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「一体なんだっていうの!」娘は閉じた扉を睨みつけて、財宝を盗まれた竜もかくやという怒りを露わにする。「魔導書があったならこの村が真っ先に災いに飲み込まれるじゃない!」
娘は、乱雑に本を押し込まれた本棚を整理し、涙を滲ませる。今になって、大雨の翌朝の泥に濁った冷たい川のように悔しさが娘の心をかき乱した。
ふと義父を見ると、憔悴しきった表情で座り込んでいたことに娘は気づく。義父のそのような表情を娘はこれまでの人生で一度も見た覚えはなかった。そして義母のために怒っていると思っていた自分は自分のためだけに怒っていたことに娘は気づいた。
「ごめんなさい、義父さん。私の失礼な態度がなければ、あの人たちも手早く検査を終えて諦めて去っていったのかもしれません」
娘の言葉にもルドガンは反応せず、ただじっと良からぬものの戯れに気づいた猫のように、床の一点を見つめていた。娘はしばらく待ち、そして待ちきれずに静かにルドガンの隣に座った。
「義父さん」娘はできるだけ優しい声色で言う。「何かあるのであれば言ってください。……まさか本当に魔導書があるわけではないですよね」
その言葉を受け取った義父の反応を見て娘は確信を持った。義父は目を見開き、その瞳は娘に許しを乞うような、あるいは憐れみかけるような色を浮かべていた。
焚書官の言う通り、魔導書がある。
娘の全身が粒立って、心臓の鼓動が徐々に大きくなり、ついには大軍の接近を知らせる張り番の叩く早鐘のように打つ。そして娘はまるで着るものも無しに冷たく乾いた荒野に放り出されたような不安に包まれた。
「義父さん」娘はルドガンの硬く実直な掌を握り、今度は言葉に強い意志を込めて言った。「全て話してください。我が義母ジニに誓って、包み隠さず全て」
娘は辛抱強く待つ、良い風が吹くのを待つ狩りの時のように。そして心臓の音色が落ち着いてきた時、とうとう義父が重い口を開いた。
「十四年前になる」探るような掠れた声でルドガンは語る。「天の河が氾濫したかのような酷い嵐の夜だった。お前の母エイカが突然この村に戻ってきた。七年ぶりのことだった。身重の体で隣の村から、一人ここまで歩いてきたんだ。衰弱しきった様子で脂汗をかいて、子を助けてくれと泣いていた。俺はジニに言われて女手を探しに行った。月影の娘、優しい人を連れて戻った。そうして、数時間後、お前が生まれた。それと同時に、一冊の魔導書が生まれた」ルドガンが娘の手を離し、おぞましい何かから目を隠すように両手で顔を覆ってしまう。「もう口止めの呪いは解けてしまったようだな」
「どういうことですか?」と、娘は口を挟む。「話が唐突すぎて、よく分かりません。私にも分かるように順を追って話してください」
ルドガンは、同じ年頃の乙女と比べれば硬い娘の手を握り返す。
「すまない。俺にも分からないんだ。ただジニもエイカもゼンナも口を揃えてこう言った。お前と共に魔導書が生まれた。エイカの胎から娘と魔導書が生まれたのだ、と」ルドガンは娘の反応を待ったが、娘は何も言えなかった。「そして、どうやらエイカとジニの間で意見が分かれたらしい。魔導書と……娘をどうするか」
「どうするかって……」と言った娘の呟きはルドガンには聞こえていないようだった。
「最後には、エイカはジニに従うことに決めたようだ。娘は、お前はこの村で預かり、魔導書は隠すことになった。隠し場所はジニしか知らず、それらの秘密に関してはその場にいた全員が口止めの呪いを受けた。特にエイカは自分にとって明かすべきでない秘密でさえ喋りかねないとぼけた娘だったのでな。これに関しては全員の意見が一致した」
そのおぞましい過去を脇に追いやるほどの、一つの感動が娘の頭の中で何度も何度も反響していた。その事実は娘の世界に二つ目の太陽が現れたかのような明るさをもたらした。
「母さんは生きているんですね?」と娘は義父の手を強く固く握りしめて言った。
「少なくとも死んだなどという知らせはない」と義父はほんの少しだけ口角を上げて、娘に硬い微笑みを見せた。
娘の先ほどまでの混乱の表情も少し和らいでいる。
「そしてエイカはこの村を去り、救済機構に戻ったそうだ」
娘はぽかんと口を開ける。いい加減に頭が追い付かなくなりそうだった。
「救済機構に? 戻った?」
「ああ、どのような立場にいたのかは知らんが、それまでずっと機構に所属していたらしい」
娘は己の出生について聞かされる日が来るとは夢にも思わなかった。だからこそ何度も何度も夢に見て、空想に思いを馳せた。遥か南の国の女王と無頼漢の狂想的な恋愛の落とし子か、あるいは人の野原に隠れ潜む妖精と魅入られた農婦の幻想的な娘か、と。
娘は何度も何度も義父母に問いかけたがずっとはぐらかされてきた。どんな事情であるにせよ娘自身が知るべきでないと義父母が信じているのならばそれに従おう、といつかの時点で諦めていた。
「チェスタが言っていた当事者より情報を得たというのは、では、もしかして」
娘は嫌な想像を追い払う。とても悲しい想像だ。
「それは分からん。少なくともあの子は救済機構から一度離れてジニを頼りにここへ帰ってきて、子を助けてくれ、とそう言ったんだ。救済機構に売り渡すはずがない」
娘はそれ以上考えないことにした。どれ程考えても真実は分からないのに、想像の全てが娘自身を傷つける刃のようだったからだ。
「それで魔導書はどうして処分しなかったんですか?」当然の疑問を娘は義父にぶつける。「魔導書が決して破壊されることはないにしても、どこか遠くに捨ててしまえば」
「それはそうだ。初めはそうしようとした。だがな、遠く離れてもお前のもとに戻ってしまうんだ」
「でも」と娘は首を振って反論する。「私のそばに魔導書が飛んできたことなんてありません」
「少なくともこの家から村の外よりさらに向こうまで離れなければ勝手にお前の元に戻ることもなかった」
娘の中で一つの事実が腑に落ちた。
「だから私は幼い頃からずっと村の外へ出してもらえなかったんですね」
ルドガンは言い訳せず、ただ頷いた。「いずれにせよ空想に囚われてとんでもない所へ出かけてしまう娘だったが」
午後を過ぎて、太陽も西へと傾き始めた。親子の前に現実的な問題が立ちはだかる。
「とにかく魔導書を見つけなければ、この村が丸ごと焼き尽くされてしまいます。義父さん、心当たりはないんですか?」
しばらく考えて、しかし義父は目を伏せる。「すまん。それを知るべき日が来ると考えもしなかった。ジニの魔法で隠されているんじゃないか、とは思うんだが」
「とにかく探しましょう。あるとすれば、あの人たちも気づかなかった屋根裏部屋です」
久しぶりに、そして義母が亡くなってから初めて、家の奥の隠し階段を上り、屋根裏部屋に入った。ずっと手入れがされていなかったために埃っぽく、昔よりも魔の雰囲気が濃くなっているように、娘には感じられた。
埃とかびの臭いで二人ともが咳き込んだ。茅葺き屋根の隙間からわずかに漏れている光に照らされて、様々な物品が所狭しと置いてあることがわかる。
硝子瓶に入った不思議な色合いの液体は大地の縁で採ってきた満月の滴り。白と黒と灰色の織物は緑地の周りに敷いた時だけ色づくという砂漠の国の歌と物語が織られた絨毯。ついぞ娘には習得できなかった創世からの年月日まで読み取れる砂時計。
多くはジニが若い頃に集めた諸国の土産だった。前に屋根裏部屋を覗き込んだ時よりも品数が増えているようだが、どれもこれも今は色褪せて見えた。
義父と手分けして、魔導書を探す。それらしい物が、一つも見つからなかった。本どころか、紙一枚存在しない。義母が所持していた全てはあの本棚に収まっていたということだ。
二人は一度下に降り、休憩していると一つの考えが娘の頭に閃いた。
「私が一度、この村から離れてしまえばいいんじゃないですか? そうすれば魔導書は私の元へひとりでにやってくるんですよね?」
「ああ。確かにその通りだ。その手が……」と言ったきり、ルドガンが押し黙る。
その視線が一点に注がれ、釘付けになっている。娘も釣られてそちらを見たが、初めは何がおかしいのかわからなかった。
義父はただじっと壁を見つめている。まるでその視線でもって壁を穿とうとでも思っているかのように。遅れて娘も気づく。そこには、その壁には本来家を出入りするための扉があったはずだ。しかし今では初めからそんなものがなかったかのように、ただの壁になっている。次の瞬間、全ての窓の蓋が閉じ、真っ暗になってしまった。
すぐさまルドガンが炉辺の火に薪を放り込み強いおまじないをかける。そうする内に窓もまた扉と同じように跡形もなく失われ、初めからそう造られていたかのようにただの壁になっていた。
「一体何が」と義父が呟く。
娘は同時に別の事態にも気づく。白い煙が鋭い牙を持つ狡猾な蛇のように隙間から家の中に忍び入っていた。
「義父さん! 火をつけられてます!」と大声をあげて娘は立ち上がった。
どこにも家を出入りできる場所がない。
「ああ、だがどうしたものか。壁を壊そうにも斧は外だ」
存外冷静な義父を見て、娘も少しだけ落ち着く。
娘が義母に聞いた話によると、焚書官には高度な魔法を扱う者が多数いるそうだ。扉や窓を移動させるという魔術に関して言えばジニも使えるものだった。その時、すっかり忘れていたことを思い出した。
「義父さん。屋根裏です。もう一度屋根裏部屋に上がってください」
「だが屋根裏には窓などないぞ」と言いつつも、娘にせかされるとルドガンは素直に隠された梯子を下ろし、素早く上る。
娘も後に続く。
「義母さんは時々屋根裏に上がって姿を消していました」暗闇の中、手探りで何かを探しながら娘は言った。「名高い魔法使いなので、まあそういうこともあるのだろう、と気にしていませんでしたが」
部屋の端で火の手が上がる。屋根裏まで燃え移ってきて、ここも直に焼き尽くされる。二人を追い詰めるように火が左右から回り込むように燃え広がる。しかしお陰で屋根裏は十分に明るくなった。
「ありました!」と叫び、義父の手を引く。
娘は埃をかぶった床に様々な模様に彫り刻まれた扉を見つけた。他の品々に比べると扉はまだ生き生きとしているように見える。取っ手を思い切りよく引っ張ると扉は抵抗なく開く。扉の下から、湧き上がる不思議と共に爽やかな光が溢れだす。
ルドガンも覗き込み、驚く。屋根裏から下を覗いているはずなのに、そこには見たこともない部屋があった。
「地下室でしょうか。少し黴臭いような」と言いつつ娘は屋根裏の下に隠されていた部屋へと降りる。少し踏板の幅の狭い螺旋階段を慎重に降りてゆく。「窓がないですし、この部屋が本当はどこにあるのかは分かりませんが」
黴臭さの他に薬品のような臭いが立ち込めている。いくつもの棚が壁に造りつけられているかなり手狭の部屋だ。空間のほとんどを螺旋階段が占めている。棚には奇妙な形の壺がいくつも並んでいる。壺口から仄かな光を漏らしているもの、しゅうしゅうという音の聞こえてくる壺。棚の他には一つだけ扉がある。先程のような下へ行く扉ではなく、隣へと続く扉だ。螺旋階段の上から、ルドガンの小さな呻き声が聞こえる。
「大丈夫ですか? 義父さん」
階段を少し戻ると、降りてきた扉から白い煙が忍び込んでくる。
「もう戻ることは出来ないのだろうか?」とルドガンは呟く。
「まだ分かりませんが、いずれ燃え尽きればおそらく」
娘は隣の部屋へと移る。どうやら今いた場所も物置に過ぎなかったようだ。
同じような螺旋階段があったが、まだまだ余裕のある広さだ。本棚は無いが本が沢山あった。床の上にも机の上にも数十数百の本が山と積まれている。そのほとんどの文字が娘にもルドガンにも読めない文字で書かれていた。壁も床も大きな石が敷き詰められ、凍り付いた冬の湖面のように石そのものが不思議な光を放っている。灯明はどこにも見当たらない。彩り豊かな絨毯や壁掛けには魔の雰囲気が感じられ、香を焚いているわけでもないのに馥郁たる香りがどこかから漂っていた。
ルドガンもまた秘密の部屋へと入ってくる「魔導書はどうだ? この部屋にあるんじゃないか?」
実のところ、娘はこの部屋に入った瞬間にその存在を感じ取っていた。初めての感覚だった。魂の半分を見つけたような気分だ。
こちらの部屋の螺旋階段のそばに立派な造りの机がある。蠱惑的な木目の桃花心木材で、湿地の国に伝わる物語が浮き彫り細工で描かれ、椅子はそれ自体が魔術的な曲線を持ち、座面や背もたれの張地には同じく湿地の国の四季模様が描かれている。その机の上に無造作にとても素朴な一冊の本が置かれていた。
それは魔導書である、と娘の直感が告げている。確信をもたらしている。
ルドガンは何も言わなかった。
娘は小動物を怯えさせずに捕える時のように息を潜めてそっと近づき、一枚の氷の薄片に触れるかのごとく、慎重に持ち上げた。見た目通りの軽さだが、魂はその重さから大きな実感を得ている。
ゆっくりと表紙をめくる。羊皮紙とも草漉紙とも違う、義母の蔵書の中にも見た事のない滑らかな純白の紙だ。
その時、心の中で衝撃に打たれた。体はそのままに娘の魂が落雷に打たれたように悶えた。
心が肥大化するような奇妙な感覚に溺れる。
異世界への転生。
魔導書収集の使命。
二つの事実が娘の心の中に復活した。まるで初めからそこにあったかのように心の中の一部を占めている。前世の記憶の一部がこの魔導書に封じ込められていたのだと分かる。しかし前世の記憶はあやふやなもので完全とは言えなかった。
何故転生したのか分からない。転生したという事実だけが頭の中にあり、他には何も思い出せない。
なぜ魔導書を収集しなければならないのか分らない。ただ心臓を引っ掻くような焦燥感が、己の内にそれが当然のような顔をして渦巻き始めた。
今世の自分が前世の記憶を得たのか、前世の自分が今世の肉体を得たのか、娘は確信が持てない。魔導書に書かれた見た事のない文字を読めるという事実は、全ては自分の幻覚だという可能性を払拭するのに十分とは思えなかった。
「やはりここにあったのだな」と義父が事もなげに言う。「何度も何度も処分しようとしたが傷一つつけられない上に、捨てる事さえできず、ただただ恐ろしかった。それに触れて分かったと思うが、魔法に疎い俺でも何か異質で強大な魔の力を感じたものだ。とにかく俺は、俺たちはお前からそれを引き離したくて」
義父の言葉が詰まる。両親の願いは儚く砕けてしまった。だが今の娘には仕方ないことのように思えた。
これは前世から引き継いだ使命なのだ、と。使命の詳細は思い出せない。しかし現世で生まれ育った娘にとっても、世界に散って災いをもたらす魔導書を回収する力があるのであればそうせずにはいられなかった。義母ならばそうしただろう、と確信する。
義母も義父も何か宿命めいた予感を感じていたのだろう。今、娘がこの魔導書を手に持った時と同じように。
「義父さん」娘は魔導書を握りしめる。そして静かに、決然と言った。「私は死んだと思ってください」
ルドガンは、娘の父親は直ぐには何も言わなかった、しかししばらくして「ああ」と一言だけ答えた。
娘もそれ以上何も言わず、義父を強く抱きしめるともう一つの螺旋階段を上っていく。振り返ることはせず、どこに繋がっているのかも分からない扉を躊躇いなく押し開く。
この扉を出れば新たな人生を生きなくてはならない。であればこれからは前世の名前を名乗ろう。
と、ユカリは決めた。