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その日の朝拓郎は、食欲中枢を刺激する「美味しそうな匂い」で目を覚ました。
いつもながらの寝ぼけた頭でキッチンを覗くと、藍が何やら楽しそうに、弁当を詰めている所だった。
「おはよう。今日は一体何のイベントだい?」
「おはよう! 今日はお仕事休みって言ってたでしょ? だから、連れて行って貰いたい所があるの」
「うん?」
「動物園。私、一度本物のパンダ、見てみたかったの」
そう言って楽しそうに笑う。
いつもは拓郎が誘ってみても、「人混みが、苦手なの」と外出したがらない藍が、自分から言い出したのだ。
「だめ?」
「いいや。そうか。パンダか。上野だな」
この頃、藍は昨夜のように、夢にうなされる事が頻繁にあった。
「怖い夢を見ただけ……」
そう言って身体を震わせて泣く藍を、拓郎は、ただ抱き締めてやる事しか出来ない。
そんな自分が歯痒かった。
――何か、抱えている物があるのだろうとは思う。
「あのさ……」
――問いただすべきだろうか?
「はい?」
「……コーヒー頂戴」
言いたくないのには、それなりの訳があるのだろう。
”いつか、藍が自分から話せるようになるまで、待とう” 拓郎はそう結論を出した。
「パンダって……」
「うん?」
「大きいのね……。ちょっと、山の中で会っちゃったら、怖いかも……」
上野動物園、パンダ舎の前である。平日とはいえ、かなりの数の家族連れや、カップルで賑わっていた。
ぬいぐるみのようなイメージを抱いていたらしい藍が、呆然と言うのがおかしくて、拓郎は笑いながら答える。
「それに、よく見ると、なかなかいい面構えしてるんだ。目の所、模様はたれ目だけど、目自体は結構スルドイ」
「ホントだ」
二人で顔を見合わせて笑う。
藍にとっては、初めての動物園だった。
絵本やビデオで見たことはあっても、実物を目にしたのは初めてなのだ。
「私、実は動物園って初めて来たの。本物って何だか想像していたのと全然違う!」
「匂い付きだし?」
くすくすと藍が楽しそうに笑うのを、拓郎はまぶしげに目を細めて見詰めた。
「俺も、似たようなものかな。 親が生きてた時、何度か来たような気するけど――」
拓郎にしても両親が死んだ後は「動物園」なんて縁遠い生活だったのだから、藍と似たりよったりなのだ。
「ご両親の事、覚えてる?」
「いや。実は、あまり良く覚えてない。普通の人達だったような気がするけどね……」
拓郎の両親の記憶、それはイコール事故の記憶だった。
あの日は、忙しい父親の休日を利用しての、日帰り旅行だった。
滅多に家族で外出する事がなかった為か、父親も母親も、勿論拓郎自身もやたらと楽しくてはしゃいでいた。
その帰路、遊び疲れた拓郎は、タクシーの後部座席の真ん中、両親に挟まれる形で母親の膝に頭を乗せて眠っていた。
突然の、天地がひっくり返ったような衝撃――。
居眠り運転のその十トントラックは、信号待ちをしていた拓郎達の乗ったタクシーに、ノンブレーキで突っ込んだのだ。
タクシーは原型を留めないほど、大破した。
その事故を目撃した誰もが、生存者は居ないと確信した。
トラックに押しつぶされて、ひしゃげた車体には、どう考えても人が生存出来るだけの空間はなかったのだ。
その中で拓郎だけが、かろうじて命を取り留めた。
タクシーの運転手も、その時既に心肺停止状態で、数時間後には病院で死亡した。
拓郎が助かったのは、文字通り両親がその身体を呈して庇ったからだった。
とっさに、拓郎を庇った母親。
その母親を庇った父親。
その二人の身体を突き抜けた鉄板は、拓郎の背中に一生消えない大きな傷跡を残した。
焼け付くような痛みの中、拓郎が見たのは、両親の流した真っ赤な血の海だった。
――だから。
だから、中途半端な生き方はしたくないと拓郎は思う。
少なくとも自分はあの時、「生かされた」のだから。
その思いが、今まで拓郎を横道に逸れることを留まらせていた。
金の亡者のような親戚をたらい回しにされていた時も、アルバイト浸けで眠る間もなかった時も、その思いだけが支えだった。
でも、今は、藍がいた。
最初は、純粋に「被写体」としての興味だった。
それが、「危なっかしくて、放っておけないただの家出娘」に変わり、
いつの間にか今では「掛け替えのない存在」になっていた。
「うえ〜ん! ママ〜!」
突然二人の足元で、子供が泣き出した。
藍のワンピースの裾を、しっかりと握りしめている。
「ど、どうしたの? ボク?」
藍が驚いてしゃがむと、五、六才のその男の子の顔を覗き込む。
「ママがいないの〜!」
そう言って泣きじゃくるのを拓郎は、ひょいっと肩車をした。
「良く見えるだろう? ママが見えたら教えてくれるかい?」
笑顔で問い掛ける。動物受けと、子供受けは良い彼だった。
こう言う時こそ、その人好きのする童顔が役に立つ。
最初は驚いてキョトンとしていたその子も、肩車から見える風景が新鮮だったらしく、泣いていたのも忘れたように、「うん!教えてあげるよ!」そう言って楽しげに笑っていた。
――俺たちは、何に見えるのだろうか? 拓郎はふとそんな事を思った。
小さい子供と若夫婦?
藍が、楽し気に笑う。
小さい子供とはしゃぐ彼女を見詰めながら、拓郎は漠然とそんな未来を夢見ていたのかも知れない。
その日の帰り、藍は一組のレターセットを買った――。
その白い封筒と便箋には、向日葵の花が描かれていた。
その絵を、何処か眩し気な表情で見詰めている彼女に、拓郎は聞いた。
「向日葵が好きかい?」
「ええ。大好き。向日葵って、いつも太陽を見詰めて”凛”と立っているでしょう? あの強さに憧れるの……」
藍の表情は何処か暗い。
やはり、疲れたのだろうと、ねぎらいの気持ちを込めて、拓郎は藍の頭を軽くポンポンとたたいた。
「今度、そうだな。夏になったら”向日葵牧場”に行ってみようか? 一面の向日葵畑が見られるよ。ほら、初めて会ったとき見せた向日葵畑の写真の場所」
「ええ。楽しみ……」
藍が、どこか儚げに笑う。
その笑顔の意味を、拓郎は全く気付いていなかった……。
一斉に咲き始めた桜が、温かい春の風に乗って香っていた。