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グリュエーの風に吹き飛ばされて、地下神殿へと向かうユカリは何かが近づいてくることに気づく。何か淡い光が、ユカリに向かって飛んでくる。それは蛍のように黄色く輝いて、燕のように真っすぐに飛んでくる。
《熱病》だ、と気づいた時にはユカリとすれ違う。ユカリはかばうように手を構えるが、《熱病》は一瞥をくれることさえなく、飛び去る。目で追うと、その災いの光は真っすぐに月へと帰って行った。
追い返すことができたということだろうか。そうでなくては困る。
ユカリは寂しい夜に微睡む荒れ地を越え、無慈悲にも蒸発させられた沼のかつて浮島だった丘へと降り立つ。いまだに辺りは焚火をしているかのように焦げ臭い。
その丘にはなぜか蛾の怪物の姿となったサクリフがいて、ベルニージュの母もそばにいた。
サクリフは毒々しい色の翅を衣のように纏い、じっと《熱病》の去った夜空を、あるいは月を睨みつけている。
「サクリフさん!? どうしてここに!?」ユカリはサクリフのそばへ走り寄り、その陶器の仮面を貼り付けたような無表情に向かって話しかける。「サクリフさん。大丈夫ですか? サクリフさん」
しかしサクリフは微動だにせず、禍々しくねじれた翅脈をぼうっと光らせて、じっと夜空を見上げるだけだった。
「ベルニージュのお母さん」ユカリは、ただじっとサクリフを見上げていたベルニージュの母に視線を向ける。「一体何があったんですか? なぜここにサクリフさんが?」
「さあ、なぜでしょうね」まるで全て予想していたとでもいうかのように、ベルニージュの母は落ち着いて答える。「突如飛来して、《熱病》と格闘し、しかし決着がつかないまま《熱病》は飛び去りました」
「格闘? 私の知る限り、サクリフさんが自ら戦うことはないはずですが」
少なくともそれは怪物になってから顕著だ。それはサクリフ自身の気持ちかもしれない。あるいは戦意や殺意に基づく死を退ける魔導書の奇跡の一環なのかもしれない。自ら戦わなくともその怪物としての圧倒的な力が周りに被害を及ぼしてしまう。
「争いじゃないとしてもサクリフが少し羽ばたくだけで辺りに強風が巻き起こり、あの巨体で少し歩くだけで地響きが鳴りますから。巻き込まれた私には戦いのようにしか思えませんでした」とベルニージュの母は抑揚のない声で述べる。
「むしろサクリフさんが助けてくれたんだと思います」ユカリは巨大な怪物を庇うようにベルニージュの母との間に立ち、根拠もないのに確信したように言う。「サクリフさんが人を助けようとすると、むしろ被害が大きくなってばかりでしたが、今回は上手くいったってことですよ、きっと。街の人々の熱病の呪いも解けていましたし」
「呪いが解けましたか」ベルニージュの母はちらりとエベット・シルマニータの方を見る。朧な月の下にその輪郭が浮かんでいる。「しかしこの怪物のお陰ではないでしょうね。実際のところ《熱病》を倒したわけでもありません。月が魔女の子を諦める理由にはならないでしょう。怪物は何らかの理由でここへやってきて、そして何らかの理由で戦う必要があった。魔法によって生み出された怪物というものは創造者によって何か目的を持たされるものですから、魔女が怪物に持たせた目的とたまたま状況が合致したのでしょう。《熱病》を倒すか、魔女の子を守るか、あるいは……。もしも魔女の子を月から守ることが目的だったなら、もはやこの怪物に役割はないということになりますが」
「魔女の目的、怪物の目的」ユカリはサクリフの怪物になってなお美しい横顔を見上げる。「ベルニージュのお母さん。サクリフさんを助ける方法を知りませんか?」
ベルニージュの母は魔法少女の小さな姿のユカリを見降ろす。
「話を聞くに、この怪物の人を助けようという行動はサクリフ自身に由来する行動なのでしょう。魔女がそのような目的を持たせる理由が見当たらないことですし。だとすれば、サクリフは自分を見失っているような状態だということです。助ける、というのが元に戻すという意味であれば、その方法は分かりません。ハウシグの図書館にはいくつか魔女シーベラの遺した魔法について記述されている書籍がありましたが、怪物についてはほとんど分かりませんでした。しかしサクリフ自身の心を目覚めさせることは出来るかもしれません」
ユカリはベルニージュの母の両手をつかみ、力ある神に祈るように懇願する。「どうすればいいんですか!? 教えてください!」
「貴女自身の中にある『サクリフの記憶』をこの怪物に植え付けることです。そうすればその記憶が呼び水となって、彼女の心が呼び覚まされるかもしれない」
間髪入れずにユカリは頼み込む。「私が助けになれるのなら、是非やってください。お願いします」
ベルニージュの母の方は何かを見定めるように、あるいは見咎めるように、サクリフの幸せを望むユカリの瞳を覗き込む。
「いいでしょう。それほど難しくはありません。さあ、目を瞑って」
ユカリは静かに目を瞑り、サクリフの救われるその時を待つ。
ベルニージュの母はユカリの頭を覆うように両手を置き、ユカリには聞き取れない複雑な呪文を唱える。それは人間の心の中にある静謐な言葉であり、夢へとつながる幽玄なる言葉だ。それでいて古い記憶の揺蕩う井戸に釣瓶を落とす響き渡る音だ。
次の瞬間、苛烈な大風が巻き起こり、ユカリはなすすべなく地面に伏せる。
何とか地面にしがみつくようにしてユカリは悲鳴をあげる。「何!? 何ですか!? グリュエーなの?」
ユカリは律義にも、魔法が台無しになってはいけない一心で、ぎゅっと目を瞑ったままでいた。
「グリュエーじゃないよ!」とグリュエーが耳元で囁く。
泣く子をあやすようにユカリを安心させる声音が答える。「羽ばたきです。羽ばたきが飛び立つようです」
羽ばたきは二度、三度と羽ばたくと月を追うように夜空へと飛び立った。
ユカリは月の光を受けて鱗粉を輝かせる蛾の怪物を目で追う。とても強力な怪物だ。どうすれば止められるというのだろう。
「そういえば、キーチェカさんたちは地下神殿ですか?」とユカリは尋ねる。
「ええ、先に逃げ込みましたよ。無事なはずです」
「私、行きますね」
「ええ、どうぞ……よろしくね。ユカリさん」微かな声でそう言って、ユカリには少し聞き取れなかった。
ユカリは地下神殿の入り口の、破壊されて身を隠す魔法を失った祠の、真ん中にある穴の中に据え付けられた螺旋階段を降りていく。
「飛び降りたら助けてあげるのに」とグリュエーが囁く。
「今のグリュエー、怖いんだもの。逆に打ち上げられそう」
「そんなことしないよ」
グリュエーは抗弁するが、ユカリは自分の足で再び地下の底の最奥の部屋にたどりつく。初めてここへやって来た時と同様に財宝が所狭しと並んでいる。そして壁画や偶像もまた元通りの破壊された状態になっていた。
その崩れた壁画の前で輝かしい装身具に飾り付けられたシイマとゲフォードが抱き締め合っており、二人を見守るようにキーチェカたちは涙を拭い、静かに拍手し、喝采を捧げていた。
ユカリはキーチェカたちのそばに静かに歩み寄って尋ねる。「いったい何をしてるんです?」
「ばあちゃんとゲフォードの結婚式が執り行われたんだよ」とキーチェカは微笑みを浮かべて言った。
「いったい何が起きたらそうなるんです!?」
ユカリは訳が分からないままに拍手をする。