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放課後のチャイムが鳴っても、椅子から腰を上げられなかった。昼休みに氷室から告げられた「しばらく距離を置く」という言葉が、何度も頭の中で反芻される。
メッセージで知らされていた明確な理由。それは加藤くんを”泳がせるため”だというのを知っていたはずなのに。
実際に冷淡さを感じさせる表情のまま、いつもより低い声で聞かされると、胸に沈む重さはまるで別物だった。
(……距離を置く、か)
たった五文字なのに、そのあいだに深い溝が生まれたように感じる。
不意に椅子を引く音が耳を打ち、反射的に顔を上げると、加藤くんが教室の入り口から俺に向かって手を振っていた。
「奏先輩、行きましょう」
その笑顔は相変わらず無邪気だった。思わず笑い返しそうになって、慌てて唇を結ぶ。氷室に頼まれた“役目”を果たすため――そう自分に言い聞かせても、足取りは重い。
廊下を歩く間、加藤くんは次々と話題を投げてくる。俺は笑顔で相槌を打ちながらも、心の奥では氷室の姿を探してしまった。こんな場所で見つかるはずがないとわかっていても、視線は勝手に彷徨う。
(これで、本当に良かったのかな――)
氷室に協力しているつもりでも、実際はただ遠ざけられているだけなのかもしれない。役に立てていない自分の存在が、ふと心を冷やす。
――もし俺がいなくても、氷室は全部ひとりでできるんじゃないか。
そんな考えが浮かぶたびに、胸の奥がじわじわと沈んでいった。
答えの出ないまま、図書室の扉を押し開ける。放課後の静けさに包まれた室内は、ページをめくる音と、遠くで刻む時計の針の音だけが、やけに大きく響いていた。
「この間、奏先輩におすすめしてもらった本、すごくおもしろかったです」
席に着くなり、加藤くんは身を乗り出して言った。
「奏先輩のおかげで、視野が広がったっていうか……」
その瞳はまっすぐで、言葉にも嘘は感じられない。けれど、なぜか胸の奥に小さな居心地の悪さが残った。
話がいくつか移り変わった頃、唐突に扉の開く音がした。反射的にそちらを見る。分厚い本を抱えた氷室が、静かに図書室の中へ入ってきた。
「氷室先輩?」
加藤くんが少し驚いた声を出す。氷室はなにも答えず、俺たちに軽く会釈し、三列ほど離れた通路側の席に腰を下ろした。
距離はあるのに、その存在感は俺の視界の端に焼きつくように離れない。
「氷室先輩、奏先輩と距離を置くって、本当に実行してるんですね」
加藤くんが交互に視線を送りながら、感心したように言う。
「……そうだね」
それ以上は言葉が続かない。胸の奥がきゅっと固くなり、机の上のなにもない空間を見つめる。
ページをめくる音や時計の針の音が、急に遠のいたように感じた。静かなはずの図書室で、目に見えない境界線だけが濃く引かれていく。
まるでそこに座っているのが「先輩」と「後輩」ではなく、決して交わらない二つの陣営であるかのように。