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ユカリはじりじりと蝋燭の灯で炙られるような焦燥感に急き立てられて目が覚める。悪夢でも見たのだろうか。しかし嵐の過ぎた明くる朝の海のように何も覚えがない。
結局パジオには再会できず、ユカリ、ソラマリア、自称ラミスカは歪な砦の端の方、天井はあるが壁に囲まれてはいない一角で野宿することになった。時折、巡邏が来て、胡散臭そうな眼差しを向けてくるが致しかないと諦める。興味を抱かれるのもむべなるかな、自称ラミスカの熾した焚火がクヴラフワの外の真南の太陽のように白い光を放つのだから。
藻に覆われた池のような暗くならない空の下、新カードロアに住む人々は示し合わせたように――実際に示し合わせているのかもしれない――寝静まった。
ユカリたちは三交代で見張りに立つことに決め、今はソラマリアが実際に立って、元々静かだったがさらに静まり返ったカードロアの道、あるいは通路に目を光らせている。とは言っても衛兵や監視者の他に人目は一切ない。元々人通りの少ない場所だ。
ユカリは毛布に包まったまま身を起こし、存在しない心臓の辺りに手を当てる。目覚める直前、恐ろしい存在を目の当たりにしたかのように心臓が高鳴った、気がした。今は行き倒れの屍のように静かだ。もう一度辺りを見渡して、ソラマリアが背を向けていて、自称ラミスカが寝入っていることを確認して、胸に抱える虚空を曝け出し、非存在の感触を確かめる。特に変化はない、ように見える。あいかわらず空っぽだ。まるでそれが当たり前であるかのように、つるりとした皮膚が断面を覆っている。
ユカリ自身にも何を期待していたのかは分からない。元に戻っているかもしれない、とは思っていなかった。心臓がない状態はあまりにも非現実的で、魔法少女に変身する現実の方がまだ確かなことのように思えた。
魔法少女に変身している間は心臓を取り戻せるが、派手な格好で悪目立ちを避けるため、ユカリもソラマリアも街では変身を解くことにしたのだった。それも、ある意味では自称ラミスカの治癒の魔術を信頼してのことでもある。
ユカリは再び寝につく。そして本来起きる時間、見張り当番の時間を過ぎるまで、誰もたどり着くことのない夢の都で満ち足りた時間を過ごした。ソラマリアは起こしてくれなかったのだった。
すっかり新カードロアは目を覚まし、呪われた土地の寂し気な街とはいえ、僅かな活気が蘇る。昼も夜もない濁った夕暮れのような間延びした時間を過ごすせいで、多くの変化が奪われたのだろうが、眠りと目覚めという営みが失われたわけではない。臆病な魔性の如き人々の忍び足や、木陰に伸びた茸の囁き声のような噂話がかすかに新カードロアを賑わせている。それに、危険だろうが炊事の火は欠かせない。あちらこちらで霞のようなうっすらとした白い煙が立ち上る。その僅かな街の気配がむしろ静けさを際立たせてもいた。
「何を気づかってくれているのか知らないですけど、気遣いは無用です。私の見張りの当番を勝手に肩代わりして欲しくありません」
寝坊したユカリは怒るような立場でもないので努めて冷静に不平を示す。
二人のやり取りに気づいて目覚めた自称ラミスカは欠伸をして事の成り行きを眺めている。
「いや、すまない。時間になれば勝手に起きてくるものと思って。起きて来ないということは任されたのか、と」
ソラマリアの真面目くさった顔と実直な声に、自称ラミスカが噴き出し、ユカリの頬が少しばかり紅潮する。
「それは、すみませんでした」と謝りつつもユカリはまだ納得していなかった。「ソラマリアさんは好きな時に起きられるんですか?」
「ああ。よほど疲れているのでなければな」
ユカリは念のために自称ラミスカの方を盗み見る。
「あたしもできるよ。というか起こさないと際限なく寝られる人の方が珍しいんじゃないかな」
「際限なくなんてことはないですけど。どうやら私が普通じゃないみたいですね。申し訳ないですけど次は起こしてくださいね」とユカリはやはり納得いかないままソラマリアに頼む。
「ああ、任せておけ。それに気にすることないからな。体力には自信があるんだ」
その心遣いがユカリの胸に刺さる。
ユカリとソラマリアの話し合いの結果、一度この土地の解呪、浄化を試みることになった。巨剣ヒーガスはユカリも気になっていたが、鎖された神殿に押し入るのも気が引ける。結局のところ、ケドル領の土地神は祟り神になっていない。それならば『祟り神を調伏すれば魔導書が手に入る』という仮説がはなから成立しない。
試せることを試すしかない、最初の状態に戻ってしまったのだ。
支度を済ませるとユカリとソラマリアは光に包まれて変身する。それに関して自称ラミスカは興味深げに観察するだけで特に何も言わず、ソラマリアの剣が消えないように預かってもくれた。
砦の門は、当然固く閉ざされている。開門の許可を得ていない以上開くことはできない、というのが見張りの主張だった。それはユカリたちの意見とも一致している。人々を危険に晒すつもりはない。仕方がないので三人は壁を飛び越えて砦を出て行った。見張りたちは特にそれを咎めはしなかった。
カードロアにやって来た時に見た嵐は勢いを衰えさせず、風を吹き付けていた。未だ地平線に触れているが、少しばかり砦の方へ近づいている。この地の呪いのことを考えればこれほど危険な自然現象もないだろう。呪われた刃が風に巻かれ、飛来すれば残骸の砦など一たまりもない。
強風に態勢を崩されているのは歩く死者たちも同じだ。しかし疎らで、砦に集まってはいない。そうでなければ新カードロアはとうに滅んでいるだろうが、呪われた死者たちはこの砦に人が集まっているという認識を持っていないということだ。ただ死んでもなお生きている五感に頼って生者を追い回すのだ。
ソラマリアが砦の方をちらと振り返る。
「パジオという男、ユカリはどう思う?」
「どう、と言われましても。王侯貴族のような家系の方で。あとは、シシュミス教団とも何か関連がありそうですけど」
ハーミュラーの幻視が訪れたパジオの邸宅が今はシシュミス教団の神殿となっていることを思い返す。
「砦の外で、一人で何をしていたのだろう、と思ってな」
「そういえばそうですね。あの時はどさくさに紛れて全然気づきませんでしたが、どこかへ出かけた帰りでしょうか。それにしても一人で、というのは不自然ですね」
ユカリたちに気づいた死者たちの、きびきびとしていながらそれほど速くもない追跡から逃れる。
「一人である必要があったのかもしれないな」
「一人でも大丈夫だったのかもしれません」
「そのどちらもかもね」と自称ラミスカが付け加える。
砦からある程度離れたところで準備を整える。魔法少女ユカリと自称ラミスカは呪われた者もそうでない者も誰も近づかないように周囲を見張る。
「では、ソラマリアさん。お願いします」
「やはり私が演奏するのだな。琵琶など弾いたことがないのだが」
ソラマリアは眉を寄せて、その派手な意匠の楽器を背中から回し、見下ろす。激しい戦いを予感した時よりも不安そうだ。
「大丈夫ですよ。ほとんど魔法が教えてくれますから。まるで息をするくらい簡単に演奏できるんです」
「ああ。……いや、待て」
ソラマリアの剣技のように鋭いソラマリアの視線が新カードロア砦を射抜く。ユカリも振り返り、気づく。
静寂に満ちた瓦礫の塊である新カードロアが身震いし、大口を開くように門が開き始めた。それも軍団が打って出る時のように最大まで開放される。あり得ない話だ。ユカリたちが砦へとやってきた時は、死者たちから十分に距離を取った上でほんの少し開いた門の隙間へと飛び込んだのだ。それが当然の措置だろう。それでも不安があるくらいだ。にもかかわらず平穏を守る門が全開になってしまった。
そうして門から出てきたのは新カードロアに住む老若男女だ。見た顔もいる。皆が皆一糸乱れぬ行進でこちらへ向かってくる。間違いなく『虚ろ刃の偽計』の呪いによるものだ。
呪われた生者たちは行進の間に地面に散らばる武装を拾い、慣れた手つきで鎧っていく。まるでクヴラフワ衝突で迫り来るライゼン大王国の軍勢を迎え撃つ進軍を再現するかのように、人々は仮初の兵士となりユカリたちに迫りくる。