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お昼休み。
男性ばかりの職場で、ひとり大人しく自席でお弁当を食べていたら、携帯に知らない番号からの着信。
いそいそとお弁当箱にフタをして席を立つと、廊下で恐る恐る電話に出る。
『戸倉さん、緒川だけど分かるかな?』
相手は、前に同じ班で働いていた年上の男性だった。
『急に連絡してごめんね。えっと――突然なんだけどさ。明日の昼休み、俺の車が停めてある駐車場まで出てきてもらえない……?』
会計年度任用職員――いわゆる市役所の臨時職員――として働く私は、ひとところに長くいられない。
ひと月ちょっと前に配置換えがあって、私、今は緒川さんのいる都市開発課とは違う課――下水道課――に配属になっている。
当然その時点で電話の彼――緒川さんとの接点も皆無になったはずで。
半年間お世話になった都市開発課を去るときに、くだんの緒川さんも含めた同じ班――公園みどり班――の皆さんから、お別れ会を盛大にして頂いて、可愛い花束までプレゼントされたのだ。
なのに。
あれから1ヶ月も経とうという頃になって……今更何の用だろう?
緒川さん、無口でちょっぴり怖いなって思っていた人で、正直同じ班にいた時にもそれほど接点はなかったはず。
そう思いはしたけれど、打ち解けていなかったが故に、そんな年上男性からの呼び出しを断れるほど、私はまだ世渡りが上手くなかったから。
「……わかりました」
よく分からないままにそう返事をしてしまって……約束の日時。
指定された駐車場に出向いた私を、車の中に誘うなり抱きしめて、緒川さんが言った。
「今日は俺の誕生日なんだ」
緒川さんに抱きしめられていることも、彼から告げられた言葉の意味も、私にはさっぱり理解できなくて。
だから、何?
それがその言葉を聞いた時の率直な感想。
流されやすい私は、抱きしめられているというこの状況をどうすべきか、元上司みたいな存在だからと気安く男の人の車に乗り込んだところも含めて反省しながら考えないといけない。
「……お、おめでとうござい、ます……?」
混乱する頭を抱えて腕の中で何とか無難な言葉を模索する。
そうしておいて、現状を打開すべく「あの……」と恐る恐るつぶやいて身じろいだら、やっと力を緩めてくれて、真正面から見つめられた。
「急に抱きしめてすまない。来てくれたのが嬉しくてつい」
そんなことを言ってはにかむ緒川さんは、私の知らない彼だった。
この人、こんな子供っぽい顔して笑ったりできるんだ。
それを意外に思っていたら――。
「……!」
あごを捕らえられて、いきなりのキス。
ほんの一瞬唇と唇がふわりと触れるだけの軽いものだったけれど、私を凍りつかせるには十分すぎる行為だった。
「……いっ!」
いきなり何するんですか!
そう言いたいのに、緒川さんはまるでその先を私に言わせたくないみたいに言葉を被せる。
「あの、さ――。もし……今キスされたのが嫌だと思わなかったなら、誕生日プレゼントだと思って俺の彼女になってくれないか?」
言うなり、唇を指先でなぞられて、私は言葉を失った。
嫌だと思わなかったなら――?
そう言えば私、びっくりはしたけれど嫌じゃ……なかった。それって……。
今までただの上司ぐらいに思っていた、かなり年上――恐らくアラフォーの男性。
背がすらりと高くて、いわゆるイケオジという部類に入るのだろうけれど、別に好みの顔ではなかったから。
当然恋愛対象だなんて目で見たことはない。
それなのにいきなり〝そういう目〟で見て欲しいと言われて、正直私はどうしたらいいか見当がつかなかった。
「あ、あの――、でも、私……」
何もかもがよく分からないままにソワソワしながら言葉を紡ごうとする私を、緒川さんが不安そうに見つめてくる。
その視線がすごく痛くて、「でも、私」の先が出てこない。
本当は「好きかどうか分からないのでお付き合いは無理です」と続けるのがベストだと分かっているのに。
と、唇に触れていた緒川さんの指先が、不意に口の端に添わされた。
そうして「え?」と思う間もなく、ハーフアップにしていた、肩より少し長い髪の毛をギュッと掴まれて、顔を無理矢理上向かされる。
「やっ、――んっ!」
気が付くと、まるで断ることを許さないみたいに、またしても強引に唇を塞がれていた。
2度も、同意すら求められず奪われた唇に驚愕した私は、声を上げたと同時、すかさず口の端に差し込まれた指の真意に気付けていなくて。
今回のはさっきみたいな軽いキスではなくて、指のせいで出来た隙間を縫うように舌が侵入してくる、ディープキスだった。
その、慣れない行為に思わずギュッと身体に力が入ったけれど、基本何かされることに従順な私は、侵入してくる舌に噛み付いたりしようとは思えなくて。
そればかりか、優しくすり合わされる舌が何だか心地よくすら思えて、ふにゃりと意識がとろけそうになる。
私、幼い頃から強引な人に弱くて、強く出られるとその人に流されてしまう悪癖があった。
別に押さえつけられて育ったわけでも何でもないのに、本能的にそうしておけば周りの機嫌を損ねないことを知っていたから。
強い者に阿っているつもりはないのだけれど、結果的にはそう見えるんだと思う。
4つ年の離れた姉に、あんたのそういうところが見ていてイライラすると言われたことがある。
こんな、ある意味セクハラだと思えるようなことをされてしまった時でさえも、私はそんなお馬鹿な本領を発揮してしまう。
ひどい!と相手を罵って引っ叩くことさえ出来なくて、ただただ呆然と彼を見つめる私に、
「強引でごめん。けど……年甲斐もなく、キミが堪らなく好きなんだ。――ダメ……かな?」
緒川さんが懇願するようにそう問いかけてきた。
これは、息が上がるほど気持ちいい強引なキスをたっぷり私に施して、唇を離したのと同じ人?
思わずそう戸惑ってしまうくらいの、不安そうで今にも泣き出してしまいそうな顔で覗き込まれた私は
「…………ダメじゃ……ない、です」
その心許なげな表情にほだされるみたいに、半ば無意識にそう答えていた。
私、子供の頃からいつもそう。
求められたら嫌と言えない。
好きだと言われたら、絶対無理だと言う相手でもない限り、応えたいと思ってしまう。断れない。
攻略しやすい、チョロい女の子だ。
私に言い寄る男性は、もしかしたら本能的に私のそんな一面を見抜いているのかも知れない。
告白してくれる人はいつも大抵すごく強引。
その癖、ここぞという場面では情に訴えるように甘えた顔を見せて私を翻弄する。
そう。今の緒川さんみたいに。
自分でもこんなことじゃよくないと思う。
でも直せないの。
そうして情にほだされやすい私は、強く求められて付き合ったはずの相手に、いつの間にか切なくなるくらいのめり込んでしまう。
愛情を注がれたら、その人の良いところばかりを探して、欠点を見られなくなる。
嫌なところに気付いても、見なかったことにして目を逸らしてしまう。
そう、きっと今回も――。
嬉しそうに「ありがとう」って笑う緒川さんに抱きしめられながら、そんな予感がした。
***
緒川さんの38歳の誕生日に告白をされて、何だかよく分からないままに流されるように重ねてしまったデートも、今回で4度目。
1回だけなら気の迷いだと言えたと思う。
でも、2回、3回と続けてしまったら、それはもう立派に自分の意志、だよね。
あの日。
緒川さんは私に、彼の彼女になることをダメじゃないと言わせた後で、「――ただ、俺には妻と子供がいるんだ。妻に対して恋愛感情はないけれど家族としての情はある。それを分かって欲しいんだ」と言った。
私にはその詭弁にも聞こえる言葉の意味がサッパリ分からなくて。
「あ、あの……それはどう言う……?」
混乱する頭で何とかそう問いかけたら、「戸倉さんと結婚することは出来ないって意味だよ」って悲しそうな顔をするの。
それは私に愛人になれ、と言っているってことなんでしょうか?
23歳で世間知らずの私にも、さすがに妻子ある男性との色恋は御法度だと言うことは分かる。
「そ、れなら私――」
今の話はなかったことにして欲しい。
そう言いたかったのに。
「俺からのキスを受け入れた時点でもう後戻りは出来ないと思わない? それに……家族にはなれない代わりに、俺は戸倉さんに恋人としての愛情は惜しみなく注ぐつもりだから」
そう畳みかけられて、今更御破産には出来ないのだと示唆されてしまう。
ズルイ、って思った。
引き返すことも、未来を夢見ることも叶わないのだと宣言された恋に、何の意味があるのだろう?
「戸倉さんはまだ若い。キミが本気の恋をするって決めたら、その時は潔く身を引くから。――だからそれまでの間、キミの時間を俺にくれないか?」
緒川さんとお付き合いしていることが前提なのに、別の相手と巡り会うことを想定するなんて。それって……結婚相手を得るためならば、浮気も自由にしていいよ、ということですよね?
普通なら嫉妬をしてくれるであろう、他の男性をにおわせるシチュエーションも、「俺には怒る資格はないからね」って線引きされた、そんな恋。
私は人一倍結婚願望が強い。
そんな私にこんな提案あんまりだよ。
そう思って泣きそうな私の心も知らぬげに、「一緒にいる間は絶対に寂しい思いはさせないから」と緒川さんが宣言する。
「私、彼氏には毎日……。それこそ四六時中何かあるたびに電話しちゃうような面倒くさい女なんです」
家にいらっしゃる時、電話してもちゃんと応じてくださるのですか?
おはよう。
行ってくるね。
今何してるの?
帰ったよ。
おやすみ。
そんな他愛のないやりとりを、日々重ねられる相手じゃないと私は無理です。
恋人が出来ると、途端相手に対する依存度が高くなる私は、相手からの束縛をすごく好む。
付き合っている人には朝から晩まで私のことを縛っていて欲しい。
「結婚なさっている緒川さんには、とてもじゃないけど手に負えませんよね?」
言って、抱きしめられたままの身体をそっと引き剥がしたら、
「なんだ、そんなこと」
ってクスリと笑われて。
「むしろ俺、そういうのが好きなんだけど、関係が関係だしセーブしなきゃって思ってたんだ。そんなこと言ってたら俺、〝菜乃香〟のこと、ホントにがんじがらめにしちゃうけど、いいの?」
いきなり呼び名を〝戸倉さん〟から〝菜乃香〟に変えてきたのはきっとわざとですよね?
私が本気の恋をしたらすぐに手を引くと言ったのと同じ口で、そんなことを聞いてくるなんて。
あなたの本心は、一体どこですか?
***
前回までは日中に街へ出て買い物をしたり、動物園に2人で行ったり、あてもなくドライブをしてみたり。
まるで学生同士のデートみたいなお出かけだったのが、4度目のデートに当たる今日は、初めて夕方に待ち合わせをしてディナーを一緒に、ということになって。
日没後に待ち合わせというだけで、何だか一気に大人な雰囲気になった気がして、正直戸惑ってしまった。
私たちの関係はなんだろう?
お付き合い……している、って言えるの?
行ったことのないようなコース料理の振る舞われるイタリアンレストランには、グランドピアノの生演奏が流れていた。
その雰囲気に飲まれたみたいに、私はフラフラになるまでお酒を飲んでしまった。
私の横、緒川さんは落ち着いた様子で食事とともに白ワインをゆっくりと嗜んでいらして。
その横顔に大人の余裕を感じながら、私は甘めのスパークリングワインをいそいそと口に運ぶ。
緒川さんは年齢――私の15歳上の38歳――より遥かに若く見える。
少しふわりとした印象の髪の毛は、天然パーマらしい。
白いもののほぼないツーブロックのその髪の毛は、いつも綺麗に手入れがされていて寝癖がついているところなんて見たことがない。
それすら大人の余裕に感じられて、何もかもに余裕のない私にはうらやましくさえ思えて。
私、今日は肩よりほんの少し長めのゆるふわウェーブの髪の毛を、ハーフアップの要領で両サイドからゆるりと編み込んで、真ん中で合流させてバレッタ留めにしていた。
けれどそれにしたって、実は寝癖を誤魔化すために他ならないの。
跳ねたりしていなかったら、綺麗にブローしてどこも結んだりしないでこの場に臨んはずだ。
4回も2人きりで出かけていると言うのに、私はまだ彼と何を話したらいいのかよく分からない。
会話をしていても、彼の言葉はいつも私が思うよりワンテンポ遅れて返ってくるから余計に話しづらい。
質問したのに答えてもらえない気持ちになって、どうしよう? 聞こえなかった?って思い始めた頃にポツリと返事がある感じ。
そのテンポのズレが何だか落ち着かなくて……一緒にいても、いつもソワソワと居心地が悪かった。
それは今日も一緒で――。
何となく、その間が怖くて私からは言葉を発せられないでいる。
***
「菜乃香、もしかして……俺といるの、まだ緊張する?」
テーブルにのせたまま所在なくモジモジさせていた私の手を、さり気なく握ってくる緒川さんに、私は小さくうなずいた。
緒川さんって、言葉は少ないし、返事は基本ものすごい熟考型のくせに、行動だけはいつも迷いがなくて素早い。
握られた手から緒川さんの温かな熱が伝わってきて、心臓がバクバク跳ねる。
正直そんなに好みの顔ではない彼なのに、何故か一緒にいる時間が長くなればなるほど、少しずつ異性として意識してしまう割合が高くなっている。
ダメだって思うのに、ズルズルと彼に引き摺られているうちに求められると答えたくなる私の悪い虫が徐々に頭角を現してきて。
ずるい男だと分かっているくせに、少しずつでも仲良くなりたいって思うようになってきてしまっている。
でも、その糸口がつかめなくて凄くもどかしい。
「そっか。実はこう見えてさ、俺も結構緊張してるんだ。菜乃香みたいに若い女の子が俺みたいなおじさんと一緒にいてくれるの、まだ信じられないし」
口ではそんなことを言いながら、全然そんな素振りなんて見せない彼が憎らしくさえある。
「ね、菜乃花。お酒を飲んだら少しは緊張がほぐれるんじゃない?」
ギュッと包まれた手に力が込められて、私はその大きな手の温もりに、慌てたようにコクコクと首肯したのだ。
***
「甘いのがいい?」
お酒は飲みつけていないよね?と言外に含められた私は、ここでやっと、「はい」と声に出して答えられた。
「じゃあ――」
緒川さんのお勧めで、甘めの飲みやすいスパークリングワインを出されて。
それまで飲んでいた炭酸水と交換される。
琥珀色の液体が注がれたシャンパングラスに、小さな気泡がプツプツと上がる様がとてもお洒落で、一気に大人になった気がした私は、それだけで何だか浮き足立って。
飲み慣れた甘い炭酸ジュースみたいな味にほだされて。白ワインをゆっくりとしたペースで飲む緒川さんを横目に、気がついたらハーフボトルをひとりで空けてしまっていた。
頭がぼんやりしてきて「あ、まずい」って思った時にはすでに手遅れ。
自力ではまっすぐ歩けなくなっていた。
***
「菜乃香、大丈夫?」
いつの間にかお会計を済ませたらしい緒川さんに肩を抱かれてレストランを出た私は、不意に吹き付けてきた冷たい冬の風に身体をすくませた。
そうして、この寒さにさらされてもなお、膜がかかったみたいにぼんやりした頭で思う。
何やってんの!って。
「ちょっと酔いを覚ましたほうがいいかな。……車までは距離があるし、キミの足取りも芳しくない。近くのホテルに入るんで、いい?」
そこで不意に腕時計に視線を落とした緒川さんを見て、今何時だろう?と思う。
待ち合わせてお店に入ったのは、確か19時過ぎだった。
コース料理とは言え、そんなに長居はしていないと思うから、きっと21時過ぎたくらいかな?
私とこんな風にしているけれど、緒川さんは奥さんもお子さんもある身。
時間が気にならないわけないよね。
素面だったなら、その仕草を見た瞬間に私、ハッとして「帰りますっ!」って言えたと思う。
だけどお酒に判断能力を奪われた私は、そんなことさえ思いやれなくなっていて。
今日を退けて今までで3回。
こんな風に緒川さんとふたりきりでお出かけしたりはしたけれど、実は彼と私はキス止まり。
肉体的な関係には至っていない。
キスにしても告白された日にされたっきり。
手を出されないことで、いつの間にか私、ある意味安心していたの。
デート自体いけないことだと分かっていながら、身体のラインさえ越えなければセーフだと言えるんじゃないかとバカなことさえ思っていて。
私は本当に愚か者だ。
ぼんやりと霞のかかったような頭で、緒川さんを見上げて「ホテル……?」とつぶやく。
自分の声が、自らが発したものじゃないみたいに遠くで聞こえて、ああ、まずいなって頭の片隅で冷静な私が警鐘を鳴らした。
ホテルはダメ。
そこはボーダーラインの向こう側の行為をする場所だから。
そう思うのに、
「そう、ホテル。もちろん、菜乃香が嫌がるようなことは絶対にしないって誓うよ。――ダメ、かな?」
肩を抱いた私の耳元、甘く落ち着いた低い声音で強請るようにそう問いかけてくるの、本当にズルイ。
私はその声に流されるように
「休むだけなら……」
そう、答えてしまっていた。