私が千秋さんのプロポーズを受け入れて婚姻届けを提出するまでの期間はわずか一週間。
その理由は私のパスポートを更新するためだった。どうせ更新するなら新しい名前にしておいたほうがいいというそんな理由の電撃結婚である。
だから、千秋さんが私の実家に挨拶に来たのは結婚後ということになる。
「はあ? 結婚? 海外ですって?」
実家に来て私の両親と対面した千秋さんに母がぶつけたのはそんな言葉だった。父は母のとなりでおろおろしている。
千秋さんはきちんとスーツを着た格好でにこやかに私の両親と対面していた。
「いきなり結婚するなんて言って新しい人連れてきて、何寝ぼけたこと言ってるの。話にならないわ」
母は不機嫌そうに私から目をそらした。そして再び千秋さんをじろじろ見つめた。本当に恥ずかしいからやめてほしい。私は自分に向けられるより千秋さんに向けられる母の視線が苦痛だった。
「まあ、結婚くらいならいいけど。住むなら実家のそばにしなさい」
「それは無理だよ。さっきも言った通り、私は千秋さんとアメリカに……」
「紗那、あんたがよそに行ったら誰があたしたちの面倒を見るの?」
母の言葉に私はうんざりした。
いつもなら客人を前にしたらとりあえず愛想笑いくらいする母がここまで感情をむき出しにするとは、相当ストレスが溜まっているのだろう。
兄はまだ無職のまま家にひきこもっているようだし、母は兄の世話やご近所の人たちの目に耐えられないのだろう。
母に放置されてきた以前の私ならきっと、諦めて母の命令通りにするだろう。それは自分が必要とされていると勘違いしてしまうからだ。
だけど違う。母が必要なのは私ではなく家政婦なんだ。
「知らないよ。私の人生は私のものだから。お母さんやお兄ちゃんの世話をするために生きているんじゃないの」
「あなた、親を見捨てるの?」
「違うよ。自立するんだよ」
あくまで冷静に、感情的にならないようにしながら母に話す。
すると母は少し驚いた顔をしたあと、ふっと口角を上げた。
「自立ですって? 前の結婚が破談になったとたん新しい相手を見つけておきながら自立? 笑わせないでくれる?」
「ちょ、ちょっと母さん……」
父が慌てながら母を制止しようとするも、まったく無意味だった。
母は千秋さんをチラ見して、冷笑しながら言う。
「あなたは騙されやすいのよ。婚約者と別れたばかりで言い寄ってくる人なんて信用できないでしょ」
母の言葉にはさすがに冷静でいられず、私はすぐさま反論した。
「千秋さんのこと悪く言わないで。彼は誠実な人だよ」
「どうだか。前の山内さんの息子だってとんでもない子だったじゃない。素性もよく知らない人じゃまた同じ失敗するわよ」
「もうやめてよ、お母さん」
私が感情的に声を上げると、となりで千秋さんがすっと名刺を差し出した。
「紗那さんのことは以前から知っています。系列会社なので」
千秋さんはいつもの穏やかな口調で冷静に話す。
系列会社といっても千秋さんは親会社で本体だからこんなことでもない限り知り合うきっかけなんてなかったんだけど。
彼が差し出した名刺を父が手にとって目を落とした。すると父は「あっ」と声を上げた。
「知っていますよ。わが社が取引をさせていただいてます」
父の言葉は意外で私は思わず訊いてしまった。
「お父さんの会社、千秋さんの会社と取引関係なの?」
「ああ、そうだよ。うちなんて小さいから彼は知らないだろうけど」
父の返答と同時に私は千秋さんを横目で見た。彼はにこにこしている。
ああ、これは調査済みだなって一瞬でわかった。
「そ、そうですか。では、今後とも紗那をよろしくお願……」
父が言いかけたときだった。
母がすかさず意見を述べたのだ。
「あなたみたいな会社と取引してるくらいだから大したことないのねえ」
「こ、こらっ。そんな失礼なことを言うんじゃない」
「だってそうでしょ。あなたのお給料が安すぎてうちは食べていくのが大変なんだから」
「そういう話を人前でするなよ」
父は額に汗を滲ませながら狼狽える。その横で母は千秋さんをじろじろ見ている。私はもういたたまれなくなって今すぐこの場から出ていきたくなった。
やっぱり実家に来るんじゃなかった。
母に会わせるんじゃなかった。
千秋さんにこんな実家の醜態さらしたあげく彼を咎めるような発言までされてもう耐えられない。
もういい。
私が立ち上がろうとしたところだった。
千秋さんは父に向かって笑顔で切り出したのだ。
「たしかに素性がわからないのは不安ですね。なので正直に話します。わが社の八木恭一が俺の父です」
聞いたことがあるような、でも知り合いではないその名前を頭の中で反芻していると、父が驚愕の声を上げた。
「ええ!? 八木恭一常務取締役ですか!!」
あ、そうか。聞いたことある名前だと思ったのは親会社の取締役だからだったんだ。あんまり気にしたことなかった。
ていうか、なんで千秋さん秘密にしてたんだろう?
そういえば名字が違う。
千秋さんは冷静に話を続けた。
「理由があって別に暮らしていますが、俺の頼みをよく聞いてくれる人です。もし不安があれば父と会食の席を設けることもできますが?」
「い、いいや、そんな……私どもがお会いできるようなお方では……」
「家族になるので大丈夫ですよ」
「そ、そそ、そうですか」
動揺しまくっている父に、母がきょとんとした顔で訊ねる。
「偉い人なの?」
「もうじき副社長になられるお方だよ!」
「あらあら、まあ」
母の表情がぱあっと明るくなった。
私はその顔をよく知っている。相手に媚びを売るときの母の顔だ。
「そうなの? じゃあ、大変なお金持ちなのね」
「やめて、お母さん」
私がすぐに制止したが、母の口を止めることはできなかった。
「嫁の実家に少しくらい援助してもらえるのかしら?」
「な、何を言っているんだ、母さん!」
「大事な娘をお嫁に行かせるんだから、それくらいしてくれてもいいでしょ?」
「し、失礼だぞ!」
父の言葉など無視して、母は千秋さんに向かって訊く。
「名字が違うということは離婚されているの? それとも、婚外子ということかしら?」
もう、やめてよーっ!!!
千秋さんが気を悪くしていないだろうかと不安になり、私が目を向けると、彼はまったく動じることなく笑みをたたえていた。
そして落ち着いた口調で話す。
「どちらかといえば婚外子ということになります。しかし認知されてるのでご心配なく。父の家族に男がいないので大切にされています」
千秋さんはさらさらととんでもない事実を堂々と話している。
私が呆気にとられていると、彼はにこっと私に笑いかけた。
「でも、そんなこと紗那には関係ないよね。紗那の生活はすべて俺が保障するから」
「え、あ……うん。はい」
私は頭が混乱してきてとりあえず返事をするしかなかった。
すると母が再び口を開いた。
「じゃあ、シングルで育てられたの? 男の子はお父さまがそばにいないと大変でしょ?」
お母さん、もうこれ以上余計なことを言わないでほしい。
私と父はお互いに目を合わせ、ハラハラしながら母と千秋さんを見つめた。
しかし千秋さんはやはり、動じない。
「ご心配なく。養育費はたっぷりもらって何不自由なく育ちましたから。先ほども言いましたが父は俺の頼みなら何でも聞いてくれるので」
「あら、そうなの。じゃあ、結婚後は少しうちに援助してもらえるのかしらね」
さすがに嫌になって私は彼らのあいだに割り込んだ。
「もうやめて。千秋さんはお母さんに関係ないでしょ!」