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ハルマイトの優しい声色で力強く促されると、叱られた犬のように大人しくレンナは寝台へと戻り、ところどころがほつれた布団をかぶった。少女の恨めしそうな眼差しに見送られ、ユカリとハルマイトは円い家を出る。視線を感じる農村を突っ切って、明るい緑の畑道まで戻る。夏の計らいで燦々と降りそそぐ日差しは緑も土も輝かしく装わせる。
「しばらくぶりだね、ユカリ」とハルマイトは言った。「トイナムの港町では世話になったよ。本当に」
ユカリは自分の中にある縋りたくなるような細い希望を断ち切るように語気を強めて断言する。
「パピだよね。それも屍使いの術? ハルマイトの体、真っ黒になってたのに」
似たような革鎧を身につけてはいるが、下ろし立てのようだ。それも当然だ。あの港町で、チェスタの熾した魔法の火によってほとんど燃えてしまったのだ。
「そうそう。まあ、見た目だけだけどね。それにしても焦ったよ、まったくもう」ハルマイトの見た目と若々しくも雄々しい声に似つかわしくない子供っぽい口調でパピは言った。「振りとはいえ危なっかしいことをしてくれるね。君が大切な大切な霊薬を無駄にすることなんてできないだろうに。はったりにもなりゃしないよ」
「そうだね。出来ない」ユカリは合切袋に手を突っ込んで霊薬から片時も手を離さずに言う。「でも、レンナに手を出したら、レンナが死んでしまったら躊躇なく叩き割る。もう使い道が無いんだから」
パピは苛立ちを隠さず答える。「はあ!? 馬鹿じゃないの? その時はユーアに使うしかないじゃん」
ユカリはそれには答えない。そのような選択肢は与えない。
「ふうん。じゃあ、僕が他の誰かに手を出したらどうするのかな? やっぱりその霊薬は叩き割るの?」
ユカリは己の心を締め付けて、焚書官の検閲に立ち会う時のように淡々と答える。「誰かを傷つければハルマイトの家族、若い順に優先して霊薬を使う。分かり切ってるでしょ。この薬はハルマイトの物なんだから」
ハルマイトはその表情に苛立ちを見せないように苦心しているようだったが、ユカリには手に取るように分かった。
「へえ、意外と割り切ってんだね。じゃあ、僕がお前に手を出した場合は?」
「答えは何も変わらない」
「でもお前が霊薬をあの子供に使ったら、その後は僕だって腹いせに何しちゃうか分かんないけどねー」
「それはあなたが決めればいいことだよ、パピ。どっちにしても膠着状態だね」
ハルマイトは鼻っ面にしわを寄せ、忌々し気に舌打ちする。
ユカリは覚悟を決める。話は簡単だ。残るは実力行使のみだ。パピはユカリから霊薬の瓶を奪ってしまえば良い話で、ユカリはパピを再起不能にすれば良い。
パピやその他の連中の正体は分からないが、ユーアのように魔導書に頼らずして人形遣いの魔法を行使し、人々を操っているのは間違いない。今、操作出来るのはハルマイトの亡骸だけなのだから、奪ってしまえば良い。
「そうなると、やれることは限られてくるね」とハルマイトは言った。
「回りくどいのは嫌いなんでしょ?」とユカリは言った。
「ん?」と言ってハルマイトがユカリの後ろへ、クル村の方へと視線を向ける。
馬鹿々々しいはったりだとユカリは思ったが確かに誰かが近づいてくるようだった。小さな足音が近づいてくる。
「ハル兄さん、ユカリさん」少し掠れているがその明るい声音はレンナだった。「まだお話は終わらないの? お昼を食べようよ」
「レンナ」と言ってユカリはハルマイトから目を離さず、レンナがハルマイトに近づかないよう制止する。「外に出ても大丈夫なの?」
「うん、少しくらい大丈夫だよ。温かい外の方が気分が良いくらいなんだ」
ユカリは霊薬の瓶を取り出す。どうせ実力行使するしかないのであれば、霊薬を渡してしまった方が話は早い。
「レンナ。これがハルマイトの手に入れた万能薬だよ」ユカリは霊薬をレンナの冷たい手に渡して説明する。「この薬は一見空っぽに見えるけど、空気で出来た魔法の薬なの。開けて一気に吸い込んで」
「おい! そんなことをすれば、僕が!」
「さあ、レンナ。早く!」
しかしレンナは硝子瓶を握りしめて、ユカリとハルマイトへ交互に視線を向ける。
「やめろ! ユカリ! レンナを殺さないでくれ!」
ハルマイトの顔に悲嘆に満ちた表情を浮かべてパピは言った。
「はあ!?」ユカリはハルマイトの作り物の顔を睨みつける。「何を言ってるの? こっちの台詞だよ!」
「レンナ! それを吸い込んじゃだめだ! それは人間が吸い込むと毒なんだ!」
レンナが驚いてユカリから飛び退く。怒りと恐れと哀しみが入り混じったレンナの表情がユカリを苛む。
「じゃあ、じゃあ、こんなもの。壊した方が」と瓶を覗き込んでレンナが呟く。
すかさずパピはそれを否定する。「それは駄目だ! 毒だけど、えっと、大切な毒なんだ。他に使い道がある」
「違う! 本物の霊薬だよ。万能薬だよ」ユカリはレンナに訴えかけるようなまなざしを送る。「それでレンナの病気が治るの。ハルマイトが苦労して、手に入れるはずだった、薬なんだから」
急に溢れそうになった涙を堪える。もはやレンナのユカリに向ける眼差しは不信を通り越して、敵意を宿していた。
「さあ、レンナ。その毒薬をこっちに持ってくるんだ。本物の万能薬は僕が持ってるんだからね」
レンナが意を決してユカリから離れようとしたのを見て、ユカリは凶悪的な【叫び声】をあげ、ハルマイトを指さす。
「あの男を押さえつけろ!」
ユカリの呼び声に応じて畑道の地面から土の人形が勢いよく盛り上がり、指をさされたハルマイトに躍りかかる。
「ハル兄さん!」
レンナの悲痛な叫びが熱い空気を切り裂く。ハルマイトは瞬く間もなく抵抗空しく守護者に殴り倒され、それでもまるで妹思いの英雄の如くレンナを呼び続ける。
「レンナ! 薬を! 僕に!」
「もういい!」とユカリはレンナにしっかりと聞こえる程度にはっきりと、それでいて出来る限り恐ろし気に脅し、ハルマイトとレンナの間に立ちはだかる。「その薬を私に返せ! 先にお前の兄に飲ませてやる! さあ寄越せ! さあ渡せ!」
ユカリの狙い通り、レンナは引きつった表情で踵を返し、畑の中へと逃げた。無理やりにでも飲ませるしかない、とユカリは腹をくくったのだった。できるだけ落ち着きを取り戻し、レンナにも聞こえるように守護者に大声で尋ねる。
「どれくらい離れられるんだったっけ?」
「吾輩は常に主の声の届くところにおりまする」
「なるほど。それならハルマイトから離れられると困るなあ! そのまま全力でパピを抑えてて」
畑に視線を戻すが、背の高い茄子の茂みでレンナの姿が見えない。小さな子供が掻き分けて揺れているだろう緑も風のそれと見分けがつかない。
レンナが飛び込んだ畑の先には白樺の林がある。そこまで逃げ込まれてはユカリが追い付いても守護者が土くれに戻ってしまう距離だ。
「レンナを助けたい。どこにいるのか知っているひとは教えて?」とユカリは何かに【尋ねる】。
「こっちにいるよー」と何かが答えた。
その声の聞こえた方向から考えると、やはり白樺の林に逃げ込もうとしているようだった。ユカリも畑に飛び込み、レンナを追いかける。しかし思いのほか足が速い。本当に林に逃げ込まれる前に回り込むつもりだったが、その小さな背中が林の中へと走り去っていくのが見えた。ユカリは風のような速さでレンナの後を追いかけ、白樺の木々の間を通り抜ける。