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「……あのさぁ。せっかくの美人さんなのに勿体ないよ。自殺とか……」
なにも知らないくせに、と彼女は思う。
なにも知らないくせに。わたしが――なにを抱え込んでいるのか。苦しんでいるのか。知りもしないで正義を振りかざす――そんな人々を美冬は嫌悪した。目の前にいる男はそういったタイプの男だ。
なのに――寝ている。
シーツの感触が心地よい。どうせ死ぬなら――行きずりの男と寝てからでもいいと思ったのだ。
彼女の髪を撫でる男の指先。男っぽさに、痺れるような快楽を感じる。――男のセックスはその言動通り実直だったが……ある程度彼女がリクエストをすると男は応じた。その素直なところがいじらしかった。
「――死ぬの?」
男は彼女に尋ねる。死にたい、と彼女は思った。死ねない、と彼女は思った。この火照りを残すからだはまだ……快楽を欲している。
彼女は笑って答えた。
「……死んで欲しくないのなら、死ぬほど気持ちよくしてよ」
* * *
乙女紘一との関係は、彼女を楽にした。夫とのセックス。毎日顔を合わせ、しみったれた現実を突きつけられる男のセックスなんか、面白くもなんともない。知らない男とだから興奮するのだ。
乙女紘一が既婚者なのは分かっていた。だが、そんなことはどうでもよかった。だからなんだというのだ。結婚。そんなものは……彼女の前ではまるで意味を持たない。能無しの人形のようなものだ。
乙女は……一見すると完璧なサラリーマンに見えるが、徐々に、素の姿を出していった。涙もろい一面を見せる。家ではこんなことは言えねんだよ、と泣きながら彼女の胸に抱きつくこともあり、……赤子のようにわんわんと泣く乙女が愛おしいと思えるようになった。
新谷涼介は妻に多くを求めない夫ではあったが、性には淡白で、そこが美冬には少々物足りなかった。よって美冬は、家庭内で満たされない欲求を乙女との関係で満たすようになった。乙女は美冬のあらゆる欲求に答えてくれ、それが、美冬には嬉しかった。
乙女には妻子がいる。写真も見せて貰った。可愛らしいお子さんだ――この子が欲しい、と直感的に思った。美冬は、それほど子どもが好きではない。男の子なら手がかかるし……色々と面倒だ。シッターの仕事も、家事のほうに力を入れており、送迎の仕事はなるだけ引き受けないようにしている。ところが写真を見せられたそのとき。強烈な直感――を、彼女は感じたのだった。
この子が欲しい、という。
乙女の妻は仕事をしているが、風邪で体調を崩しているという。既に、乙女は妻に美冬の関係を示唆しており、チャンスだ――と彼女は思った。弱り果てた乙女の妻に恩を売るのだ。そして――愛らしいあの娘を手に入れる。
実際会ってみると乙女円は想像以上に美しく、かつ、聡明だった。小学一年生だというのに漢字を読める。利発で受け答えも完璧。……様々な家庭の子どもを見てきた美冬をもってしても、驚嘆させられるものがあった。いっそ、篤子の風邪が治らなければいいのにと思えるほどであった。
当然ながら乙女篤子は美冬の助けを借りたがろうとはしなかった。当たり前だ。が、こちらとて長年プロの仕事をしている。飯で服従させるなど、朝飯前だ。やがて、乙女紘一の提案により、美冬は乙女宅の家事代行をするようになるのだが――予期せぬ事態が訪れた。いや、このときを待っていたのかもしれない。
乙女篤子との二人きりでの対面。いざ外で会ってみると、病み上がりでコンディションがよさそうな篤子は、いかにもブルジョアといった雰囲気で、ネイルもきっちりと塗り、ピアスの穴も開けている――少々ふっくらとしてはいるが、見た感じ、恵まれた主婦といった印象だった。
この恵まれた女を裏で泣かせているのかと思ったら、誇らしい気持ちになった。美冬は、自分が主婦であることも忘れ。そして――あんな可愛い娘がいるのだもの、いっときだけ乙女を奪ったとてなんになる――罪悪など微塵も感じなかった。別に、篤子になにか騒がれたとて、信頼が揺るぐような仕事ぶりをしていない。ただ――。
想定外だった。篤子がまさか――最愛の兄の荒木英雄と交際しているとは。
思えば人生は予想外の展開だらけである。あの日あのとき、ホームで自殺しようと思わなければ、乙女紘一とも出会わなかったわけだし……母が再婚しなければ荒木英雄とも出会わなかった。人生は、偶然と思い出の連続である。
『いらっしゃいませお兄ちゃん』――そう声をかけたときに、背後で短い悲鳴が聞こえた。何事かと、周りの客もその女を見ていた。乙女、篤子を……。
そうして篤子は真実を告げる。今更失うものなどなにもないはずなのに。もしかしたらあの愛くるしい乙女円を悲しませているかもしれない事実だけが――美冬の胸を痛めていた。
*