朝会社に出社すると、いつも早く来て仕事をしている瀬戸さんの姿が社長室になかった。
朝一での来客や外出の予定はなかったはずだけど、どうしたのかな?と思っていたら、健ちゃんから呼び出されて専務室に向かう。
「ああ、詩織ちゃん。来てもらってごめん。実はお願いしたいことがあって」
「はい、どうかしました?」
「実は千尋が風邪ひいたみたいで、今日は会社休むって連絡来てさ。アイツの今日の予定どうなってる?」
どうりで瀬戸さんが出社していないわけだ。
昨夜の瀬戸さんは、会食の前からずいぶんと疲れている様子だった。
疲れが蓄積して体調を崩したのかもしれない。
私は心配になりながらも、手帳を確認して瀬戸さんのスケジュールを確認する。
「今日は社内の打合せだけなので、リスケで全然大丈夫な案件ばかりだと思います」
「あ~アイツそれも見越してたのか。抜け目ないな。悪いけど、それリスケの対応お願いしていい?」
「はい、もちろんです」
それは私の仕事だ。
頷いて了承し、さっそく調整に取り掛かるため専務室をあとにしようとしたところで、健ちゃんに呼び止められた。
「待って、もう1つお願いがあって」
「はい、なんでしょう?」
問いかけると、健ちゃんは机の上にあったメモ帳にサラサラと何かを書き留め、それを私に手渡す。
受け取ってメモ書きを見れば、それはどこかの住所のようだった。
「それ、千尋の家の住所。アイツ一人暮らしで困ってるだろうから、食べ物買って持って行ってやってくんない?帰り際でいいからさ」
そう頼まれ、どうしようかと一瞬迷ったけど、私は「分かりました」と頷いた。
心配だったから、もともとメールはしようと思っていた。
それに瀬戸さんにはいつもこれでもかってくらい優しく甘やかしてもらっている。
体調が悪い時くらい、私も彼の力になりたいと思った。
専務室を出て、頼まれたリスケの調整をするべく、自分のデスクに戻る。
ひと通りの調整が終わり、ふぅと息を吐いた。
「千尋くん、休みなんだって?」
一息ついていたところ、隣の席の美帆さんが声をかけてきた。
私がリスケのために電話をしているのを耳にしていたらしい。
「はい、風邪ひかれたみたいです。疲れが溜まってたのかもしれないですね」
「千尋くんが体調崩すなんて珍しいね。3年ここで働いてるけど初めてかも」
「そうなんですか?」
「少なくとも私が知ってる限りだとね」
そんなことを聞くとますます心配になる。
だから健ちゃんもわざわざ家に行って欲しいって私に頼んできたのかもしれない。
日中は頼まれていた書類の作成や整理、瀬戸さん宛の電話の対応などをし、夕方少し早めに私はオフィスを出た。
途中でスーパーに立ち寄り、スポーツドリンクやゼリー、ヨーグルト、おかゆ、冷えピタなどを購入する。
レジ袋を片手に、健ちゃんから教えてもらった住所をスマホで検索して歩いた。
瀬戸さんの家は会社から割と近くで、六本木にあるタワーマンションだった。
まるでオフィスビルのように目の前にそびえ立つ高層マンションに少し慄く。
普段気さくな感じだからつい忘れがちだけど、こんなところに住めるくらい成功しているすごい人なんだと改めて感じた。
エントランスに入ったところには常駐のコンシェルジュがいて、声をかけたらすぐに取り次いでもらえた。
エレベーターに乗り22階まで進む。
ドアの前でインターフォンを鳴らしたら、待つこともなくガチャリと鍵が外れて扉が開いた。
扉の間からは、スウェットを着た瀬戸さんの姿がのぞく。
動けるようではあるけど、その顔色はやっぱりいつもより悪い。
「……詩織ちゃん?コンシェルジュから会社の方が来たって聞いてまさかとは思ったけど」
「ご体調大丈夫ですか?あの、これ食べ物や飲み物です」
私は手に持っていたレジ袋を差し出す。
具合が悪い中、人がいたら落ち着かないだろうと思って、玄関先で渡したら私はすぐに帰るつもりだった。
だけど瀬戸さんはそれを受け取る代わりに、私の腕を軽く引いて「とりあえず入って」と、扉を閉めた。
思いがけずお邪魔することになってしまった。
「……渡したら帰るつもりだった?」
「はい。だって体調が悪い時に人がいると気を遣って落ち着かないですよね?」
「詩織ちゃん以外だったらね。まぁ、とりあえずせっかく来たんだし、中にどうぞ」
玄関から廊下を歩いて行く瀬戸さんに続き、言われるままに私も中へ入った。
廊下の先には広々としたリビングがあり、瀬戸さんはリビングまで来ると、ドサリとソファーに倒れ込んだ。
「えっ、瀬戸さん!?大丈夫ですか?」
「あー、大丈夫。ちょっとふらっとキタだけ。朝から何も食べてなかったからかも」
どうやら健ちゃんの予想は的中していたらしい。
私はすぐさま袋からゼリーやヨーグルトを取り出して、ソファーの近くにあるテーブルに置いた。
「これ、食べれます?とりあえず何かお腹に入れた方がいいと思います」
「ん、ありがとう。食べる」
弱々しく起き上がった瀬戸さんは、力なくスプーンを手にとって食べ始める。
キッチンの場所を聞いて、グラスを取ってきた私はスポーツドリンクを注いで、「水分補給もしてください」とそれも差し出した。
瀬戸さんはのろのろとした動きで食べたり飲んだりしている。
本当に具合が悪そうだ。
いつもが明るく気さくなだけに、余計に弱々しく感じる。
表情も暗く、たまに見かける影のある雰囲気が見え隠れしていた。
……何か他に私にできることあるかな?力になりたい。瀬戸さんのおかげで、私は変われたから。ホントにお世話になりっぱなしだよ……。
昨日、兄に会った時のことを思い出す。
偶然遭遇した兄に、最初こそ動揺したけど、不思議なくらい私は心が落ち着いていた。
前みたいに心が騒めくことはない。
締め付けられるような苦しさもない。
私は至って普通だったのだ。
その自分の変化に自分で驚いた。
むしろ兄が瀬戸さんに私について話すことの方が恥ずかしくてドギマギしたくらいだ。
変なことを言わないで欲しい、と懇願したくなった。
まるで学生の頃の三者面談で、親が先生に変なことを言わないかをソワソワして聞いている学生の気分だった。
家に帰ったら後に電話でも兄と話したけど、その時も動揺することはなかった。
結婚式の話も、響子さんの話も、厭うことなく兄と話すことができた。
以前の私からは信じられない進歩だ。
兄から「雰囲気が変わった、瀬戸さんに心を許してるのが見てて分かった」と言われて、この変化が瀬戸さんのおかげだということを初めて自覚した。
そばにいてくれて、優しく励ましてくれて、気分転換に付き合ってくれて。
私が前に進むために辛抱強くいつも瀬戸さんが隣でサポートしてくれたおかげ。
こんな私を好きだと言ってくれる稀有な人。
「私で何かお力になれることありますか?」
スポーツドリンクをゆっくり飲む瀬戸さんを見つめながら私は問いかけた。
今、心から感じていることだった。
「…………一つ聞きたいんだけど、詩織ちゃんがここに来たのは秘書として?それとも恋人として?」
思ってもみなかった質問に私は少し考える。
健ちゃんに頼まれたのは確かだ。
でも力になりたいというこの感情は、たぶん仕事としてではない。
だから私はまっすぐに答える。
「確かに植木さんに頼まれましたけど、私としては恋人として来たつもりです」
その言葉に、瀬戸さんは驚いたように少し目を見開いた。
「あー、マジか。そんなこと家で言われるとヤバイんだけど……」
言い捨てるようにボソボソとなにかを呟くと、瀬戸さんはソファーに突っ伏すようにまた倒れ込んだ。
チラリと覗く顔が少し赤い気がする。
熱が上がってしまったんだろうか。
「あの、ソファーじゃなくてベッドでしっかり寝た方が良くないですか?その方が体にいいと思います」
「うん、ベッドね。それはその通りなんだけど……」
「立つのしんどいようだったら、体支えましょうか?」
「……大丈夫、それくらいは歩けるよ」
何かを逡巡していた瀬戸さんだったが、結局ベッドでしっかり休むことにしたようで寝室へ移動する。
モノトーンで統一された寝室は、ほとんど物が置いておらず大きなベッドと必要最低限のものしかない。
瀬戸さんがベッドに入ったのを見届けて、私は飲み物と冷えピタを取りにリビングへ一度戻り、寝室にそれらを持ち込んだ。
「飲み物ここに置いておきますね。定期的に水分補給してください」
「うん、分かった」
「あと、ちょっと失礼します」
おでこにかかった前髪を掻き分け、冷えピタを瀬戸さんのおでこにペタリと貼り付ける。
これで少しは熱覚ましの助けになるだろう。
ベッドに横たわる瀬戸さんを見下ろすと、何か言いたげな瞳と目が合った。
「どうかしました?」
「……あのさ、一つお願いしていい?」
「はい、もちろんです」
何か力になれそうなことがあって嬉しくなる。
私は笑顔で頷いた。
「恋人として来てくれたんだったら、ちょっと詩織ちゃんのこと抱きしめさせて?」
「えっ? 抱きしめる、ですか?」
予想外な申し出に困惑するが、全然嫌ではない。
むしろ具合が悪いのに、そんなことして大丈夫なのかな?と心配になる。
それを口にしたら「むしろ元気になれる」と言われたので、素直に私は瀬戸さんの希望に従うことにした。
ちょっとだけ躊躇しながらそろりとベッドに入ったら、すぐ瀬戸さんの腕の中にギュッと閉じ込められる。
熱のせいでいつもより少し火照った体に包まれた。
瀬戸さんに抱きしめられるのは、お試し交際をしようと言われた遊園地ぶりだ。
いざ交際を始めたあと、いい大人なんだから男女の色々もあるかもと少しは覚悟していた。
なにせ初対面がソレだったのだから。
だけど予想に反して瀬戸さんは全く私に触れてはこなかった。
ただでさえ男性と付き合うことに慣れていない私にとって、それはとてもありがたかった。
……瀬戸さんに触られるのは全然嫌じゃないから不思議。なんかこうしてるのすごく落ち着くなぁ。ずっとこうしていたいかも。
瀬戸さんの規則正しく脈打つ心臓の音を聞いているとなんだか安らぎを感じる。
包まれるような安心感があって、体の力が抜けていく。
パリでも瀬戸さんとはベッドの中でこうして抱き合った。
その時はずっと兄のことが脳裏によぎっていたのに、今は全く思い浮かばない。
ただ、瀬戸さんの体温が心地良いだけ。
……私、瀬戸さんのこと好きだ……。
自然とそんな感情が目を覚ます。
好きだという想いが心から溢れ、全身に行き渡っていくような感覚に包まれた。
彼の腕の中で身を委ねながら、私は自分の気持ちを初めてこの時ハッキリ自覚したのだった。
コメント
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詩織ちゃんが自分の気持ちに気付いた\(^o^)/これからどうなるのかな〜素直に言えるかな〜?ワクワク💕