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月と初夏の星団とが一夜の勤めを滞りなく終えて眠りにつくと、夜闇を慕う眷属たちは人の踏み入れぬ険しい土地に佇む大木のうろや、天命でさえも届かない深い谷底へと潜っていった。人間の野原を覆っていた夜の帳は皴のつかないように丁寧に畳まれて、天の隷が宮の奥座敷に片づけてしまう。夜の間中ウリオの山々の氷の冠と戯れていた朝の風が降りてきて、今度は森と丘と村々にそよと吹き込み、目覚めたばかりの雲雀や夜明けを称えるせせらぎと歌声の美しさを競うのだった。
娘が夢から戻ってきた時、ルドガンは家のどこにもいなかった。弓も斧も家の中にあるので仕事には出ていない。まだ顔を半分出したばかりの太陽の様子を見て娘は首をひねった。
西の空が色づかない内に朝の支度を終え、今日を迎えられた幸と得られた糧に感謝を捧げ、堅い麺麭を山羊の乳に浸すなりして片づける。
昨日の狐の皮はすでになめされているようだったので、残りの肉を塩漬けにする。薪は足りていたがいくらか割り、狩猟道具の手入れも行った。他にやることもなくなったので昼の準備を考えていると、丁度ルドガンが戻ってきた。
見知らぬ連れが十数人もいた。しかしその格好についてはよく見知っているものだ。秋の夕暮れの影法師のように染み一つない真っ黒の僧衣。しかし見知った聖職者と違い、雪風に曝されながらも祈りの言葉を粛々と唱える北国の祈祷師のような無表情の鉄仮面で目元を隠し、黒塗りの鞘に剣を収めていた。
ルドガンの後ろについて、一行を率いていると思われる人物は他の者と違い、特別に複雑な意匠の鉄仮面で顔を隠していた。その仮面はいかにも恐ろし気で、骨まで焼き尽くしそうと荒々しく燃え上がる炎を冠にした山羊を象り、頭の上半分を隠している。そしてその表面的な恐ろしさ以上に、仮面の向こうに隠された何かに対して娘は正体の分からないおぞましさを感じた。それは濁った沼の底で泡を立てる者や夕暮れの谷間で木々から木々へ音もなく移る者が持つような恐ろしさだ。
「光をもたらす者氏だ」とルドガンは心を籠めずに言った。
「初めまして」と炎を戴く山羊の仮面の男は言った。「焚書官のチェスタと申します。お見知りおきを」
「様子を見るに」娘は怪訝そうな顔を隠しもせずに焚書官たちを眺めた。「いつもの定期検査ではないみたいですね。焚書官様。この家にある本は全て何度も検分されたと思うのですが」
「確かに」とチェスタが携えた紙の束を眺めながら言う。その声は古い寺院の鐘楼が一日に一度朝を知らせる鐘の音のように、有無を言わせぬ力と身に染みる響きがあった。「毎月一度、滞りなく検査を受けているようですね。間違いなくそう記録されています」
チェスタの後ろをついてきた他の焚書官たちが断りもなく本棚に近づき、並ぶ本を無造作に取り出して様々な角度から眺めている。
娘は苛立ちを喉の奥に飲み込む。
「傷だらけでしょう?」と娘は忌々しげに呟いた。「毎月毎月検査と称して傷をつけられて、いずれ読めなくなります。歴戦の勇士の鎧でもそこまで傷だらけになることはないでしょう。そのまえに写本しますけれど、それもまた傷つけられるのでしょうね」
チェスタも本を一冊手に取り、娘の言葉に少しも動じることなく答える。「とはいえ、傷のついていないページもあるようです。これでは検査の意味がありません。今までの担当者は少し怠惰なところがあったのでしょうか、それとも、あるいは」
「そのページが魔導書だと?」と娘は呆れたように言った。
その言葉に他の焚書官がはっとした様子で娘を睨みつける。
「貴女の言う通り、そういう例もあります」と言って山羊の仮面の焚書官チェスタはめくるのをやめ、懐から短剣を取り出す。「身を隠すように普通の本に紛れる魔導書という例が」チェスタは短剣で小口に傷をつけると、その傷を触り、ようやく棚に戻した。「これは違うようですが」
娘は頭に血が上り、拳を固めて一歩を踏み出したが、体が石のように強張ってしまう。
目に見えない蛇が全身を這っているような感覚。無理をすれば動かせそうに思えるが、体がそれを拒否している。
背の低い女の焚書官が両の唇の間で呪文を編んでいる。娘の耳の端にわずかに聞こえた。いっぱしの狩人ならば狩りの時に似たようなまじないを使うが、このような敵意ある魔法をかけられるのは初めてで、娘の胸の内では怒りよりも驚きが勝っていた。
踏み出したものの今は床に縫い付けられている狩人の娘の一歩を、チェスタは抜け目なく見咎めたようだった。
「理解してください」とチェスタは申し訳なさそうに言った。「この大陸の長い歴史の上で魔導書災害は幾度となく人の野原を乱したのです。どうか協力してもらえませんか。時に一冊の魔導書が穏やかな海に嵐を呼び、狼をけしかけて家畜を襲わせ、追放者さえ寄り付かぬ北の地から病を呼ぶといいます」
「少なくとも!」と娘は焚書官チェスタの言葉をかき消すように言った。「完成された一冊の魔導書なんてものを所持していると公にしている者はいない。海には嵐が起きるものだし、狼は家畜を襲うもの。勝利する者たちの国を滅ぼしかけた疫病の事を言っているのなら、それを起こしたと噂された魔導書は発見に至っていない。そしてこの蔵書を蓄えた義母さんは誰よりも魔導書災害に心を痛めて、その為に研究していたんだ」
チェスタは感心した様子で目を見開く。
「どうやら中々に侮りがたいお嬢さんですね」そして携えてきた記録の束をめくって、「しかし魔導書の研究者が魔導書を悪用していたという記録もあります」と、チェスタは冷徹に言い放つ。
娘の怒りは限界を越え、己を縛り付けるまじないを力任せに振りほどいてさらに一歩を踏み出した。娘の肩をルドガンが抑える。骨惜しみせず働いてきたことで硬くなった掌が娘の柔らかな肩に食い込む。
「落ち着け。じきに終わる」と娘にかけた言葉は、娘にとってはあまりに落ち着きすぎているようにさえ思えた。しかし反論の言葉と心に燃え立つ炎はルドガンの悲し気な瞳の前に縮んで消えた。
その通り、十数人での検査はもう終わってしまったようだ。本に新たな傷が増えたけれど本を焼かれるよりはましだ、と娘は自分に言い聞かせた。
「良いでしょう」と仮面の焚書官チェスタが口を開き、部下なのだろう他の焚書官たちを家の外に下がらせた。「少し乱暴が過ぎましたね。ご老公を除いて皆が平和に反しているというものでした。我々は争いに来たのではありませんから。君も……」と言ってチェスタは魔法を使った焚書官の肩に手を置く。
すると娘を縛っていた目に見えない力がほどけていく。
「申し訳ない事をしました、お嬢さん。その禍の大きさゆえに、それを取り除くという我等が救済機構の戴いた使命は時に我々から冷静さを奪ってしまうのです」
炎を戴く山羊の鉄仮面は窓から差し込む朝日をその複雑な意匠でもっていくつかの方向に反射していた。その仮面の山羊の目の位置に人間の目があるはずもないが、かといって覗き穴が見当たらず、娘はどこに目をやればいいのかわからなくなった。
娘も冷静さを取り戻し、義父の恥とならないように落ち着いて答える。
「こちらもかっとなってしまって、申し訳ありません。とにかく義母は魔導書を隠し持つような人ではありませんでした」
「そう、そうでした」とチェスタは己の胸に手を当てる。「まずはお悔やみを申し上げるべきでした。オンギの村にて数多くの嬰児を取り上げ、また多くの病と怪我から敬虔なる信徒を助けたもうた魔法使いに、救いの乙女の加護があらんことを」
娘がその言葉に返そうとした言葉を遮るようにチェスタは率直に続ける。
「ただし、我々は魔導書がこの村にあると確信しています。我々は当事者より直接情報を得たのですから」そう言ってチェスタは踵を返し、黒い僧衣を翻す。「ではかの偉大なご母堂に免じて、夜が明けるまで待つとしましょう」チェスタは抑揚のない、有無を言わさぬ声で言った。「必要であればこの村全てを焼き尽くす許可を得ています。そのつもりで」
そう言い残すと炎を戴く山羊の仮面の首席焚書官チェスタは暇も告げずに家を出て行った。