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結末を迎える少し前、空高く聳える水柱の頂で、しかし囚われの船団は平穏に揺蕩っていた。
夜明け前、冠鴎もまだ帆柱の上で眠り、脂の乗った鰯の群れを追う夢を見ている。
レモニカはモディーハンナと共に元の船の船室の一角で大人しくしていた。元人攫いの女、モディーハンナは相変わらず拘束されていて、空想的な姿のおどろおどろしい騎士に変じているレモニカの方を見ないように努めている。
船団が巨大な水の柱の上に持ち上げられているという兆候が指し示すもの、これから何が起きるのか、考えられる可能性は数多あるが、警戒すべき事象は限られていた。
ベルニージュやネドマリア、他の魔法使いたちは船団の強化を図っている。この柱の上から落とされるかもしれない。沈むかもしれない。流されるかもしれない。さらに高所へと運ばれるかもしれない。可能性は限りないが人間にできることは限界がある。たとえ魔術に長けた者たちでも可能性を絞って少しでも生存率を上げようと試みるほかない。
「おおよそ十年前でしたか? 人攫いが、特に子供の被害が激減したのは」レモニカは分厚い兜の奥で澱んだ泥を吐き出すような声で苦労して話す。
「……私に言ってます?」とモディーハンナは見知らぬ他人に対するように呟く。
「他に誰もいませんわ」レモニカは出来る限り恐ろし気に聞こえないように話す。「わたくし、あまり多くは存じていませんの。良ければお教えくださいませんか?」
囚われの女モディーハンナは禍々しい騎士姿のレモニカに背を向けたまま答える。「そうですね。十年と少し前、救済機構が人攫いという罪悪を最たる教敵に認定し、特務機関『救童軍』が設立されて、その年の内には被害が激減しました。救童軍に限らず、救済機構は超国家的に問題解決を呼び掛けて、大陸各地で多くの人攫いが投獄されましたから。中でも、かつて大陸一の剣士と謳われた救童軍総長ジェスランの活躍は目を見張るもので、人喰いの屍の山を築いたとか。そしてその数年後には大陸全土で暗躍していた組織人喰い衆の頭目サリーズが討伐され、以て最たる教敵人攫いの誅滅が宣言されました。救童軍の行く末については議論があったようですが、最終的には通常通りに解体となりましたね」
「モディーハンナさんも人喰い衆だったということですね?」とレモニカは確認する。
「はい。そうですね。私は連絡員のような仕事を任されていて、人攫いそのものには手を出していませんが……言い訳ですね。すみません」
「良く逃げ果せられましたね。救童軍から」
モディーハンナは自嘲気味に苦笑する。「別に逃げ果せてないですよ。言いませんでしたっけ? きちんと救童軍に捕まって、裁判を受けました。まだ若くて、所属したばかりってことで恩赦を授かったんですよ」
「そもそも人攫いは攫った人をどうしていたのですか?」知らないわけではないが、レモニカは当人から聞いておきたかった。
「どうしていたって……そりゃあ売り払っていましたよ。金持ちに、魔法使い。他所の大陸やライゼン大王国。中にはそのまま人食い衆になる者もいましたね。私は違いますよ。他の生き方を知らなかっただけです。でもそうですね。知らないふりをしていたって言うべきなのかも。レモニカさんはどうなんです? その呪い、ただの呪いじゃないですよね」
モディーハンナの背中に、兜越しに目を向ける。「この呪いについて何かお分かりになるんですか?」
「私も魔法使いの端くれなので。でも期待されるほどには分からないですよ。強力な呪いだなって思っただけです。それに、レモニカさんの認識とは少し違うかもしれませんが」
そこで言い淀んだモディーハンナに続きを促す。「何でもおっしゃってください。この呪いを解くことがわたくしの一つの目標なのです」
「目標。目標ですか。あくまで私の考え、目線の違いとでも言いますか。それって貴女に向けられた呪いじゃないかもしれませんよ」
レモニカは太い首を傾げる。
「どういうことですか? 現にわたくしが呪われているのですが」
「まあ、そうですけど。例えばそうですね。憎い隣人の飼っている犬の餌に毒を混ぜる、みたいな」
犬にたとえられてしまったことは気づかなかったことにして、レモニカはモディーハンナの言いたいことを理解する。「つまりこの呪いはわたくしを苦しめるためではなく、わたくしに近しい者を苦しめるためのものかもしれない、ということですわね」
「呪った者が分からないのなら、その意図も分かっているとは言えない。と、思いまして。まあ、憶測でしかないです。お気に障ったらすみません」
「いいえ。今までになかった視点です。参考に致しますわ。ありがとうございます」
レモニカは心から感謝した。ユカリやベルニージュであれば遠慮していたかもしれない指摘だと思った。ベルニージュはそんなことないかもしれない。
「こちらこそ、ありがとうございます」とモディーハンナは言った。
その言葉の意味を捉えかねてレモニカは兜に隠れて誰にも見えない微妙な笑みを浮かべる。「わたくしは何も致しておりません。ネドマリアさまを説得なさったことであれば、それはベルニージュさまです」
「……ああ、そうなんですね。でも、まあ、貴女にもお礼は言っておくべきかと。私も、学びを得ましたから」
その時、海の怪物に体当たりされたかのように船が一度大きく揺れる。それは魔法使いたちの数多くの予見の一つだ。レモニカもモディーハンナも造り付けの寝台につかまる。最初の一度以後の揺れが大きくないのは魔術師たちの努力の賜物なのだろうか。
モディーハンナがゆっくりと揺れる船に翻弄されないように寝台を伝って移動し、手近の窓蓋を押し開ける。世にも恐ろしい光景がその小さな窓の中に広がっている。船団の中心近くにいるために景色のほとんどは他所の船の横っ腹だが、それでも異様な海の有様をまざまざと見せつけられる。
まるで世界全てを押し流そうかという轟流に乗って船団は押し流されている。空を飛ぶ高さで海を行く。南へ。シグニカへ。大海嘯が押し寄せる。
滝壺のような轟音の中、再び船は大きく揺れ、レモニカはモディーハンナが窓から飛び出さないように騎士の籠手でつかまえる。その盗賊は体を竦ませたが、構ってはいられない。
流れは船を上下させ、窓から見える船団は繋がっていられるのが奇跡的に伸び縮みし、捻じれている。それでも一致協力して船同士をつないだ魔術はその持てる力で崩壊を防いでいた。
どれほどの時が流れたのか分からないが、長くはないはずだ。レモニカは船が静まり返っていることに気づいて体の緊張をほぐす。モディーハンナからも少し距離をとる、姿は変わらないが。
窓の景色は平凡な当たり前の海で、当たり前の風が吹き、当たり前の波を立てている。船と船が鎖や縄で繋がる船団はやはり異様な存在だが、モディーハンナの安堵した表情を見て、レモニカも安心しておくことにした。
しばらくして聞こえ始めた唸るような響きは、船団の人々の歓声だった。レモニカは窓から身を乗り出して船団を見渡す。人々が諸手を挙げ、抱き締め合い、笑い、泣いている。
その反応はレモニカには大袈裟なように見えた。この一か月ほどの災いは奇想天外ではあったが、危機を感じたことはほとんどなかった。彼らとて度重なる議論を重ねながらも、まるで日常生活を送っているかのようだった。もしかしたら魔法使いであればこそ分かる恐怖があったのかもしれないが。
夜の澱を浄めんと赤い朝陽が世を照らし、南の方向の船と船の隙間にシグニカの陸地が見えた頃、ベルニージュとネドマリアが戻ってきた。
「どうかなさいました?」とレモニカは尋ねる。
長く伸びた赤髪に陰るベルニージュの表情は、まるで船が大渦に閉じ込められて脱出できない状況に陥ったかのようだ。
「ネドマリアさん! これで勝ったと思わないでくださいね!?」とベルニージュが釘を刺す。
「初めてだよ、勝った人にそれ言われるの」とネドマリアは苦笑する。
奇妙な会話にレモニカは戸惑うばかりだった。
ネドマリアが噛み砕いて説明する。「ちょっと競ってたんだよ、船団の防備でね。簡単に言えば、十対一で勝った人が相手の一点に物言いしてきてるの」
「十対一ですか?」とレモニカが確認するとネドマリアが肯定する。「ベルニージュさま、あとでちょっとよろしいですか?」
この魔法使いの少女は、この未曽有の危機的事態に競争の公平さを重んじて魔導書を使わなかった可能性がある。
「わあ、すっかり平穏だねえ」とベルニージュは窓を覗いてわざとらしく言った。