「なぁ羽理。まさかお前、俺と一緒にいねぇときに指輪、外してねぇだろうな?」
結局、仮初として買った指輪は、正規の婚約指輪――プラチナリングの上で、ゴールドで出来た猫がダイヤをボールに見立ててたまを取っているデザイン――と重ね付けする形で、羽理の左手薬指を飾っている。
大葉自身も、羽理とお揃いというだけで仮初のリングをかれこれ二ヶ月ちょっと付けたままだ。
先日ふと何の気なしに指輪を外してみたら、常に指輪がはまっていた部分がちょっぴり痩せていて、いかにもここに指輪がありました、という状態になっていた。
「な、なんですかっ」
羽理が訝るのを無視して渡したばかりの取り皿をテーブルの上へ置かせて重ね付けされた羽理の指輪を外してみたら、彼女の指も自分と同じようになっていてホッとする。
「ちゃんと俺の言いつけを守って指輪、外さずに過ごしてるみてぇだな」
スリスリと愛し気にちょっとだけ細ッとなった彼女の指の付け根を撫でると、羽理が「くすぐったいですっ」とクスクス笑った。
***
三ケ月ぶりに土恵商事へ戻ってきた荒木羽理は、出社して荷物を置くなり大葉に連れられて、かつての古巣――財務経理課へ出向いた。
「羽理ぃーっ!」
羽理が姿を現すなり、すぐさま椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がって駆け寄ってきた法忍仁子にギューッと抱きしめられて、羽理はうるりと瞳を潤ませる。
「もぉー、この子は! ちょっと見ない間に立派になってっ!」
お母さんですか!? というセリフを吐きながら羽理を涙目で見詰めてくる仁子に、財務経理課の時とは違ってきっちりしたスーツに身を包んだ羽理は、「えへへー。中身は全然変わってないんだけどねぇー」と涙目のままはにかんだ。
「いえいえ、中身もかなりグレードアップして戻っていらしたと屋久蓑副社長からお伺いしていますよ? 僕としても荒木さんを手放したのは惜しいくらいですが、もううちの課では手に余る存在に成長されたとか。――そうですよね? 大葉さん?」
仁子の背後から、倍相課長にふんわりとどこか含みのある表情で微笑まれて、調子に乗った大葉から「ああ。俺の自慢の婚約者兼、専属秘書だからな。もう財務経理課へは返せんぞ?」と肩をガシッと掴まれる。
会社では基本〝屋久蓑副社長〟と呼んでいる癖に、私情を滲ませたように〝大葉さん〟と呼び掛けた倍相課長は、財務経理課にいた時には気付けなかったけれど、結構な腹黒策士さんだと思ってしまった羽理である。
倍相課長に焚きつけられたように肩へ載せられた大葉の手をペシッと叩いて排除すると、羽理は改めて元同僚たちを見回した。
何だかんだいって馴染み深い雰囲気に、もうここへは戻って来られないんだと実感すると、やっぱり寂しいなという思いがこみ上げてきた。
(あ……)
別に彼女の存在を忘れていたわけではない。
だけど……やっぱり自分の場所を奪われたとちょっぴり恨む気持ちが心の奥底深くに潜んでいたんだろうか。
仁子と倍相課長の背後へ隠れるようにして、ほんの三ケ月前まで自分が使っていた席で、立ち上がってはみたもののどうしたらいいのか分からないみたいに呆然と立ち尽くしたままの美住杏子に気が付いた羽理は、慌てて指の腹でサッと涙を拭った。
羽理を大葉のそばへ配置転換して、美住杏子を他社から財務経理課へ引き抜いたのは社長の意志だ。
美住杏子に罪はない。
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