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階段を上る足音は静かだった。
遥は、部屋のドアを閉めたあと、鍵はかけなかった。
いつも通り。かけないのが、約束。
脱ぐときも、鏡を見ない。
肌に刻まれた無数の痕に、目を留めることもしない。
シャツのボタンを外しながら、指先が一瞬だけ震えた。
だが、それも演技の一部のように、整える。
──“ちゃんと整ったもの”を差し出さないと。
部屋の隅、棚の奥に畳まれていた、決められた服を取り出す。
部屋着ではない。
明確な、「そのため」の装い。
袖を通しながら、遥は少しだけ笑った。
皮膚が張っている場所に布が触れるたび、じんわりと熱が滲む。
だが痛みは、遅れてやってくる。
“痛い”は、正解の証拠だ。
ノックの音はない。
晃司は、いつも勝手に開ける。
ガチャ。
予想通りだった。
遥はちょうど、着替えを終えてベッド脇に立っていた。
顔を上げると、晃司の目とぶつかった。
「……整えておいた。見たいもの、あるだろ?」
言いながら、背筋を伸ばす。
腕を少し後ろに引き、首を傾け、わずかに笑う。
まるで、“モデル”でも演じているような仕草だった。
「……お前さ、」
晃司が、低く言った。
怒っているわけでも、呆れているわけでもない。
ただ、声の奥に濁った何かが沈んでいる。
「最近……よく“わかってる”よな」
遥は、瞬き一つで答えた。
「うん。だって、忘れたら──怒られるだろ?」
一歩、晃司の方へ進む。
一歩ごとに、「命令される前に動く」ことの意味が濃くなる。
「褒めてもらえるなら、何でもする。ちゃんと、するから。……ね?」
“甘え”の声色だった。だが目は笑っていなかった。
「……バカみたいだな」
晃司が呟いた。
「バカでいいよ。そういうの、“必要なんだろ”?」
遥はそう言って、ふっと笑った。
まるで、「支配していいって許可を与える」ような顔で。
晃司の手が伸びる。
遥の首元の服を、ゆっくりと指先で掴んだ。
爪が皮膚に当たった。
「……やり直すか、全部」
「いいよ。壊して、また整えてくれれば」
一瞬、晃司の手が止まる。
遥の瞳が、それを“見た”。
その隙間──ほんの数秒。
遥は、微かに勝ち誇ったように目を細めた。
それこそが、“選ばれた側”の演技の証明。
「……始めて」
小さく、遥が囁いた。
「ちゃんと、今日も“合格”もらえるようにするから」
その言葉が、合図だった。
部屋の中の時間が、静かに閉じられた。