正門を出て牛丼屋の角を曲がると、風が吹いた。健太はほずれた襟巻を巻きなおす。隣を歩く美緒の、コート襟際の頬は赤い。
「お父さん言ってたよ、先生は実は綺麗だって。口紅つけるだけでそうとう違うって」と美緒がいうと、僕もそう思う。髪型だってと健太は続けた。
「でもそれ大人が言うと、セクハラで逮捕されるんだって」と美緒はいう。
授業で習った、指定セクハラ語の数々。ハニー。ダーリン。キュート。ブス。ドブス。魅力的。かわいい。美人。女っぽい。男っぽい。スレンダー。ふっくら。ボン・キュッ・ボン。ズンドウ。プロポーションいい・悪い。色黒。色白。嫁いけない。これらに加えて、来年から「あらゆる性差別表現」が「セクハラ語」に加わった。
「あらゆる」がどこまで指すのかは、専門家でなければ分からない。父の会社の弁護士などは今から「性差別表現辞典」を開いて、細かな字をボールペンの先で追いながら、反対の手で頭を抱えている。
「ところでさ。みんなが面白がっても、先生に向かって二度とあんな質問しちゃダメだよ。内申下げられたらどうするつもり?」と美緒が妙に真剣な顔をして言う。受験はしないかもしれないと健太が告げると、「今時そんな人いないよ。ヘンなの」と彼女は言った。
美緒の鞄が新しいことに、健太は気付いた。渋茶色で前のよりも大きく、取っ手が皮でできている。先週末に買ってもらったのだという。
「美緒ちゃんは確か、赤が好きだったよね」
「でもお母さんがこれにしろって」
区の公立小学校で赤い鞄が全面使用禁止になるのは、健太達が中学生に上がる再来年度からの話だ。赤が女性色で黒が男性色だと決め付けるのは性差別を生む温床になっているというのが、大人達の理屈だった。それは、健太にとってはどうでもいい話だったし、美緒にだってたぶん同じだろう。ただ、美緒の鞄の色が変わったことで、なんとなく街並みが殺風景になった気がした。
両側に立ち並ぶコンクリートむき出しの家、枯葉舞う木々、アスファルトの舗装路、再び曇りだしたなまり色の空。健太には美緒までが、そんな風景に溶け込んでいってしまった気がしてならない。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!