テラーノベル
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音が、わずかに遅れて届いていた。
すぐ目の前で交わされているはずの言葉が、どこか遠回りして耳に入ってくる。空気の層が一枚挟まっているような、奇妙な隔たり。
澪は、その場に立ち尽くしていた。
すぐそこに蒼真がいる。
それなのに、踏み込めない。
近づけば壊れてしまう気がして、足が止まる。
向かい合う蒼真と男の会話だけが、断片的に届く。
「……逸脱したものは排除する」
その言葉が、やけに冷たく響いた。
蒼真の声が重なる。
「それが、この街を爆破した理由か」
「起こり得る破綻を、先に起こしただけだ」
男の冷徹な声が続く。
「偶然として広がる崩壊を顕在化させる。その中で通常から外れたものを特定する」
澪には理解しきれない。
しかし、蒼真は違った。
「……炙り出し、か」
「そうだ」
男はあっさり肯定した。
そのやり取りの中で、澪の胸に違和感が積もっていく。
この男は、人を見ていない。
ただ結果だけを見ている。
「逸脱したものは排除する」
「……それが、おれか」
「そうだ。お前は連鎖に従わない」
その一言で、すべてが繋がる。
蒼真の力。
結果を書き換える存在。
それが、この世界では”異物”になる。
「我々は個体ではない」
男の声が続く。
「世界の均衡を維持する処理機構の一部だ」
澪の呼吸が止まった。
この男は、人間じゃない?システムの具現化?
「この街だけではない。同様の処理は世界各地で行われている」
現実の大きさが変わった。
ここだけじゃない。
同じことが、世界中で繰り返されている。
蒼真は短く息を吐いた。
「……じゃあ、お前を倒しても意味ないな」
「ない、代替えはいくらでも存在する」
蒼真は小さく頷いた。
その目に、もう迷いはなくなっていた。
「じゃあ、止める」
「不可能だ」
「いいや」
蒼真は静かに言った。
「一箇所でいい」
「そこ、見えてる」
澪が振り向くと、ひながすぐそばに立っていた。
その目は、ここではない何かを見ている。
「全部が戻ろうとしてるところ」
ひなはわずかに目を細めた。
「その真ん中に、細いところがある」
ひなの声に反応し、蒼真の意識がそこに向く。
見えないはずの流れが、確かにそこにあると分かる。
「そこをずらしたら、戻れない」
男の視線がひなに向く。
だが、ひなは動じない。
ただ、蒼真を見ていた。
「……ひとつ聞く」
ひなに向けた言葉だった。
「ひなと会ったのって、偶然か?」
「違うと思う」
「じゃあ?」
「ズレた者同士は、引き寄せられる」
蒼真とひな。
どちらも、この世界から外れた存在。
だから、出会った。
蒼真とひなの視線が男に向けられた。
「やめろ」
男の口調が強くなる。
さっきまでの冷静で冷徹な姿は、もうない。
明らかに動揺している。
「それは全域に波及する」
「それでいい」
蒼真は即答した。
「もう、誰も選ばせない」
空気が裂ける音とともに、男がとてつもない速さで動いた。
蒼真の身体が強張る。
しかし、それでも反応しようとしる。
(間に合わない)
そう思った瞬間ーー
「違う、そこ!」
ひなの声と同時に、指先がわずかに動いた。
そして、世界がほんの一瞬だけズレる。
男の軌道が外れ、蒼真が踏み込んだ。
「当たるなーー」
光が満ちる。
音が消える。
すべてが見える。
流れが。
収束が。
そして、その中心が。
蒼真はそこに触れた。
消えかけた右手で。
それでも、確かに。
「これで終わる」
光が弾ける。
音が戻る。
崩壊が止まった。
連鎖が途切れた。
炎は広がりを止めた。
そしてーー
「……広がってる」
ひなが空を見上げた。
「全部止まってる。向こうも」
蒼真は途切れ途切れに息を吐きだした。
「……そっか。もう、選ばなくていいんだな」
ひなが大きく頷いた。
「うん。もう誰も切り捨てられない」
蒼真は、安堵の笑みを浮かべた。
そのときーー
世界から、音が一つ消えた。
さっきまでどこかで鳴り続けていたはずの爆発音が、唐突に途切れた。
遠くで傾いていたビルが、崩れきる直前で止まり、落ちるはずだった瓦礫が、空中で引き留められたみたいに動かなくなった。炎は、広がりかけた形のままで凍りついた。
ーー続かなかった。
その”先”が、どこにもない。
すこし遅れて、周囲のざわめきが戻ってきた。
「……止まった?」
「なんで……」
誰かのスマホが震え、どこか見知らぬ国の街の映像が映し出された。
夜の高速道路。
崩壊しかけた橋が、そのままの形で止まっている。
別の映像では、炎上していた施設の火が広がりをやめ、消えていこうとしている。
さらに別の場所では、倒れるはずだった塔が、傾いたまま持ちこたえている。
すべてに共通している。
”続き”が起きていない。
どこからともなく、ニュースの音源が流れてきた。
『世界各地で確認されていた連続的な爆発・崩落ですが、現在、すべての発生が同時に停止していますーー』
男の輪郭が、静かに崩れていった。
まるで砂が風にさらわれるように、その存在は形を保てなくなっていく。指先から、腕へ、胸へと、均等にほどけていくその様子には、痛みも抵抗も見えなかった。
ただ、そこにあったものが維持できなくなっただけのように。
そして、何も残らなかった。
音もなく、痕跡すらなく、男は消えた。
その瞬間、世界がわずかqに息をついたように感じられた。
張り詰めていた何かが、ふっと緩む。
遠くで鳴り続けていたはずの音が、一つずつ消えていく。
爆発音が途切れ、崩れかけていた建物の軋みは止まり、炎は広がりをやめた。
澪は、ただ立ち尽くしていた。
理解は追いつかない。
けれど、確かに分かることがある。
ーー終わった。
何かが、確実に。
ひなはずっと空を見上げたままだった。
そして、静かに口を開いた。
「……切れた。……繋がっていたもの全部」
その言葉の意味も、澪は完全には理解できない。
それでも、感覚として伝わる。
もう同じことは起きない。
どこでも。
誰に対しても。
選ばれるために壊されることは、もうない。
蒼真が、ゆっくりと息を吐いた。
どこか遠くを見るような目をしている。。
もう、感じない。
あの、どこまでも続いていた”流れ”。
得体に知れない圧迫感。
すべてが終わりかけていた。
崩壊は止まり、連鎖は消えていく。
「……そっか」
その一言には、迷いがなかった。
何が起きたのか、理解している。
そして、それが何を意味するのかも。
「蒼真!」
澪が叫んだ。
さっきまで躊躇していた距離なんて、もう関係なかった。
しかし手を伸ばすと届くはずの距離なのに、触れられない。
指先がすり抜ける。
蒼真の身体が、ほどけていく。 輪郭が曖昧になり、光の中に溶けていく。
「なんで……!」
澪の声が震えだした。
澪は何度も何度も手を伸ばした。
それが空を切っても、届かないとわかっていても。
「昔からそうじゃない……」
感情が溢れ出す。
止められない。
「うまくいかなくても、手をさしのべてくれる……」
澪は一度、言葉を飲み込んだ。
「それ、ちゃんとわかってたのに……周りの目を気にして、怖くて、距離を置いてしまった……」
涙が溢れ出し、視界が滲んだ。
「でも今は、離れたくないって思ってる……!」
蒼真は目を細めた。
どこか懐かしそうに、そして、嬉しそうに。
「……ありがとう」
静かな声だった。
「行かないで……!」
澪はさらに手を伸ばした。
蒼真が涙で滲む。
「……泣くなよ」
あの頃と変わらない、少し不器用な蒼真の笑い方。
ひなが、澪を見上げた。
「近かったものほど、ズレたときに気づく」
ひなの言葉が、静かに胸の奥へ沈んでいく。
その意味を、澪は考えようとした。
けれど、うまく掴めない。
なにか大事なことに触れかけているはずなのに、指の間からこぼれていくように、形にならない。
目の前にいるはずの存在に視線を向けると、確かにそこにいる。
いるはずなのにーー
輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。
さっきまで見えていたはずの細部が、思い出せない。
表情がぼやけ、声が遠のく。
名前を呼ぼうとして、澪は息を詰めた。
ーーなんて呼んでいたんだっけ。
分かっているはずなのに、言葉にならない。
喉の奥で、音だけが空回りし、焦りが胸の奥で膨らんでいく。
消えていく。
何かが、確実に。
どうしてこんなにも、離したくないと思っているのか。
理由が分からない。思い出せない。
でも、気持ちだけがはっきりと残っている。
とてつもなく強く。
澪は、無意識に一歩踏み出していた。
届くかどうかなんて考えずに、ただ手を伸ばした。
触れられない。それでも、やめられない。
目の前にいる誰かを失いたくないという感覚だけが、身体を動かしていた。
雨の匂い。
滑りそうになった足。
引かれた手。
断片的な記憶が脳裏をかすめる。
しかし、それもすぐにほどけていく。
はっきりとは思い出せない。
それでも、大切なものだったということは分かる。
だから澪は視線を逸らさなかった。
分からなくなってしまうことから、逃げない。
たとえ、何も思い出せなくなっても。
この感覚だけは、手放さないと決めた。
胸の奥に残る温度を確かめろように息を吸い、静かに言葉にした。
「……また、好きになるから」
理由はもう分からない。
それでも、そう思えた。
「ちゃんと残るから」
蒼真の言葉が、すんなりと胸に落ちる。
理由は分からない。でも、信じられる。
ひなが小さく頷いた。
それを見て、蒼真は目を閉じた。
そして再び開かれたその目には、もう何の迷いもなかった。
やり切ったという確信だけが残っている。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
蒼真の身体は、光の中に溶けていった。
指先から、腕へ、肩へ。
静かに。確実に。
そして、完全に消えた。
何も残らなかった。
風がわずかに吹く。
澪は、その場に立ち尽くしていた。
手を伸ばしたまま。
涙が止まらない。
何かを失った。それだけは、はっきりと分かる。
でも、それが何か分からない。
名前も、顔も、思い出せない。
ただ、確かな感覚だけが残っている。
あの温度。
あの瞬間。
あの人は、確かにそこにいた。
「ちゃんと残したから」
その言葉の意味は、やはり完全には分からない。
しかし、胸の奥に消えないものが確かに残っている。
世界は、何もなかったかのように続いていく。
朝が来て、人が歩き、日常が戻る。
同じ連鎖は、もうどこにも起きない。
名前はない。
記録もない。
それでも。
確かに、そこにあった。
誰にも知られないまま。
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