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るるくらげ
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#再会
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「本当に大丈夫?痛くない?」
私は頰を押さえたまま、ゆっくり息を吐いた。店内の空気が、まだ少し重い。みゆちゃんが私の腕をそっと掴んで、
「弥生ちゃん、本当に大丈夫?顔、ちょっと腫れてるよ……」
って、心配そうに言う。他のご主人様たちも、テーブルから立ち上がってこちらを囲むように近づいてくる。常連の田中様は、スマホを握ったまま、静かに私を見てる。そして、スマホの画面を私に見せてくれた。
そこには、モラちゃんの後ろ姿。暗い奥のテーブルで、スマホをいじりながら私を監視してる写真。壁掛け時計が、午前10時、午後2時、明らかに会社の勤務時間帯を示してる。そして、今日の乱入シーン。ドアを乱暴に開けて、私を睨みつける瞬間。暴言の音声が、頬を叩く姿が録音、録画されてる。
私は言葉を詰まらせた。田中様は穏やかな声で、
「弥生ちゃん、あの男の行動は、もう『ただの嫉妬』じゃ済まないよ。暴言、暴行、勤務時間中の店への出入り。これを放置したら、きっとエスカレートする。君の新しい生活を、邪魔し続けるよ」
私の顔は青ざめた。
「これを、彼の会社の公式SNSに投稿する。『社員が勤務時間中に、女性を脅すような行動を取っていました』って、事実だけを淡々と。匿名アカウントで、証拠付きで」
私は息を飲む。
「でも……私だって、気づかれたら……どんな報復が来るか……」
喉が乾いて、声が掠れる。すると、窓際の席に座っていた鈴木様が、静かに手を挙げた。いつも穏やかにコーヒーを飲んで、「弥生ちゃんのコーヒー、楽しみにしてるよ」って言ってくれる鈴木様。今日も、眼鏡の奥の目が、優しく……でも鋭く光ってる。
「僕なら、カワウソ生命のパソコンにログイン出来ますよ」
鈴木様は胸を軽く叩いて、
「ホワイトハッカーです。正確には、セキュリティコンサルタントだけどね。彼の会社の社内システム、脆弱性は前から知ってた。無断ログインは違法だけど……投稿自体は、僕の個人アカウントからじゃなく、会社の公式アカウントから、『内部告発』として出せば、一瞬で拡散する。」
鈴木様は、カワウソ生命全社員のパソコンに、この動画を送信することが可能だと言った。
「証拠は、田中さんが撮った写真と動画。僕が加工して、顔はぼかして……でも状況ははっきりわかるようにする」
私は目を丸くする。
「そんなこと……できるんですか?」
鈴木様は小さく頷いて、
「できる。でも、弥生ちゃんの意思がないと、やらない。君が『もう関わりたくない』って思うなら、これで終わりにできる。彼は、会社から注意を受け、最悪、懲戒処分。それで君の周りから消える可能性が高い」
店内が、また静かになる。みゆちゃんが、私の手をぎゅっと握って、
「弥生ちゃん……私たちも、全部協力するよ。もう、怖がらなくていい」
他のご主人様たちも、頷く。常連の山田様が、「僕、弁護士の知り合いがいるよ。相談だけでも、聞いてもらおうか」って、静かに言う。
私はみんなの顔を見回す。ピンクのくまがぶら下がる天井の下で、みんなが、私の味方になってくれてる。胸の奥が熱くなって、涙がにじむ。
でも、泣かない。もう、泣くのは終わり。
「……ありがとうございます。みんなに、こんなに支えられてるって、初めて実感しました」
私はゆっくり頷く。
「お願いします。あの人の行動を、もうこれ以上、許したくない。私を、『弥生』として、生きさせてほしい」
田中様はスマホをポケットにしまって、
「わかった。今夜中に投稿する。匿名で、事実だけを。君の名前は出さない。弥生ちゃんは、ただ、被害を受けた女性として、守られる側にいる」
鈴木様が、
「僕が投稿のタイミングと、証拠の加工をする。拡散されたら、彼の会社は動かざるを得ない。それで、終わりだよ」
私は深呼吸して、トレーを抱え直す。
「ありがとうございます、よろしくお願いします」
きゅんきゅん♡ではなく、私は一人の『高千穂弥生』として深々と頭を下げた。店内の甘いBGMが、ふっと途切れたみたいに静かになった。みゆちゃんが目を丸くして、田中様と鈴木様が小さく頷いて、他のご主人様たちも、トレーを置いたり、スマホを握ったりしながら、ただ静かに私を見守ってくれた。ピンクのくまがぶら下がる天井の下で、私は制服の裾をぎゅっと握って、もう一度、頭を下げた。
これが、この店での、最後の本物の礼。
「お疲れ様でした。みんな、ありがとう」
声が少し掠れたけど、涙は出なかった。出るのは、胸の奥から湧く、静かな温かさだけ。みゆちゃんが、
「弥生ちゃん……私たちも、ずっと応援してるからね!」
って、抱きついてきて、キャンディの匂いがふわりと包む。他の子たちも、
「いつかカフェに遊びに行くよ♡」
「最初のお客様は私たちだからね!」
って、笑顔で囲んでくれる。常連のご主人様たちは、「弥生ちゃんのコーヒー、絶対飲みに行くよ」って、穏やかに約束してくれた。私はみんなに、もう一度頭を下げて、バックヤードへ入った。
制服を脱いで、私服に着替える。ピンクのフリルが床に落ちる音が、なんだか切なくて、でも清々しかった。ロッカーに、最後のチップを詰めた封筒を置いて、みんなに、「これで、資金が揃ったよ」って伝えた。みゆちゃんが、
「やったー!弥生ちゃんの夢、叶うね!」
って、飛び跳ねる。店を出ると、夕方の商店街の風が頰を優しく撫でた。
その夜、スマホの中では#メイド喫茶暴行#勤務時間中#カワウソ生命社員のキーワードが急上昇し、インスタグラムとXは大炎上した。匿名アカウントから投稿された動画と写真が、一瞬で拡散された。勤務時間中の店内乱入、暴言、私の頰を叩く瞬間。顔はぼかされてるけど、状況ははっきりわかる。
#カワウソ生命の社員が勤務中に女性を暴行
#生命保険会社の営業マンメイド喫茶でストーカー行為
ハッシュタグが次から次へトレンド入り。会社のアカウントに問い合わせと非難のコメントが殺到。夜中には、公式から「調査中」の声明が出た。私は2階の部屋で、スマホを置いて、窓から夜の商店街を見下ろした。灯りがぼんやり揺れて、遠くで車の音がする。
かずちゃんが、下から声をかけてくる。
「弥生ちゃん、もう寝なさい。明日から、本格的にカウンターに立つんだから」
私は小さく頷いて、
「はい……おやすみなさい、かずちゃん」
ベッドに横になって、スマホの通知をオフにする。もう、見なくていい。あれは、私の人生の、最後の鎖だった。今は、もう切れた。
翌朝、私はカウンターに立った。エプロンを着て、豆を挽く。コロコロ、コロコロ。お湯を注いで、ドリップする。カップに注いで、最初の常連さんに、
「いらっしゃいませ。今日は、特別に淹れたコーヒーです」
おじいさんが一口飲んで、
「いい味だねぇ。弥生ちゃんの味だ」
私は微笑んで、
「ありがとうございます」
ここが、私の場所。高千穂弥生の、本当の朝。ピンクの夢は、もう、終わった。木目の香りと、コーヒーの苦みが、これからの私の味になる。自由は、少し苦くて、でも、優しくて、温かい。これで本当に始まるんだ。
その時、チリンと音がして、力ない人影が店に入ってきた。