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護女ノンネットとの会話が途切れてからも、ユカリたちは平穏な海をじっと見つめていた。
約束通りにベルニージュやレモニカを返してくれ、とフォーリオンの海を問い詰めるのが怖かった。こればかりは間違いなく魔法の誓いを交わしたのでフォーリオンとて破るはずはない。しかし魔法の誓いは罰を強制するものであって、誓いを決して破れないわけではない。まさか嫌がらせのためだけに魂を譲渡する罰を受けるはずもない、とユカリは心の中でおまじないのように繰り返し唱える。
しばらくして水平線に奇妙な影が見える。まるで小さな島が流れ着いたかのようだ。
「グリュエー」
「見てきた。船が寄り集まってる。グリュエーたちが乗ってた船もあるよ」
ユカリは感極まって体を震わせつつも、風のグリュエーも船に乗ってたことになるの? という、どうでもいい疑問が冷静さを保たせてくれる。
「結局、カウレンの城邑の呪いはどうするの?」とユカリは気づかわしげにノンネットに尋ねる。
青銅像を取り戻すことが町にかけられた亡霊の呪いを解くための約束だったのだ。はからずもユカリと似たような境遇にあったノンネットは、ユカリが海との約束を果たしたために亡霊との約束を果たせなかったということだ。
「仕方ありません」ノンネット気だるげにため息をつく。「気は進みませんが、何も亡霊の同意を得なければ昇天させられないわけではありませんから。出来れば納得づくで行いたいことですが」
「ごめんね。ノンネット」
「エイカさん、本当に悪いと思ってます?」
ユカリはまごつきつつ答える。「私に非がなかったわけではないから。同じ状況になれば同じようにするけど。でも迷惑かけたことには変わりないから」
「まあ、いいです。一つの街と一国の半分を天秤にかけて迷う者はいないでしょう。拙僧とて同様の判断をします。それでは」ノンネットは海に背を向ける。「貴方たち。あの男、ヘルヌスでしたか。彼はどうなりました?」
ユカリも振り返る。ヘルヌスと死闘を演じた加護官たちはずたぼろになってもノンネットの元まで馳せ参じたようだ。その後ろでユビスが鼻を鳴らしながら砂の感触を確かめるように足踏みしている。
「申し訳ございません」と加護官の一人が答える。「取り逃してしまいました」
「分かりました。拙僧も貴方たちも、まだまだ修行が足りないということですね。さあ、すぐにカウレンに戻りますよ。これも修業です」とノンネットは加護官たちを奮い立たせるように言う。
ノンネットが加護官の一人に肩車してもらう。本当にこれはノンネットにとって修業なのだろうか、とユカリは疑問を感じたが問いかけはしない。
「それではユカリさん。今生の別れではありませんが、二度と道が交わることはないでしょう。さようなら」
アギノアがユカリと呼んでいたことをしっかりと聞いていたようだ。サイスにばれた時点で覚悟していたつもりだが、寂しい気持ちがぽっかりと開いた胸から零れ落ちた。
奇妙な船の集まり、あるいは塊は誘われるようにビンガ港へと流されてきたが、それを迎えるのはユカリとグリュエーだけだった。町民たちはまだ戻って来ていない。戻って来ていたとしてもしばらく海に近づきはしないだろう。
巨大な船の集まりが漂ってくる様は異様と言う他ない。一部の船は後ろ向きに流されてきて、当然帆船として風に流されてきているわけでもない。様々な魔法をその船体に纏わされているために、興味本位で近づいて来た海魔と呼ばれる化生どもさえ恐れ戦いて沖へと逃げる。
人々が船から降りて来るのをただひたすら眺める。いないはずがないと分かっていても不安が募る。
「ユカ! ラミスカ様!」という何者かの声が聞こえ、そちらの方に目を向けると、人々を掻き分けて次々に恐ろしい生き物や意地悪そうな人物に変身しながら駆けてくる者がいた。
いくら何でも不用心に過ぎるが、ユカリは責める気になれなかった。
「レモニカ!」と叫んでユカリが抱き締めると、レモニカは焚書官の黒衣の姿になる。「無事でよかった」
「ラミスカ様こそ。ご無事で何よりですわ」
「一か月ぶりだね。ラミスカ」とベルニージュがその後ろで余裕を見せて言う。
ユカリはその袖を引っ張り寄せてレモニカと一緒に抱き締める。「良かった。ベル。二人とも無事で良かった。本当にごめんね」
ユカリとレモニカは涙を堪えず、ベルニージュは平気そうに笑みを浮かべて再会と無事を喜ぶ。
「久しぶりだね。背、伸びた? ユカリ、じゃなくてラミスカか」
聞き覚えのある声にユカリは驚き、滲んだ目を拭う。目の前にいたのはネドマリアだった。
「ネドマリアさん!? どうしてここに!? 私たちと同じ船に乗っていたんですか?」
ミーチオン地方以来の再会だ。その旅装は少し軽装なように思えたが、その表情から別の誰かに操られている心配はなさそうだ。どうしてここにいるのか、それは探しているという姉のためなのだろう、とユカリは分かっていた。盗み聞きで知ったことなので言及はしないでおく。
「ううん。別の船。でも、見ての通り一まとめの船団になってね。色々あってベルニージュとレモニカと知り合うことになった。偶像冒涜者ユカリさんの方はすっかり有名人みたいだね」
「その呼び方はやめてください」ユカリは三人の顔を順番に眺める。「それにしてもすごい偶然だね」
「お二人がお知り合いだったなんて」とレモニカは鉄仮面の向こうで相槌を打つ。
「そんなことよりユカリ。一体何が起こったのか。説明してくれる? 海に投げ出されてどうなったのか。それに、ワタシたちが何でこんな目にあったのか、知ってるんじゃない?」
ベルニージュに追及されればどのみち洗いざらい話すことになるだろう。ユカリは観念してフォーリオンの海と交わすことになった魔法の誓いも、シグニカで我らが気高き毛長馬ユビスやドボルグ率いる盗賊団、喪服の真珠像アギノアや青銅像の武人ヒューグ、それに護女ノンネットと何があったかも、全て話した。
「いや、まだだよ」とベルニージュが指摘する。「フォーリオンの海がユカリに目をつけた理由は? 他にも沢山の人がいたのにさ」
ユカリの眼が泳ぎ、言葉に詰まる。ベルニージュに嘘は通じない。特にユカリの嘘は。
今度こそ白状する。全ての出来事の原因であるたった一枚の銀貨、それをある入り江に支払い忘れていたことについて。
ベルニージュはユカリに呆れ、レモニカはフォーリオンに怒り、ネドマリアはただただ笑っていた。
「ほとんど難癖ではありませんか!」と憤りつつも、レモニカは優し気な声に切り替える。「でもユビスも無事で良かったですわ」
ユカリとレモニカはユビスのごわついた毛深い首をなでる。ユビスは気持ちよさそうに鼻を鳴らす。
偶像冒涜者にしてトイナムの入り江を弄んだ娘ユカリは声を潜めて言う。「とりあえずここを離れよう。ノンネットがまだいると思うし、こんな出来事があったんだから救済機構も調査に来るはず」
「それはそうだけど一息つきたい」ベルニージュは少しも譲れないという気持ちを込めて言う。「宿を取ろう。一泊するかはともかく、揺れない寝台に寝転がりたい」
レモニカもネドマリアも大いに賛成し、ユカリも同意する。この町に宿があるかは分からないが、ひとまず海岸から離れ、大通りを戻る。
少しずつ人々が戻ってきている。飛び出してきた家に戻る者、遠巻きに海の様子を窺う者、船団から降りてきた人々に話を聞く者。
「それでユカリ。魔導書の一つでも見つかった?」とベルニージュは当たり前のように尋ねる。
「ベルももうすっかり慣れちゃったんだね」と言ってユカリは真珠飾りの銀冠と真珠の刀剣リンガ・ミルを手に取って見せる。「この二つはとても便利な魔法だった。魔導書でもおかしくないんじゃないかな」
ベルニージュが真珠の刀剣の方を受け取って眺める。奇妙な光は失われている。
「確信がないってことは魔導書の気配は感じないんだね。試してないの?」
魔導書を試すと言えば一つだけ。つまり破壊できるかどうか、だ。
「便利だったからね。もし魔導書じゃなかったらもったいないなって思って。例えば、これはね」
ユカリは魔導書の杖から水を出して銀冠に注ぐと、それをかぶる。そして自分の外観を感じるあらゆる感覚を失う。
ユカリの姿が消えるとベルニージュもレモニカもネドマリアも目を丸くした。
「ユカリ様?」と言って、レモニカはあちこちに手を伸ばし、何度かユカリに触れても気づかない。
ユカリはネドマリアの後ろに回り込み、少しだけ冠を外して肩を叩くとまたすぐに消える。ネドマリアが驚いて振り返った時にはもう誰もいない、かのようだ。
「なるほど」とベルニージュが感心した様子で言う。「ただ消えてるだけじゃないね。むしろワタシたちが魔術をかけられてるのかも」
「ああ、そっか。そっちの可能性もあるんだ」とネドマリアが相槌を打ったのを皮切りに二人の魔法談義が始まる。
ふと視界の端に見覚えのある何かを見て、ユカリは目を向ける。ぼさぼさの髪の毛。重ね毛皮の衣。何度か命を脅かされた剣。それはヘルヌスだった。目的のヒューグを取り逃したものの、加護官たちに傷一つつけられることなく逃げ果せたようだ。特にこそこそすることもなく、町外れへ歩き去る。
一瞬だけ冠を持ち上げ「レモニカ、すぐ戻る」と囁くと、ユカリはヘルヌスを尾行し始めた。