白樺の木々は昼の光を受けて、さながら古き神々の御座す神殿の、その高き天井を支える柱のごとく、粛として並んでいる。
ユカリはすぐにレンナの、痛ましい姿を見つけた。小さなレンナは土の露わな地面にうずくまり、胸を抱えてどろりとした血を吐いていた。追跡者の足音を聞いたレンナは身をよじり、硝子瓶を守るように、天敵に襲われた爪も牙もない小さな獣のように丸くなった。
「大丈夫?」とユカリは尋ねるが、青ざめるレンナはただ震えるばかりで何も答えなかった。
ユカリは何も言わずにレンナと地面の間をまさぐり、無力な手のひらの抵抗から苦労することなく硝子瓶を奪い取った。小さな少女は起き上がって、哀れな罪人がそうするようにユカリにすがりつく。
「やだ! やだ! 返して! それはハル兄さんの大切なものなんだから!」
ユカリは冷たく答える。「そうだね。これはハルマイトの大切な薬だよ。きっと無念だったでしょう」そして【叫ぶ】。「薬を飲ませる。レンナを拘束して!」
「御心のままに」御心に反する淡々とした言葉と共に守護者は現れ、レンナを軽々と持ち上げた。
背後から迫る気配から逃れるようにユカリは横へ飛び退くが、その何かが勢いよくユカリの肩をかすめ、守護者にぶつかり、レンナもろとも吹き飛ばした。守護者とレンナはあえなく地面を転がり、白樺の木にもろに衝突する。
ユカリの目の前で両手足を丸太のように膨らませたハルマイトが身を翻し、ユカリと守護者を見据えて次の瞬間に備えていた。
ユカリは掠れ、震える声で呟く。「何をするの? 何てことを」
レンナのすすり泣きが聞こえる。守護者が緩衝になってなおレンナが死んでもおかしくない衝撃だった。
「考えてみればさあ。交渉の余地なんてないんだよ」ハルマイトは拳を握りしめ、今にも飛び掛からんとする構えで言う。「霊薬が無くなったところで、ユーアはただ喋れないってだけ。でもそこで転がってるがきは死んでしまうんだからさあ。初めから対等じゃなかったんだ。それなのにさあ。まあ、もういいけど」
パピの使った戦士の魔法、それ自体はありふれた魔法だ。肉体を強め、士気を上げ、頭脳を明晰にする各種の魔法を世の戦を生業とする者たちは身につけている。【怪力】を意味する単純な一文字や陳腐な薬草で手軽に戦士たちは己を高める。しかしパピ、あるいはユーアは未だ知る者の他にない応用を行って、人の叡智でもって神秘に近づき、その力を飛躍的に高めていた。
ハルマイトにぶつかられたユカリの肩がじんじんと痛む。衝撃で硝子瓶がどこかへ飛ばされてしまったことにユカリは気づいた。パピに気づかれていないことに賭けて、空っぽの拳を守るように構える。見える範囲に、霊薬は見当たらない。
「もういい。ハルマイトの体を取り戻そう。そこを動くな」とユカリは【命じた】。
ハルマイトは忌々し気に舌打ちをする。
「動くなと言われて誰が従うか」ハルマイトは吐き捨てるように言う。「僕がこれからどうするかは、自分で自由に決めるよ。誰にも指図されないし、誘導もされない。お前から薬を奪ってもよし。死にかけのがきにとどめを刺してもよし。あるいは」ハルマイトはユカリもレンナもいない方向へ視線を向ける。「霊薬ととんずらするもよし、だ」
ハルマイトの視線の先に硝子瓶が落ちている。霊薬の硝子瓶を拾い、遁走しようとしたらしい。しかしハルマイトの跳躍は叶わず、地面に足がくっついていたかのように無様に転ぶ。
「な、なんだよ! この靴は!」とハルマイトは身を起こしながら情けなく叫ぶ。
ハルマイトの革の長靴が地面にぴたりとくっついていた。
「首を刎ねろ!」の【叫び】と共に、ハルマイトのすぐそばへ近づいていた守護者は横薙ぎに剣を振るう。
そうしてハルマイトの体は人の形を失い、目に見えない亡霊のようなパピをどこかへと遠ざけた。
続いて聞こえた泣き声はどのような怨嗟の悲鳴よりも強くユカリの心を抉る。ユカリは虚を突かれ、駆け寄るレンナを止められなかった。兄の胸に伏して泣く少女にかける言葉は見つからない。
レンナが硝子瓶を拾い上げ、蓋を開ける。
ユカリは己の致命的な油断に言葉も出ず、飛びつこうとする。その必要はなかったが、そうさせたくはなかった。
レンナは怒りと憎しみと恨みの籠った瞳でユカリを見上げ、その中身を一息に吸い込んだ。
万能の薬だ。これで不治の病は治癒される。
しかし小さなレンナはその硝子瓶を何だと思っていたか、ユカリは忘れていない。それを服用した意味がユカリの心の奥底を掻き毟り、とめどなく涙を溢れさせた。
白樺の木漏れ日が、眠るレンナの頬を優しく照らしている。ユカリの膝を枕にして眠る少女を覗き込み、その前髪を払うとちょうど小さな瞳が開いた。レンナは目を何度か瞬かせる。
「だあれ?」とレンナが言った。
ユカリは少し思案して答える。「名はありませんが、皆は魔法少女と呼びます」
「魔法少女?」
「貴女の兄、ハルマイトの想いに応えるために、あなた方の知る野原の向こうの、そのまた野原の向こうにある遠き土地より遣わされました」
レンナは小さな体を起こし、ユカリと向き合うように地面に座る。涼やかで温かな辺りを見回し、他に誰もいないことを知ると、赤く腫れた目を拭う。ただ一組の長靴だけがそばに置いてあった。それを見つめて、レンナはおそるおそる尋ねる。
「ハル兄さんは?」
ユカリはきっぱりと答える。「お亡くなりに。その清い魂は肉体を飛び立ち、夏の水鳥と共に良き者たちの涙の流れる先へ赴くでしょう。彼の亡骸は私が丁重に埋葬致しました」
レンナは俯く。その表情はうかがい知れないが、ユカリはいつまででも待つことに決めていた。レンナは涙声でユカリに尋ねる。
「ユカリは?」
「全ての悪しき者に等しく降りかかるべき宿命により、打ち倒されました」やはりユカリはきっぱりと答える。「ハルマイトが致命傷を与えていたのです。彼女の亡骸は誰も寄り付くことなく祝福の枯れた隠者の土地に埋葬します」
レンナは間髪入れずに問いかける。「レンナは毒を飲んだのに、何で生きてるの?」
その答えにも、魔法少女は淀みなく答える。
「ハルマイトが冒険の果てに手に入れた並ぶことのない万能の霊薬を、私が貴女に、最愛のレンナに飲ませました。汚らわしき毒を浄化し、貴女を蝕んでいた死の病をも打ち負かしたのです」
レンナの乞うような睨むような視線をユカリは真正面から受け止める。
「レンナ、ハル兄さんと一緒に死のうと思ったのに」
「貴女の死を望むものなど、ケイパロンの頂から去り行く者の安住の地の果てまで、どこにも居りません」ユカリは静かに首を振り、諭すように言った。「どのような思いでハルマイトが危険を冒して霊薬を手に入れたのか、どのような思いで貴女のご家族が霊薬を待ち望んでいたのか、貴女は知らないはずがありませんね?」
レンナは小さな拳を握りしめ、何か恐ろしいものに耐えるように俯く。溢れた涙が地面に零れる。
「兄を想う貴女の涙はいずれルミスのせせらぎに合流し、気高き兄の魂を癒すことでしょう。大いに涙を流し、比類なき戦士の冥福を祈りなさい」
ユカリはその微かに震える小さくも温かい手を握る。小さなレンナはユカリの胸の中にすがりつき、堰を切ったように声を上げ、涙を流した。ユカリはその悲しみを拭うように、レンナの背中を撫でた。長く長く迸る哀しみを全て受け止める。
しばらくして、全ての涙を流しきり、落ち着きを取り戻したレンナが呟く。
「何で長靴だけ遺したの?」
動くなと命じてからしばらく言うことを聞かなかったからだ。ハルマイトを埋葬し、長い説得の後、ようやく長靴は彼の死を受け入れた。いずれにせよ、トイナムの町で燃え残ったのはこの靴だけだったらしく、他に形見として相応しいものは何もなかった。
「説明するのは難しいですが、つまりあの靴だけが無事だったということです」
「そっか。あの靴はね、ハル兄さんの愛用品なんだよ」
「そうなのですか。そうだったのですね」
レンナはくすくすと密やかに笑う。
「どうしました?」とユカリは静かに尋ねた。
「あのね。ハル兄さんのあの靴はとっても、これを言ったらハル兄さんは怒っちゃうんだけど、におうの」
「まあ、そうなのですか」
小さな子供の悪戯めいた笑顔は、ユカリのささくれ立つ心を優しく撫でた。
「それにね、ハル兄さんはね」
レンナから溢れ出る言葉はとめどなく、ユカリはその全てを余さず聞き逃さないように耳を傾ける。そうして、あのハルマイトとのたった二日間の冒険に思いを馳せた。
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