に体躯の雄偉な男が娥娥たる笑みを浮かべる様は忘れえない。
つまりシャイズは何者にも札を奪われていなかったということだ。これ見よがしに、剣を構える犀の描かれた札が心臓の辺りに貼られている。自信の表れだ。対峙する剣士に対して公平なつもりなのだ。人斬りシャイズとはシャイズ本人だったのだ。
「師匠。一体何をなさっているのですか? どうして私を置いていったのですか? 人斬りなどするならばまず私を斬り捨てるのが筋でしょう」
妖美なる月影の下、シャイズは高らかに笑う。
「あたしがいつ君に弱い者虐めなんて教えた? 虐めるなら強者だよ。強者を斬ってこそあたしは満たされるはずなんだ。だがどいつもこいつも煮過ぎた粥みたいに歯応えがなかった。だから弟子を鍛えた。君だけじゃないよね。何人も何人も鍛え上げた。熟した果実をもぎ取るように、いつかあたしが斬るためにね」
「そんなことのためにその体を見つけ出したんじゃない」
「知ってるよ。だから約束は違えてないよね。君は私の知る剣術を全て身に着けた。君はそれで満足かもしれないけどね。あたしからすれば、隻腕じゃあね。落ちた果実は土に還るに任せるものだよ」
フォーロックは月光に浮かび上がる剣を抜く。
「ねえ、フォー君」
「誰がフォー君だ」
ミーハがフォーロックの右肩に縋る。
「フォー君に死んでほしくないんだよ」
「どのみち人斬りなど見過ごせない。ここで勝つか死ぬかだ」
「じゃあせめてミーを使ってよ。邪魔しないで大人しくしてるから。盾くらいにはなるでしょ?」
フォーロックは未だ剣を抜かず薄ら笑いを浮かべるシャイズを睨みつけて頷く。
するとミーハは鋼の義手へと変わり、フォーロックの右腕に装着された。元の腕のようにぴったりだが、鋼の重さは全身に偏りを生む。常人ならばむしろ邪魔になるが、フォーロックは既に義手での戦い方を身に着けている。
「柄を握ってくれるだけでいい」
「初めての共同作業だね」
「最後の共闘だ」
フォーロックはミーハと共にしかと剣を握りしめ、『輪軸』の構えを取る。『静止』の内に剣術の極意を磨き上げ、異端を正統とした剣士ヴィンドールの先駆的魔術だ。かの魔術を見くびった魔術師は地に臥すこととなり、口を閉ざされることを恐れていた魔術師に新たな地平を指し示した。錆びついた因習に安座していた剣士は己の業が旧弊となることを恐れ、功名に焦る剣士は我が物にせんと憑りつかれた。
フォーロックの全身が作り直されたかのような一新される感覚を得、待ち構えるシャイズに突っ込む。鋼の義手の生む全身の偏りさえも戦いの力へと転換し、次の瞬間には倒れそうな勢いと共に流星の如き切っ先を繰り出す。しかしシャイズは軽やかに刺突をかわし、避けざまに抜刀、フォーロックの胴目掛け振りぬく。が、シャイズの弟子は勢いを殺すことなく跳躍し、師の剣を飛び越える。石畳の上でミーハの義手の激しく打つ音と共に前転し、振り向いた頃には襲い掛かる不可避の二の太刀をすんでのところで弾いて逃れる。
束の間。『滑車』の構え。全身の節が魔術を汲む剣術を介して神秘へと接続する。
フォーロックは全身で跳躍し、家屋の壁から壁へと危なげなく飛び移り、空中からの連撃を繰り返す。さりとてただの一撃もシャイズの肌を掠めることすらできない。まるで舞い散る木の葉を捕まえようとする掌の起こす風が邪魔する時のようにひらりひらりとかわされ、とうとうフォーロックの内に無力感が蟠った瞬間を見計らったようにシャイズは剣を一閃。フォーロックの左足の膝から下が宙に弧を描く。
路地に転がり、血を撒き散らし、痛みに呻くフォーロックを見下ろして、シャイズが溜息をつく。
「ああ、つまらないつまらない。もしやと思ったが期待外れだよ。ここまでつまらないとは思わなかった。剣技はどれも光を失い、身のこなしすら凡夫以下。もうあたしの弟子を名乗るのはやめてくれ。破門だ破門」
その侮蔑の合間にミーハの着る魔術が左足を何重にも覆い、止血を施し、義足まで用意される。
そのざまをシャイズはさらに嘲笑う。「誰だか知らないけど右腕の君も相棒は選んだ方が良い。それとも弟子かな?」
「黙れこのくそ女!」と義手が勝手に怒鳴る。「フォー君はあんたみたいな阿婆擦れさえ助けようとしてたんだよ! いや、違う! 今だって助けようとしてるんだ!」
シャイズは驚いた様子でミーハの義手を見つめて問う。「助ける? あたしを? 一体何から?」
「お前に巣食う悪意からだよ! ミーたちは殺せやしないんだから、悪党なら改心させるしかないんだから、助けるしかないんだ! そのために戦ってるんだ!」
「良いんだ、ミーハ。私の力不足は事実だ。破門……。そうか、破門か」とフォーロックは絞り出すように呟き、さすがに慣れぬ義足で何とか立ち上がる。
「こんな奴のこと――」
「なら、もう剣技にこだわる必要はないな」フォーロックは陽だまりのように明るい声でミーハに乞う。「助けてくれないか? ミーハ。確実に奴を倒したい。手段はもう選ばない」
「分かった。分かったけど、その、えっと……」とミーハが言い淀む。
「何でも言ってくれ。ミーハに合わせる」
「ミ、ミーのこと嫌いにならないでね」
「ならない」
次の瞬間、鋼の義手が鋼の蛇へと変じる。三つの頭に、槍の舌、瞳には星の光が宿っている。ミーハはその体をフォーロックに巻きつけ、変わらず右腕の代わりに肩から伸びる。
シャイズは鼻を鳴らして告げる。「剣士以外を相手にするのは久々だよ」
片手で剣を握るフォーロックはミーハの魔術で鎧に包まれる。フォーロックとミーハの鬨の声が月光に共鳴するように響き渡る。
振り上げるとともにシャイズに襲い掛かる剣はやはり容易く弾かれる。フォーロックが二手目を講ずるより早くシャイズの反撃が迫り来る、はずだった。しかし瞬きの内にシャイズの体は窮屈な礼服によって拘束され、ほんの僅かに鈍った剣筋はフォーロックに弾かれる。
次々に身を包む衣服を斬り裂きながらにも拘らずシャイズの剣は徐々に慣れ、速さを取り戻してゆく。とうとう、そして再びフォーロックの剣速を追い越した一撃が、ミーハの生み出した鎧を斬る。が、不死刑囚の甚大な膂力を以てしても刃はフォーロックの肌に届かなかった。ミーハは鎧さえも二重三重に着せ、刃を押し留めたのだった。無論その瞬間ばかりはフォーロック自身も動けなくなるが、脱衣することもまた魔術が容易に成し遂げる。
シャイズの舌打ちが路地裏に響く。それもまた僅かな隙だ。フォーロックの返す刃の行く先はシャイズが深くかぶった頭巾によって覆い隠され、月光に映える切っ先が不死刑囚の剣を握る右腕を引き裂く。が、シャイズは剣を左手に持ち替えて引き下がる。それはシャイズと何度も剣を交えた数々の勝負の中で初めてのことだった。そして目の前に現れた勝機をフォーロックは掴み取る。
『蛇腹』の構え。それは『斬る者』に師事し、『着る者』と手を携えたフォーロックが『可変』の粋に見えた新たな剣技の魔術だった。誰も知りえぬその魔術にフォーロックが触れた瞬間、ただ一人、『斬る者』だけが時空を超えて知らされた。否応なく流し込まれる情報の奔流にシャイズの魂は麻痺し、誇りを曲げてまで後退して得た距離が埋められる。
それでも放たれるシャイズの音をも貫く鮮烈な一突きをフォーロックは首で撫でるようにかわし、己が剣を師の胸に貼られた札に突き刺し、押し通し、背中から曝け出す。
フォーロックの剣の切っ先で血に濡れたシャイズの札が月光に照らされた。
不死刑囚の重い体にのしかかられ、一気に襲い掛かる疲労感でフォーロックは抵抗できずに血溜まりに倒れる。
「やったね! フォー君!」
「……ああ」
フォーロックの気のない返事に、ミーハは人の形をとって顔を覗き込む。
「どうかしたの? こいつはもう動けないはずだよね?」ミーハは剣の先の札と動かなくなった不死刑囚とフォーロックを見比べる。
シャイズも『蛇腹』の構えを取れば、もしくは『斬る者』としての真の姿に変じれば相打ちには持ち込めたかもしれない。
「結局最後までシャイズは斬る魔術を使わなかったんだ」
それは矜持か誇りか、それとも思い上がりか執着か。
ミーハは難問に立ち向かうように顔を顰め、首を傾げる。
「それで? フォー君が勝ったの? 負けたの?」
ミーハの単純明快な問いにフォーロックは苦笑する。
「私たちの勝ちだ」
これほど眠ったのは久々のことだった。フォーロックはミーハの下宿の小部屋で目を覚まし、重い体を何とか起こして寝台を出る。鋼の体で添い寝をしていた者がいたせいかどうにも体が軋んでいた。
旅立つ準備は疲れ知らずのミーハが昨夜の内に用意してくれていた。小さな机の上には掌大の包みが置いてある。表側に膠を塗って板に張り付けたシャイズの札を何にも触れないように布で包んだものだ。これまたミーハが指示通りにやってくれた。フォーロックは伸びを一つしてから包みを懐に仕舞い込む。
いつの間にか起き上がって、寝台に座ってその様子を眺めていたミーハが問う。「昔の女を持ち歩くの?」
「捨てるわけにもいかないし、誰かに任せるあてもない。それを見つける旅をするつもりだよ」
「やっぱり昔の女なんだ」
扉に手をかけたフォーロックは溜息をつき、目線を反らす。
「だから、まあ、今の女ではないということだ」
「はあ、そりゃそうだね」とミーハも溜息をつく。
「急に飲み込みが悪くなったな」扉の取っ手に手をかけたところでミーハがまだ寝台に座っていることに気づく。「ミーはついてきてくれないのか?」
ミーハは鋼の顔に満面の笑みを浮かべてフォーロックに飛びついた。