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母は目を丸くして、あたかも自分が正しいという主張を繰り返す。
「関係あるわよ。娘婿になるんだから。素性をしっかり知っておく必要があるでしょ」
「言い方が失礼だよ」
「だって本当のことでしょ。うちは両親揃ってるのに向こうはシングルなんて」
「そんなの関係ないよ! 千秋さんは誠実で真面目な人だもん!」
私は焦って冷静さを失ってしまい、感情的に母に声を荒らげた。
すると千秋さんがとなりで冷静に口を挟んだ。
「気になるようでしたら冠婚葬祭の行事には父に出席してもらいますよ」
「まあ、それができるなら構わないけど、名字が違うんじゃ周囲にわかっちゃうわよね」
母はしばらく考えたのち、思いついたように言った。
「そうだわ。あなたうちの家に婿入りすればいいのよ。うちの名字になれば誰も何も思わないでしょ。我ながら妙案だわ」
母の性格はわかっていたのに、私はまた期待してしまっていた。
やっぱり彼女は自分のことしか考えられない人なんだ。
どうして、ほんの少しでも、私を見てくれないんだろう。
もう悲しくて苦しくて、つらくて、泣きそうになったときだった。
「いい加減にしないか!!」
大声で怒鳴りつけたのは、意外にもいつもおとなしい父だった。
父が大声を出すのは久しぶりだ。というか、ほとんど見たことがないのでびっくりして私は固まった。
父は息を荒らげながら、どうにか呼吸を整えて、母に強い口調で話す。
「さっきから、お前は、恥をさらすようなことばかり」
「だ、だって……」
「どうして娘の結婚を素直に祝ってやれないんだ!」
「だって紗那は失敗したばかりじゃないの」
「失敗してない! 紗那は何も失敗していないぞ!」
部屋中に父の声が響き渡る。
いつも何も言わない父が感情をあらわにしている。そのことに驚いているのは私だけではなくて、母も驚愕の表情で固まっている。
私がとなりに目を向けると、千秋さんはやけに真剣な表情で私の父を見つめていた。私はふと彼が以前に言っていたことを思い出す。
『君はちゃんと家族から愛されているんだよ』
急に胸の奥が熱くなり、視界が揺れた。
あふれそうになる涙を堪えながら「お父さん」と私は呟いた。
父は真っ赤な顔を私に向けると、すぐに笑顔になり、それから千秋さんに向かって深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。妻の発言は忘れてください。どうか、紗那をよろしくお願いします」
千秋さんは穏やかに笑って「はい」と答えた。
私は千秋さんに目配せして、ゆっくりと立ちあがった。もうこれ以上話すことはないからだ。
すると母は慌てながら私を制止した。
「待ちなさい、紗那。いいわ。結婚は許してあげる。だけど海外はだめよ。洋ちゃんがまだ社会復帰できないのよ。あなたひとりだけ幸せになると可哀想でしょう?」
この期に及んでまだそんなことを言うんだ、と私は呆れを通り越して失望した。
「ねえ、こんなときこそ家族が助け合わなければだめよ。紗那は優しい子だから理解できるわよね?」
ああ、こうやって、幾度となく母は私を家に縛りつけてきた。
最初は怒鳴って命令して、それでも私が抵抗したら今度は同情するよう仕向けてくる。
母にとって私は一体何だったのだろう?
それでも母がこっちを向いてくれるならと淡い期待をして私はそれに応えていた。すべて無駄だったんだ。
「私は今まで散々この家に尽くしたよ。もう充分でしょ。これからは自分の人生を歩くの」
「待ちなさい、親不孝者!」
「なんとでも言えばいいよ」
「紗那!」
母が私の腕を掴もうとした瞬間、父があいだに入って振り払った。
「ちょっと何……」
「黙りなさい!」
父の大声に驚いた母が絶句して固まった。
そのあと父は声を抑えて、私に顔を向けて言った。
「紗那、行きなさい。幸せになるんだぞ」
私は何も言わずにただ、こくんと頷いた。
部屋を出る際に、千秋さんが振り向いて母に声をかけた。
「そうだ、お母さん。一応、あなた方の要望も考えてはいるんですよ。大切な女性の家族なので、そちらが困ったときは支援をしたい気持ちはあります」
母が驚いた顔で目を丸くすると、千秋さんはやけに冷たい目で言い放った。
「ただし、そちらの態度次第です。俺は紗那を傷つける者は誰であっても許さない。たとえそれが親でも」
母は表情を強張らせたまま、へなへなと床にへたり込んだ。
父は立ったまま、千秋さんに深々と頭を下げた。
玄関に向かっていると、2階から兄が下りてきた。久しぶりに見る兄は少し痩せていて以前より目つきが柔らかくなっていた。
昔は常にピリピリして、私が近づくとイライラした態度を見せていたのに、今ではそれがまるですべて取り払われて、別人みたいに丸くなっている。
「久しぶり」
「うん」
兄と話すなんて何年ぶりかだ。微妙な空気が漂って、どう話したらいいか迷っていると、兄は思いがけないことを言った。
「紗那、もうお前この家に戻るな」
「え?」
「俺も出ていくからさ」
兄はやけに穏やかな口調で続ける。
「俺たち、充分苦しんだと思う。残りの人生は親に振り回されない生き方をしよう」
兄の意外な言葉に私は絶句してしまった。
苦しかったのは私だけではなかったの?
兄はまるで憑き物が落ちたみたいにすっきりした顔をしている。
「俺はお前がうらやましかったよ。母さんから何も制限されていないお前のことが」
「……お兄ちゃん」
「俺がどんなに成績がよくなっても母さんは満足しなかった。友だちとの遊びも許してくれなかったし、高校も大学も母さんの言う通りにしないと行かせてやらないと脅されていたんだ。会社だって母さんが決めた。だから、辞めたんだよ。遅く訪れた反抗期ってやつだ」
そう言った兄はわずかに口角を上げた。
いつも母は兄に目を向けていた。私は振り向いてほしくて頑張ってテストでいい点を取ったら、母はなぜか激怒した。兄をバカにしているのかと。
そのことが意味不明だったけど今ならわかる。
母は兄に過剰な期待をしすぎてまわりが見えていなかったのだ。
「俺、ずっとお前に八つ当たりしてきた。ごめんな。たぶん、もうあんまり会うことないと思うけど、元気でやれよ」
私は目頭が熱くなり、涙を堪えながらどうにか「うん」と返事をした。
兄は千秋さんをちらりと見て、それから軽く会釈をした。
それに対し、千秋さんは満面の笑みを返した。